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第50話

その夜、街はいつも通りの喧騒に包まれていた。

酒場の灯り、屋台の匂い、行き交う人々のざわめき。

誰もが、明日も同じ夜が来ると疑わなかった。


――最初の悲鳴が上がるまでは。


「ぎゃあああああッ!」

石畳の中央で、ひとりの男が暴れていた。

逞しい体躯、膨れ上がる筋肉。

異能で肉体を強化したその男は、素手で馬車を叩き潰し、路上の石畳をひと蹴りで砕いていた。


「金をよこせぇッ! 全部だッ! 俺を止められる奴なんざ、この街にはいねえッ!」


その咆哮に群衆は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。

屋台が倒れ、子どもが泣き叫び、悲鳴が重なった。

衛兵が駆けつけるが、男は笑いながら拳を振り抜く。


一撃。

それだけで盾は砕け、鎧ごと兵が吹き飛ばされた。

血が舞い、仲間たちは一瞬で怯えを見せる。


「はははははッ! これが力だ! これが俺の異能だッ!」

男は血に濡れた拳を掲げ、群衆を見下ろす。

その瞳は理性を失い、ただ暴力に酔いしれていた。


石畳を蹴り砕く度、街の灯りが揺れ、逃げ場を失った人々の悲鳴が夜を裂いた。

暴力はもはや金品目的ではなく、ただ破壊そのものへと変わっていた。


その混乱の只中に――ひとつの影が現れる。


黒い外套を纏い、仮面をかぶった男。

街灯に照らされ、静かにその場に立つ。


「……エレボス……」

逃げ惑う人々の中から、誰かが名を呟いた。


仮面の奥から低い声が響く。

「舞台の幕が勝手に上がったか……くだらぬ茶番だ」


拳を振り上げた暴漢の前に、エレボスは一歩踏み込む。

夜の街に、刃と拳が交錯する音が鳴り響いた。

拳を振り上げた暴漢の前に、エレボスは一歩踏み込む。


轟音。

振り下ろされた拳が石畳を叩き割り、砂塵が弾けた。

破片が飛び散り、逃げ遅れた市民が悲鳴をあげる。


だが、その拳はエレボスの頬をかすりすらしなかった。

仮面の男は一瞬で死角に滑り込み、刃を閃かせる。


「ぐッ……!」

暴漢の腕に赤い線が走り、鮮血が飛び散った。

だが痛みを訴える声はなく、むしろ笑い声が響いた。


「ハハハハッ! いいぞ、やっと遊べる相手が来た!」

男は血まみれの腕を振り回し、さらに筋肉を膨張させる。

肉体は常識を超え、皮膚の下で筋が軋む音さえ聞こえた。


エレボスは冷静に観察する。

「……ただの肉体強化ではないな。力を過剰に引き出し、反動を無視している」


「反動? そんなもん知るかッ!」

暴漢は笑いながら叫び、瓦礫を掴んで投げつけた。

巨岩のような塊が唸りを上げて飛ぶ。


エレボスは刃を振り抜き、空気ごと裂いて砕いた。

破片が散る中、低く呟く。

「……この街を壊す気か」


「壊すさッ! 力があるから壊す! 理由なんざいらねえッ!」

その叫びは狂気そのものだった。


群衆の悲鳴が重なり、路地は地獄と化す。

瓦礫、炎、泣き叫ぶ子ども――。

暴漢の足が石畳を踏み抜くたびに、街そのものが悲鳴を上げていた。


エレボスは刃を構え直す。

仮面の奥の瞳が鋭く光り、低い声が響いた。


「ならば――この刃で幕を引くしかない」


エレボスの声と同時に、夜の空気が裂けた。

閃光のごとき刃が走り、暴漢の胸を深々と抉る。


「ぐッ……がははははッ!」

返り血を浴びながら、男は苦悶ではなく歓喜の笑みを浮かべた。

切り裂かれた肉体が震え、血が溢れても、その瞳は狂気に光っていた。


「もっとだ! もっと壊せ! もっと殺せェッ!」

拳が唸りを上げる。

刃が受け止めるたび、衝撃波が石畳を砕き、周囲の建物が崩れ落ちていく。


「くそっ、離れろ! 建物が崩れるぞ!」

「こっちだ、早く!」

逃げ惑う人々の叫びが四方から響き、混乱は雪崩のように広がっていく。


火の手が上がり、瓦礫が路地を塞ぐ。

悲鳴と怒号が入り乱れ、秩序は音を立てて瓦解していった。


「……これ以上放置すれば街そのものが死ぬ」

エレボスは仮面の奥で息を整える。

刃を構え直し、一気に踏み込む。


しかし、暴漢は更なる変貌を遂げていた。

筋肉が異様に膨張し、皮膚が裂けて血が滲み出す。

骨が軋み、内側から壊れつつも、なお動きを止めない。


「痛え……だが、それがいいッ! 痛みが力を呼ぶッ!」

拳が振り抜かれるたび、風圧だけで家屋の壁が吹き飛ぶ。

逃げ遅れた市民が瓦礫に巻き込まれ、再び悲鳴が上がった。


エレボスは一瞬そちらに視線を走らせる。

その隙を狙い、暴漢の蹴りが迫った。


「……ッ!」

刃で受け流したものの、衝撃は凄まじく、石畳を数メートル滑らされる。

仮面の奥で冷や汗が流れる。


「力だけなら、私を凌駕する……」


暴漢は嗤った。

「そうだろう! これが力だ! これが俺だ! この街も、人間も、全部ぶち壊すッ!」


その叫びは、もはや一人の犯罪者の声ではなかった。

街を震わせ、瓦礫の中に取り残された人々を絶望に染める――暴力の化身そのものだった。


エレボスは瓦礫を跳び越え、刃を突き出す。

「黙れ」


鋭い突きが男の肩を貫いた。

だが――。


「がははッ! いいぞッ! もっと来いッ!」

血が噴き出すのも構わず、暴漢はその刃ごと肩を掴み、力任せに押し返した。


「……!」

圧倒的な膂力に、エレボスの体がよろめく。

刃を引き抜き、すぐに体勢を立て直すが、男は笑いながら自らの胸を叩いた。


「これが俺の異能だ! 肉体の限界なんざ関係ねえッ! 筋肉が裂けても、骨が砕けても、次の瞬間にはまた膨れ上がるッ!」


その肉体はすでに常人の形を逸脱していた。

膨張する筋繊維は皮膚を突き破り、赤黒い血を滴らせながら蠢く。

まるで人間の姿をした怪物。


エレボスは低く呟く。

「……なるほど。力を引き出すたびに細胞が破壊される。だが、その痛みを――快楽に変換しているのか」


「そうだ! 俺は痛みで昂ぶる! 苦しいほど強くなる! だから止まらねえッ!」


再び拳が迫る。

エレボスは刃で受け、火花が散った。

だが衝撃は刃を通じて腕を痺れさせるほど重い。


「制御不能……いや、制御を最初から放棄しているだけか」

仮面の奥で冷徹な視線が光る。


暴漢は血を吐きながらも笑い続ける。

「痛え……! だがもっとだ! もっと壊せば、もっと強くなれるッ!」


彼の肉体はすでに悲鳴をあげていた。

筋肉が裂け、骨が軋み、血が滲み出しながらも――暴走は止まらない。


エレボスは街の惨状に目を走らせる。

炎に包まれた家屋、泣き叫ぶ市民、崩れ落ちる建物。

「……この戦いが長引けば、街そのものが消える」


刃を構え直し、冷ややかに告げた。

「幕を閉じる。お前の肉体が残っていようといまいと、な」


暴漢は嗤った。

「上等だッ! もっと痛みをくれ! もっと俺を強くしろォッ!」


狂気の叫びと共に、暴漢の肉体は限界を超えて膨れ上がった。

筋繊維が裂け、皮膚が破け、血と肉片が飛び散る。

だが崩れ落ちるどころか――その度に再生し、さらに肥大していく。


「ぐははははははッ! これだ! これが俺の異能の果てだァッ!」


その姿はもはや人間ではなかった。

膨張した肉塊に埋もれた顔、歪んだ骨格、脈打つ血管が網の目のように浮かび上がる。

全身から蒸気のように熱気が吹き出し、周囲の空気さえ震わせていた。


「……化け物だな」

エレボスの低い声が、瓦礫と炎の中に沈む。

仮面の奥の瞳は冷徹に怪物を映していた。


暴漢――いや、怪物と化したそれは咆哮を上げた。

音だけで窓ガラスが砕け、耳を押さえた市民が地に崩れる。


「潰すッ! 全部潰すッ!」

巨腕が振り下ろされ、路地全体が陥没する。

石畳が砕け、衝撃波が波紋のように広がり、家々を次々と押し潰していった。


「ひッ……!」

「助けてくれ……!」

逃げ遅れた人々が絶望に縋る声をあげる。


エレボスはすぐさま跳び込み、瓦礫の下敷きになる寸前の少女を抱き上げた。

「走れ。振り返るな」

少女は涙で濡れた顔を振りながらも、必死に駆け去っていく。


だがその間にも、怪物の暴走は止まらなかった。

崩れた建物が次々と火を噴き、街全体が火の海と化す。


「いいぞォ! 街が泣いてるッ! 人間が叫んでるッ! これ以上の快楽があるかァッ!」


もはや理性は完全に吹き飛び、怪物は破壊衝動そのものとなっていた。


エレボスは刃を構え直す。

「……幕は近い。だが、お前が死んでも被害は消えぬ」


仮面の下で息を整え、低く呟く。

「――これ以上、犠牲を増やさぬために」


怪物が再び咆哮を上げ、炎と瓦礫を巻き込みながら突進してくる。

怪物が再び咆哮を上げ、炎と瓦礫を巻き込みながら突進してくる。

その姿は街そのものを呑み込む災厄。

崩れ落ちる建物の影で、人々はただ震えながら、死の足音を待つしかなかった。


エレボスは仮面の奥で目を閉じ、呼吸を整える。

次の瞬間、爆ぜるように踏み出した。

刃が闇を裂き、炎の中を一直線に駆け抜ける。


「うおおおォォッ!」

怪物の咆哮が轟き、巨腕が振り下ろされた。

その一撃は地を抉り、石畳を波のように砕きながら迫る。


だが、エレボスは揺るがなかった。

刃を振るう。


閃光の一閃。


怪物の腕が空中で止まった。

次の瞬間、巨腕が肩口から斬り飛ばされ、血と肉片が雨のように降り注ぐ。


「ぐッ、あああああああァァァ!」

絶叫と共に怪物はのたうち、しかしなお立ち上がろうとする。

筋肉が裂け、骨が砕けても、再生の異能が無理やり立たせる。


「もっと……痛みを……もっと……!」

血に濡れた口がなおも笑みを浮かべる。


エレボスは静かに刃を構え直した。

「……お前の舞台は、ここで終わる」


疾駆。

一息に間合いを詰め、渾身の一閃が怪物の胴を断ち割った。

赤黒い肉塊が二つに裂け、血の海が石畳を染めていく。


咆哮は途絶えた。

巨体は膝から崩れ落ち、炎と瓦礫の中に沈んでいく。


――静寂。


市民たちは声を失い、ただその光景を見つめていた。

やがて誰かが震える声で呟いた。

「……アーテーの仕業じゃ、なかったのか?」


噂に怯えていた彼らの目に、真実が映る。

そこにいたのは神の代行者でも、信徒でもない。

ただ己の異能を暴走させ、破壊の悦びに酔った一人の怪物。


エレボスは血に濡れた刃を振り払い、静かに背を向けた。

「……愚かな欲望の果て。ただの人間の罪だ」


炎に包まれた街を背に、仮面の影が闇に溶けていく。

残されたのは、破壊の跡と、かすかな安堵の息だけだった。


夜は再び静けさを取り戻し――だが街の人々の胸には、深い恐怖と疑念だけが残った。

アーテーとは無関係に蠢く「異能」という脅威が、確かに存在するのだと。


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