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第6話 輪郭

目覚ましが鳴る前に、恒一は目を開けた。


天井はまだ暗く、寝室の隅だけが外灯の色で薄く青い。時計は四時五十二分を示していた。もう少し横になっていれば眠れるかもしれないと考えたが、まぶたを閉じると、頭の中で契約番号の並びが先に浮かんだ。


恒一は布団を出て、そっとドアを開けた。廊下の床は冷たく、足裏の熱がすぐに抜ける。洗面所で顔を洗い、キッチンで湯を沸かす。湯気の音だけが部屋に広がる。


真紀が起きてくる前に、恒一はホワイトボードに今日の帰宅予定を書いた。二十一時前後。書いてから、線の濃さだけが目についた。予定を言葉にしても、その時間までの長さは軽くならない。


五時半を少し過ぎた頃、恒一は家を出た。


駅前の広告塔には、新しいキャンペーンのコピーが映っていた。


繁忙期の疲労、高額買取中。


白地に黒い文字で、余計な装飾はない。業務で使う資料と同じ調子だった。恒一は視線を外したが、コピーの語順だけが頭の中に残った。疲労。高額。買取。


電車は早朝の割に混んでいた。吊り革につかまりながら、恒一は窓に映る自分の顔を見た。顔色は悪くない。疲れて見えるほどでもない。表面に異常がないことが、かえって不自然に思えた。


* * *


クロノス・パートナーズの執務スペースは、月末が近づくほど空気が乾く。


始業直後から内線が続いた。相談室の変更、処理室の時間調整、再相談の差し込み。画面の予約一覧は、空欄を埋める速度より新規枠が増える速度の方が少し速い。


森下が資料の束を抱えたまま、恒一の机の横で止まった。


「朝倉さん、十時の失職案件、一次終わってます。十一時半に介護の再相談、十三時に育児の説明希望。あと、夕方に短期のキャンセル待ちが一件」


「順番このままで大丈夫です」


恒一が答えると、森下は紙をめくった。


「今週、全体的に増えてますね。キャンペーンの影響もあるんでしょうけど」


森下は声を少し落とした。


「現時点の疲労期間、査定上がってるって掲示出てました。『機能維持支援枠』ってやつ」


恒一は画面から目を離さずに言った。


「見ました」


森下は「ですよね」と言って去った。軽口を言う余裕がない朝の歩き方だった。


恒一はメニューの通知欄を開いた。社内通達が上から順に並んでいる。


繁忙期対応に伴う査定係数の一時調整。

現在負荷期間(直近九十日)に対する高負荷補正適用。


文言は事務的で、悪意も善意もない。制度の内部では、必要な調整として扱われる語だった。


午前の相談が始まる。


転職前の三か月を売りたい男。介護後の四か月を切り出したい女。失恋の週末を対象にしたい大学生。恒一は同じ調子で確認事項を読み上げ、対象期間を特定し、記録欄へ入力した。声の高さも、話速も、資料を差し出す角度も崩れない。


相談の合間に、恒一は一度だけ自分の手首を押さえた。脈は速くない。胸の内側だけが常に半拍早い。


昼前の短い空き時間、恒一は通常メニューを閉じ、別タブを開いた。


社員向け個人手続き。

本人照会・自己契約事前査定。


クリックする前に、恒一は二秒止まった。止まっても、クリックしない理由は出てこなかった。


画面が開く。


対象期間入力、目的区分、生活機能への影響自己申告。画面構成は、依頼人向けの入力項目とほとんど同じだった。違うのは、氏名欄がすでに埋まっていることだけだった。


朝倉 恒一。


恒一は対象期間欄に、直近九十日の開始日を入力した。終了日は昨日。目的区分は「生活機能維持」。


送信すると、仮査定の金額が表示された。


高い。先日確認した過去の入金より、数字としては明らかに高かった。


恒一は金額を見ても、驚きは薄かった。高くなる理屈は分かる。案件増、睡眠不足、家庭負荷。査定モデルが拾う項目を、仕事として知っている。


知っている理屈で、自分を説得できる。


それが危ういのだと、恒一は分かっていた。


画面下部には、推奨オプションとして「個人契約相談へ進む」「期間再指定」「保留保存」の三つが並んでいた。恒一は一度「期間再指定」を開き、対象期間を六十日に短縮した場合の金額を見た。次に四十五日。三十日。数字は下がる。下がるだけで、迷いは消えない。


恒一は再び九十日に戻した。戻す動作が自然すぎることに、自分で息を止めた。長いほど効果がある、と身体が先に判断している。


画面右側の自己申告欄に、任意の自由記述があった。恒一はカーソルを置き、何も入力しないまま閉じた。語にすると、理由が一つに固定される。


通常メニューへ戻ろうとして、手が止まる。恒一は事前査定結果を印刷しなかった。紙で持てば、手順はさらに前へ進む。進めることは分かっていた。


* * *


午後の業務は、午前より詰まっていた。


会議室での短い共有、相談室二での説明案件、処理室の立ち会い。立ち会った依頼人は、契約書を読む速度が遅く、署名欄の手前で何度もペンを止めた。恒一は急かさず待った。待ちながら、朝に開いた自分の事前査定画面が脳裏に残っている。


依頼人が「今日決めなきゃだめですか」と聞いた。


恒一は規定どおりに答えた。


「本日中の契約は必須ではありません。再相談と保留継続も可能です」


自分で言いながら、言葉の刃先がどちらを向いているか分からなくなった。相手へ向けた案内であり、同時に自分への案内でもある。


相談が終わり、扉が閉まる。恒一は机の上の契約書控えを揃え、ファイルへ戻した。紙の角がきれいに合うまで、二度押さえる。


執務スペースに戻ると、森下が掲示板を見ていた。


「朝倉さん、個人手続きの枠、今日まだ空いてますよ。十七時半と十九時。繁忙期だから申請増えてるって」


森下は振り向いて、すぐに言い添えた。


「勧めてるわけじゃないです。ただ、枠埋まるの早いんで」


「ありがとうございます」


恒一はそれだけ返した。


夕方、予約一覧の隙間に個人手続き枠を入れた。指が一度だけ止まったあと、十九時で確定した。業務終了後。


入力して確定すると、カレンダーの一行に青い枠が追加された。案件名は自動で「個人契約相談(社員本人)」と表示される。


公開範囲は最小。閲覧者制限あり。


画面は、こういう行為を特別なこととして扱わない。手順に沿えば、仕事の一部として処理される。


それが救いにもなり、逃げ道にもなる。


十八時過ぎ、最後の相談が終わったあと、恒一は机に残った書類を片づけた。相談記録、保留案件メモ、処理完了チェック。項目ごとに押印し、担当者欄へサインする。手が迷わず動くほど、頭の内側だけが遅れていく。


内線で受付から連絡が入る。


「朝倉さん、個人枠の担当、長谷さんです。面談室は最奥です」


「了解です」


通話を切ったあと、恒一はモニタの黒い反射に自分の顔を見た。乱れてはいない。疲労はあるが、業務上は問題ない顔だった。問題ないことが、契約理由欄の語と重なる。


* * *


帰宅は二十一時を少し回った。


真紀はキッチンで弁当箱を洗っていて、陽斗はリビングで学校のプリントを広げていた。テレビはついていない。鉛筆の擦れる音だけが室内に残る。


「おかえり」


真紀が言う。


「ただいま」


恒一が上着を脱ぐと、陽斗が顔を上げた。


「お父さん、明日、学校公開だよ。来る?」


恒一は一拍遅れて答えた。


「行けるようにする」


陽斗は「うん」と言って、すぐプリントへ戻った。期待した顔でも、諦めた顔でもない。予定を確認して、次の作業へ戻る顔だった。


夕食は温め直したカレーだった。恒一は遅い時間でも食べきった。真紀は向かいに座っていたが、話題は明日の持ち物と給食費だけだった。


食後、恒一は風呂に入り、髪を拭きながらリビングへ戻った。テーブルの端に、A4のプリントが一枚置いてある。上に「国語 週末課題」と印字され、手書きで題名が書かれていた。


ぼくのすきな時間。


陽斗の字だった。


恒一は無意識に手を伸ばしかけて、止めた。まだ本人が起きている時間に読むものではないと思った。プリントはそのままにして、タオルを畳んだ。


寝る前、真紀が短く言った。


「そのプリント、明日提出だから、なくさないようにだけ見といて」


「分かった」


恒一は返した。返しながら、十九時枠で入れた個人手続きの予定が、明日の画面にも残ることを思い出した。


真紀は食器を片づけながら、視線を上げずに言った。


「学校公開、最初の授業は国語。陽斗、朝からそわそわしてた」


恒一は「うん」とだけ返した。返しが短いことを、自分で聞いた。


真紀は続けた。


「来られるなら、来るって先に言ってあげて。待ってる時間が長いと、あの子、平気な顔するから」


恒一は皿を流し台へ運ぶ手を止めた。平気な顔をする、という言い方に、昼の陽斗の、予定を確認して次の作業へ戻る顔が重なった。


「分かった。明日、朝にちゃんと言う」


真紀はうなずいたが、それ以上は言わなかった。会話は切れ、洗剤の泡が流れる音だけが続く。破綻してはいない。修復とも呼べない距離だった。


寝室へ向かう前、恒一はテーブルの作文を透明ファイルに入れた。折れないように端を揃え、鞄の内ポケットへしまう。提出物を預かる動作としては普通だったが、恒一にはそれが契約書類を扱う動作と似ていた。


* * *


翌日、業務は前日以上に詰まった。


午前中だけで相談四件。昼休憩は十五分。午後は会議と立ち会いが連続し、机に戻れたのは十六時過ぎだった。恒一は画面右上のカレンダー通知を開く。


十九時、個人契約相談(社員本人)。


取り消しボタンはいつでも押せる。恒一は押さなかった。


十八時四十分、恒一は通常業務を切り上げ、個人手続き専用の面談室へ向かった。廊下の最奥、窓のない小さな部屋だった。壁は白く、机と椅子が一組。端末一台。紙の契約書類は封筒に入っている。


対応担当は法務寄りの社員で、顔は知っているが仕事で深く話したことはない男だった。名札には長谷とある。


「朝倉さん、本人手続きですね。確認項目、順に行きます」


恒一はうなずいた。


長谷の声は一定だった。急かしも慰めもない。業務として正しい速度で、項目を読み上げる。


「対象期間、直近九十日。目的区分、生活機能維持。第三者強制なし。緊急性評価は中。現時点の自己申告として、睡眠断続あり、業務継続可能」


恒一は「はい」と答えた。


長谷は続ける。


「売却後、対象期間の記憶は失われます。返還・再取得はできません。契約記録と売却履歴は保存されます」


恒一はその文言を、何百回も他人に言ってきた。今日は相手側で聞く。


「また、対象期間前後に残る感情や生活上の問題が、すべて解消するとは限りません。出来事の事実認識や外部記録は残る場合があります」


恒一は「理解しています」と答えた。声は平坦だった。


長谷は封筒から契約書を出した。署名欄は空欄。対象期間欄には、恒一が入力した日付が既に印字されている。


直近九十日。


そこには、相談室の連続、真紀とのすれ違い、夜中の連絡帳、履歴照会の朝、全部が含まれる。削れば軽くなる。少なくとも、いま感じている重さの一部は消える。


恒一はペンを取った。指先が少し冷たい。


署名欄の上で、ペン先を止める。


紙に触れる直前で、手がわずかに戻った。


止めているあいだ、理由は一つにまとまらなかった。家族のために機能を維持する、という理屈は成立する。仕事を続けるために削る、という理屈も成立する。成立する理屈だけで進めるなら、いま書けば終わる。


契約書の注意事項欄には、小さな文字で項目が並んでいる。返還・再取得不可、対象期間外への影響不定、外部記録残存、通常回復不可。どれも見慣れた語だ。見慣れすぎて、読む速度が速くなる。恒一は意識的に速度を落とし、一行ずつ追った。


対象期間指定の欄の下に、備考として「学校公開期間を含む」と自動表示されていた。入力時にカレンダー連携で拾われた文言だろう。機械は正確で、余計なことは書かない。だからこそ、その一行が刺さった。


学校公開を忘れないようにと言った真紀の声と、作文の紙の手触りが同時に戻る。


長谷は何も言わず待っていた。


恒一はペンを置き、代わりに鞄から社員証ケースを取り出した。ケースの隙間に、昨夜テーブルで見た国語プリントが折って入っている。真紀に「なくさないで」と言われて、無意識にしまっていた。


恒一はプリントを開いた。


ぼくのすきな時間。


最初の一行に、陽斗の字で書かれていた。


ぼくは、ねるまえにお父さんがへんな歌をうたう時間がすきでした。


つぎの行。


ねつがあるとき、お父さんのせなかがあったかくて、ゆらゆらするとこわくなくなりました。


字はところどころ曲がっていて、句読点も足りない。それでも、書いてあることはまっすぐだった。


恒一はプリントから目を上げた。長谷は視線を落としたまま、待っている。業務としての距離を守る姿勢だった。


恒一はもう一度、署名欄を見た。


ここで署名すれば、この数か月の痛みは薄くなるかもしれない。けれど同時に、陽斗の側にだけ残る時間が、また一つ増える。


増えた時間を、恒一は証拠でしか受け取れなくなる。


それは制度の誤りではない。規定違反でもない。ただ、自分がもう選びたくない形だった。


恒一は契約書を封筒へ戻した。


「今日は、提出しません」


長谷は短くうなずいた。


「保留で記録します。再開する場合は、同じ受付番号で可能です」


「お願いします」


恒一は立ち上がった。足元は少し重い。軽くはなっていない。進む方向だけは決まっていた。


部屋を出る前、恒一は長谷に言った。


「ありがとうございました」


長谷は「お疲れさまです」とだけ返した。


廊下へ出ると、執務スペースの照明はすでに半分落ちていた。残っている社員は少なく、キーボードの音がまばらに響く。恒一は自席に戻り、個人手続きのステータス画面を開いた。


申請状態:保留(本人判断)。

再開期限:九十日以内。


確認チェックを入れて保存する。保存ボタンは、契約確定のときと同じ位置にある。恒一はカーソルを置くたびに、手順の近さを意識した。


保存後、画面右上に小さく通知が出る。


「手続きは保留されました。再開する場合は同受付番号を使用してください」


恒一はその文を読み、ブラウザを閉じた。閉じたあとも、文面だけが頭の中で反復する。再開するかもしれない余地を消したわけではない。消さないまま、今日は進まないことを選んだだけだった。


* * *


帰りの電車は混んでいた。


吊り革につかまりながら、恒一は折りたたんだ作文をポケットに入れていた。駅に着いて改札を抜けると、朝見た広告塔がまだ光っている。


繁忙期の疲労、高額買取中。


恒一は立ち止まらずに通り過ぎた。コピーを否定する気はない。制度は今夜も、明日も、誰かに必要だろう。必要な制度と、自分の選択は同じではなかった。


家に着くと、陽斗はまだ起きていた。リビングで色鉛筆を片づけている。


「おかえり」


「ただいま」


恒一は靴を脱ぎながら言った。


「作文、読んだ」


陽斗は少し照れた顔で笑った。


「へんなとこあった?」


「なかった」


恒一は鞄を置き、陽斗の正面に座った。


「犬の歌のやつ、今度、教えてくれるか」


陽斗は目を丸くした。


「え、お父さんが歌ってたのに?」


「いまは、ちゃんと聞きたい」


陽斗は少し考えてから、短くメロディを口にした。節は単純で、途中で笑って崩れた。


恒一は遮らず、最後まで聞いた。うまく合わせて歌うことはできなかったが、急かさずに聞くことだけはできた。


真紀がキッチンからその様子を見ていた。何も言わない。けれど、視線がすぐには外れなかった。


陽斗が歯みがきに行ったあと、恒一は真紀に向かって低く言った。


「今日、手続きはしなかった」


真紀は一拍置いて、「そう」と答えた。大きな反応はない。安堵も詰問もない。ただ、聞いた事実をそのまま受け取る声だった。


「すぐ良くなるわけじゃないけど」


恒一が言うと、真紀はうなずいた。


「うん。すぐじゃなくていい」


それ以上の会話は続かなかった。続かなくても、沈黙の質だけが少し変わっていた。


真紀は給食袋を畳みながら、低い声で言った。


「明日の学校公開、もし途中で仕事入ったら、無理しなくていいから」


恒一は首を振った。


「行く」


真紀はすぐに返事をしなかった。少し間を置いて、短くうなずいた。


「じゃあ、陽斗には朝ちゃんと言って」


恒一は「うん」と答えた。約束の返事を口にすると、胸の内側の緊張がほんの少し下がるのが分かった。


寝る前、恒一は明日の持ち物欄を陽斗と一緒に確認した。連絡帳のチェック欄へ丸をつけるだけの短い作業だったが、恒一は途中で先回りして答えを言わなかった。


「これ、何持っていくんだっけ」


陽斗が欄を指すと、恒一は連絡帳を覗き込み、少し待ってから言った。


「なんて書いてある」


陽斗は自分で読み、考え、のりとはさみを取りに行った。戻ってくるまで恒一は席を立たずに待った。待っている間、焦りはあった。時間は遅い。早く終わらせたい気持ちもある。それでも、急かさないと決めた。


終わるまで五分余計にかかった。


五分かけても、壊れるものはなかった。


* * *


翌朝、恒一は陽斗を急かさずに待った。


連絡帳の確認で手が止まっても、先に時計を見なかった。図工の持ち物を詰めるのに時間がかかっても、「早く」とは言わなかった。代わりに、必要なものを一つずつ声に出して確認した。


「のり、入れたか」


「入れた」


「名札は」


「ここ」


陽斗はランドセルの前ポケットを開いて見せた。恒一はうなずき、ポケットを閉めるのを待った。


玄関で靴紐を結ぶ陽斗の手がもたついた。恒一はしゃがんで手を出しかけ、途中で止めた。


「自分でいけるか」


「いける」


陽斗は舌を少し出して結び終えた。恒一は「よし」とだけ言った。


小さなことだった。何かを取り戻したわけではない。けれど、急かさず待つという選択だけは、いまこの場でできる。


学校へ向かう道で、陽斗はランドセルの肩紐を直しながら言った。


「今日、国語のとき、後ろ見るかもしれない」


「見ていい」


恒一が答えると、陽斗は少し笑った。


「見ても、手は振らないでね」


「分かった」


学校公開の教室は、保護者の気配でいつもより狭く感じた。後方に立つ真紀の隣で、恒一は腕を組まずにまっすぐ立った。陽斗は前の席で、作文を音読する番が回るまで鉛筆を指で回していた。


「ぼくのすきな時間」


陽斗が題名を読んだとき、教室の空気がわずかに静かになった。陽斗は途中で一度言葉に詰まり、すぐに読み直した。犬の歌。熱の夜。背中の揺れ。最後の行で、陽斗はほんの少し顔を上げ、後ろを見た。


恒一は手を振らなかった。うなずくだけにした。


それで十分だと、陽斗が知っている顔で席に戻った。


授業が終わり、廊下で保護者が散る中、真紀が小さく言った。


「来てくれてよかった」


恒一は「うん」と答えた。長い会話は要らなかった。


校門を出る前、陽斗が走って寄ってきた。


「ねえ、さっき、ちゃんと見てた?」


「見てた」


「途中でつまったとこも?」


「そこも見てた」


陽斗は満足した顔でうなずき、友だちの方へ走って戻った。短い確認だったが、恒一にはそれが、いま必要なやり取りの長さに思えた。


* * *


翌朝、駅へ向かう道で、広告塔が視界の端に入った。恒一は文字を読まなかった。読まなくても、そこにあることは分かる。


制度はそこにあり続ける。必要な人の前では、これからも選択肢として機能する。恒一はその事実を否定しないまま、自分の歩幅だけを守って歩いた。


欠けた輪郭は埋まらない。


失われた時間の形だけが、家族の中に残っている。


それでも、いま目の前で過ぎる数分を手放さないことは選べる。


恒一は歩幅を変えず、改札へ向かった。ポケットの中で折りたたんだ作文の紙が、歩くたびに小さく触れた。

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