第51話
王都東錬区──。
朝靄の中、石畳にしみ込んだ血は、まだ完全には洗い流されていなかった。
前夜の惨劇を目撃した者はわずかだが、見た者も、見ていない者も、すでに恐怖に囚われていた。
「おい、また出たんだとよ」
「昨日のやつか…? 本当か、それ」
「本当さ。見た奴が言ってた。身体を裂かれて…内臓まで……」
通りを行き交う人々が、小声で互いに顔を寄せる。
誰もが目を逸らしながら、しかし噂だけは止められなかった。
それは、もはや事実かどうかなど関係なく、『恐怖そのもの』が一人歩きしているだけだった。
「夜に出歩くなってよ。…“例の連中”の仕業かもしれねえ」
「アーテーの信徒だろ。あいつら、全員捕まったはずじゃ…」
「だがよ、噂じゃ“神”はまだ生きてるって…」
『神』という言葉が出た途端、話し声が途切れる。
まるでその名を口にするだけで災厄を呼び込むかのように、
人々は互いに目を合わせ、重苦しい沈黙が落ちた。
そして、その静寂を破るかのように、女が震えた声で言った。
「昨夜、聞いたのよ…悲鳴を…」
「悲鳴?」
「ええ…普通の人じゃなかった。あれは……『笑ってた』のよ」
一瞬で周囲の空気が凍りついた。
人々の脳裏に、顔も知らぬ『異形』の姿が想像で描かれていく。
恐怖は、事実ではなく“想像”によって膨れ上がっていくのだ。
王都の警邏隊も慌ただしく動いていた。
東錬区だけでなく、南西の商業区でも巡回が強化され、
各所に立て札が貼られた。
──『夜間外出禁止』
──『東錬区方面への立ち入りを控えること』
だが、これらは市民の不安を和らげるどころか、
かえって“何か得体の知れないもの”が動いている証拠として、
さらなる恐怖を煽る結果となった。
夜。
酒場の奥で、数人の男たちが密かに集まっていた。
酒を煽る手は震え、声を潜めながら噂を重ねる。
「聞いたか? アーテーって奴、死んじゃいねぇんだとよ」
「馬鹿言え、ただの狂信者だって聞いたぞ」
「違ぇよ。俺の従兄弟が見たってさ…そいつの目の前で“消えた”んだとよ」
「消えた……?」
男たちの間で、まるで炎が油を吸い上げるように噂が燃え広がる。
それは事実よりも速く、夜の王都を覆い尽くしていった。
その頃──。
エレボスは、東錬区の廃工場跡で膝をつき、瓦礫の上から何かを拾い上げた。
血の付いた布切れだった。
その裏には、震える手で刻まれたような文字があった。
『オレは、アーテーを見た』
「……やはり、お前か」
仮面の奥で、エレボスの瞳が細められる。
群衆は恐怖を囁き、警邏隊は翻弄され、王都は今、混沌へと落ちていく。
その中心で、狂気のピエロは嗤っていた。
東錬区の裏路地は、湿った闇に沈んでいた。
月は雲に隠れ、街灯は壊れたように明滅を繰り返す。
その不自然な点滅は、まるで誰かが『意図的に』電流を断続させているかのようだった。
エレボスは足を止め、わずかに耳を澄ます。
人の気配はない。だが、湿った空気の奥に、ひどく不快な「笑い声」がかすかに混じっている。
「……また、ここか」
足元には乾ききらぬ血の跡。
その先には、異様に歪んだ人影があった。
全身の関節が逆向きに折れ曲がり、肘から突き出た骨が路地の石畳を削っている。
それは明らかに、ただの人間ではなかった。
術式によって肉体を変質させられた『失敗作』だ。
そのとき――
ギィィィィ……ッ
路地の奥、錆びた鉄扉が勝手に開く。
生ぬるい風と共に、耳障りな声が流れ込んできた。
「やぁ……来たねぇ、エレボス」
声は芝居がかり、だが異様な軽さがあった。
その一音ごとに、皮膚の裏を針でなぞられるような不快感が走る。
暗闇の奥、提灯のように淡く浮かぶ白い仮面。
いや、仮面ではない。顔全体を覆う厚塗りのメイク――赤、黒、白。
センスの欠片もないピエロの化粧が、闇に浮かび上がっていた。
その中心で、狂気のピエロは嗤っていた。
「やぁっと、お会いできたなァ……待ってたんだ、ずぅっとねぇ!」
アーテー。
かつて名を聞いただけで、王都の影がざわめいた存在。
信徒集団を裏から操り、血と混沌を撒き散らした狂人。
エレボスにとって、避けられぬ『宿敵』だった。
だが、エレボスは一歩も動かない。
仮面の下で息を整え、低く呟いた。
「術者は……お前か」
「んっふふふっ、まぁ、半分正解かなァ。
ボクが操ってるのは、この子たちさ……見て見て、可愛いでしょぉ?」
アーテーの指先が軽く弾かれると、折れ曲がった関節の影が一斉に動き出した。
腐りかけた声帯から、歪な笑いが漏れる。
「ァ……ァア……ア……」
エレボスは身構えた。
魔力を腕に流し込み、拳を握る。
だが、その一瞬、アーテーはさらに一歩、闇の奥へ退いた。
「追っておいでよォ、エレボス。
ボクは逃げない……ただ、遊ぶだけだ。
だってさぁ――退屈なんだもんッ!」
嘲るような笑い声とともに、アーテーの姿は闇に溶けた。
次の瞬間、十数体の『失敗作』が同時に跳びかかってくる。
金属が擦れる音、骨が砕ける音、湿った血の匂い。
路地は一瞬で、殺戮の舞台へと変わった。
エレボスは歯を食いしばり、ひとり呟く。
「……必ず、終わらせる」
闇の奥で響くアーテーの高笑いが、しばらく消えない。
薄闇の中、アーテーは石造りの廃礼拝堂の屋根に腰を下ろし、頬に塗りたくった白粉を指先でなぞりながら夜の街を見下ろしていた。街の灯りは、彼にとって単なる舞台装置に過ぎない。路地裏を歩く人々も、広場で笑う子供たちも、誰一人として気づいてはいない。『この世界はもう、俺のために幕が上がっている』という事実を。アーテーは小さく笑い、薄い唇を裂くようにしてその笑みを歪めた。
「さてさて、次はどんな台詞で観客を震わせてやろうか…?」
指先に残った白粉をひと吹きで散らすと、彼の手元には一枚の手書きの地図があった。赤い線で大きく囲われたのは、王都東錬区の一角。そこは『かつての信徒たち』が潜伏していた場所で、既に壊滅したはずの集団の残骸が点在している。だが、アーテーにとって重要なのは彼らではない。むしろ逆だ。
「壊れた信徒たちはいい…彼らは役目を終えた駒だ」
視線は地図の端、細く描かれた地下通路の印に向けられる。そこに、まだ“エレボス”がたどり着いていない秘密が眠っているのを、アーテーは知っていた。
「ふふ…来るぞ、きっと来る。あの仮面の男は俺を嗅ぎつける。だが、それでいい。追う者と追われる者、舞台はその方が盛り上がる」
まるで観客に語りかけるように両手を広げ、彼は夜空に向かって誇張された仕草で頭を垂れた。狂人のそれではあるが、決して無秩序ではない。アーテーの計画は綿密で、そして残酷だ。
その時、廃礼拝堂の下から低い呻き声が響いた。アーテーは覗き込み、そこに転がる男の身体を見下ろす。信徒崩れの一人。目は虚ろで、口元からは涎と血が混じり合って滴っていた。アーテーは派手な赤の靴先で軽くその男の顎を持ち上げると、愉快そうに囁いた。
「お前の罪を、もっと…もっと“美しく”しようじゃないか」
次の瞬間、男の身体が痙攣し、喉を掻きむしるような声をあげる。アーテーの術ではない。男の精神に植え付けられた『恐怖と幻覚』が暴走し、体中の血管が浮かび上がっていた。彼は新たな実験の成果を確認するように首を傾げ、満足そうに鼻を鳴らした。
「ほら見ろ。俺の台本通りに踊り出した」
遠く、風の流れに乗って微かに鉄と煙の匂いが届いた。それは東錬区の一角で、エレボスが追跡を続けている証だった。アーテーは小さく息を呑むと、唇の端を釣り上げた。
「来いよ、仮面の道化…幕はもう上がってるんだ。お前がどんな台詞で返すのか、俺は心から楽しみにしてる」
そして、廃礼拝堂の屋根を蹴り、アーテーは軽やかに夜の街へと飛び降りた。彼の影は灯りに溶け、足音ひとつ残さず消える。まるで『この街そのものがアーテーの舞台装置』であるかのように。
だが、アーテーの残した小さな仕掛けはすでに動き始めていた。東錬区の地下で眠っていた“異形”が、ゆっくりと目を覚ます。血走った瞳孔が開き、嗄れた喉から獣とも人ともつかぬ声が漏れた。
闇に沈む礼拝堂。
崩れかけたステンドグラスから漏れる僅かな光が、ひび割れた床に滲む。
その中心で、アーテーは両腕を広げ、まるで舞台の幕開けを告げる役者のように立っていた。
「ははっ……あぁ、やっぱり最高だな……」
肩を震わせ、喉の奥で笑いを転がす。
血の匂いと鉄錆の空気に酔いしれたかのように、陶酔した表情で天井を仰ぐ。
だが、その目の奥には焦点がない。
まるで世界を見ているようで、世界など見ていない。
「俺は……選ばれたんだよ。運命に、さ」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
床に散らばった無数の死体に語りかけているのか、それとも、自分自身に言い聞かせているのか。
「破滅も、狂気も、痛みも……全部、俺が『正しい形』に戻してやる」
言葉を吐くたびに、声がわずかに上ずる。
理性の皮をかぶった何かが、アーテーの奥底で蠢いていた。
「なぁ、エレボス……聞こえてるだろ?」
「俺はお前を“壊す”ために生まれてきたんだ。違うか?」
笑い声が、砕けたガラスのように鋭く響き渡る。
芝居がかった口調の奥に、揺るぎない執念が見え隠れしていた。
「いつか、この街は“終わる”。俺の手で、な」
礼拝堂に充満する沈黙の中、アーテーの声だけが、終わりの鐘のように鳴り響いていた。
東錬区の夜は深く、街灯の光もところどころ消えかけている。瓦礫が散らばる路地の隅、錆びついた鉄扉の向こう、廃工場の影にアーテーは立っていた。白と赤のメイクが月明かりに浮かび、歪んだ口元は笑みを装いながらも、どこか狂気じみた熱を帯びている。手にはかすかに血の匂いが付着しており、彼の視線は夜の闇を貫くように鋭く光っていた。
「ははっ……やっと来たな、エレボス。待ってたぜ、君が来るのを」
アーテーは大げさに両手を広げ、まるで舞台の中央で観客に語りかける役者のように足を踏み鳴らす。声は高く、軽やかに響きながらも、底に潜む狂気を隠すことはできなかった。廃工場の鉄骨がその声に反響して、夜の空気に冷たい振動を刻む。
「見ろよ、この街。瓦礫の山、焦げた壁、呻きながら転がる連中……全部、俺の舞台だ。綺麗だろ? ほら、笑え、泣け、叫べ、俺の舞台で踊れ――ふふっ」
手元の赤い地図を掲げ、指で示す先には、東錬区の地下通路の印があった。ここに潜む異能者たちも、彼にとっては単なる駒に過ぎない。信徒崩れの残骸すらも、舞台装置のひとつでしかない。だが、ここで最も面白いのは――目の前に立つ仮面の影、エレボスその人だ。
「お前はいつも冷たいな、エレボス……静かで、氷みたいで、何を考えてるか分からない。でもな、俺には全部見えるんだ。お前の胸の奥、抑え込んだ熱、必死に正義を握り締めて震えてるその鼓動……俺は知ってる」
アーテーはぐっと近づき、月明かりに照らされたエレボスの仮面をまじまじと見つめる。手を伸ばせば届きそうな距離だが、その手は決して触れない。彼の狙いは、物理的な攻撃ではなく、心理を揺さぶることだ。
「さぁ、来いよ。もっと前に出ろ。俺の狂気を、全身で感じろ。お前の冷たい視線が、俺をもっと踊らせるんだ。俺はな、破壊するために生まれてきたわけじゃない、俺の狂気を見せるために生まれてきたんだ。ふふっ……お前の心臓の奥に眠る炎を、俺が引き出してやる」
アーテーの指先が空気を切ると、瓦礫が小さく跳ね、錆びた鉄がかすかに軋む。その動きに呼応するように、廃工場の闇がざわめき、息をひそめた街全体が微かに震えたかのようだった。エレボスは動かない。冷静に、静かに、全てを見据えている。怒りでも恐怖でもなく、ただ、全てを受け止めるその態度が、アーテーの狂気をさらに刺激する。
「ほら、もっと見せてくれよ、その氷みたいな目で俺を睨め。正義の仮面を被ったまま、俺の狂気にどう耐えるか……その瞬間を、俺は心から楽しみにしてる」
アーテーは足元の瓦礫を蹴り、軽やかに跳ね上がる。空中で一瞬静止し、両腕を広げ、夜空に向かって叫ぶ。風に混ざった彼の声は、夜の街全体に波紋を広げ、どこまでも鮮烈に響いた。
「なぁ、エレボス……この舞台は、まだ序章に過ぎない。俺とお前で、街全体を狂気の劇場に変えてやる……さぁ、踊ろうぜ、俺の舞台で」
アーテーの瞳が狂気に光り、笑みがさらに歪む。
その瞬間、静かな夜に、二人の緊張と差異が濃く刻まれた。狂気と静寂、激情と冷徹、舞台は、二人の存在そのもので彩られようとしていた。




