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第49話

錆びた鉄の匂いが、湿った石畳にまとわりついていた。

夜の東錬区は、昼の喧騒が嘘のように沈み返り、崩れかけた倉庫と廃工場がただ闇に沈んでいる。


エレボスは壁に手を触れ、そこに残る熱を確かめた。

それは魔術の残滓ではなかった。

人間の肉体に刻みつけられた、異様な力の痕。


「……個人の異能か」


キメラはもう存在しない。

だがアーテーに魅せられた者たちは、己の身を削って力を振るうようになっていた。


背後で鉄くずが転がる音がする。

振り向いた先に、痩せた体躯の男が立っていた。

右腕だけが異常に膨れ上がり、血管は蛇のように脈打ち、皮膚の下で筋肉が獣のように蠢いている。


「……お前は」


男は笑った。

「俺は選ばれた役者さ。アーテー様が脚本をくれる。俺はその通りに舞台を演じるだけだ」


言葉が終わるより早く、男の右腕が地を叩いた。

石畳が砕け、粉塵が舞う。

その一撃は質量だけで周囲を破壊する暴力だった。


エレボスは仮面の奥で息を殺し、姿勢を低くする。

この相手は魔術に縋る者ではない。

己の肉体そのものを異能に変え、力としてぶつけてくる敵。


男は咆哮と共に踏み込んだ。石畳を粉砕する踏み込みの勢いだけで、衝撃波のような風が吹き荒れる。

その拳は柱をも粉々にする質量を帯び、真正面から叩き潰そうと迫ってきた。


エレボスは一瞬遅れて身体を滑らせ、拳を紙一重でかわす。

背後の壁が砕け、鉄骨がねじ曲がる音が響いた。


「逃げるか……いや、舞台に立つのなら、最後まで踊れよ!」


男は笑いながら連撃を繰り出す。

異様に発達した右腕は、もはや自分の体重を支える脚のように地を叩き、獣じみた動きで跳躍する。

鉄骨を握り潰し、それを武器のように振り回して襲いかかる。


エレボスは呼吸を整え、低く呟いた。

「……力を誇示するだけか」


仮面の下、瞳が鋭く光る。

相手の動きは荒々しいが、踏み込みの軌跡と筋肉の張りを観察すれば、その限界が見えてくる。

膨張した右腕に全てを頼る戦い方は、必ず隙を生む。


再び拳が迫る。


轟音と共に、空気そのものが圧し潰されるような重圧が襲いかかる。

拳が掠めただけで頬を打つ風は刃物に等しく、わずかに後れれば頭蓋ごと粉砕されるだろう。


エレボスは身を低く沈め、地を滑るように横へ逸れた。

直後、背後の石壁が崩れ、粉塵と破片が雨のように降り注ぐ。


「はははっ! 逃げるだけか!」


男は歓喜に震えながら、異様に肥大した右腕を振り回す。

筋肉の塊が唸りを上げ、瓦礫をも武器に変えて襲いかかる。

踏み込みのたびに地面は裂け、鉄骨は軋んだ。


エレボスは一撃ごとに退き、刃を構えては崩さず、ただ観察を続ける。

仮面の奥の瞳が、獲物を測る猛禽のように静かに光っていた。


――偏りすぎている。

右腕に宿る異能が強大であるほど、他の部位は支えきれていない。

背筋が引き攣り、踏み込みに遅れが生じる。

過度な力は必ず、己を蝕む。


「舞台の観客に見せてやれ! 俺が選ばれた力を!」


男が最後の一撃を放つべく、天を裂くように右腕を振りかぶる。

その瞬間、エレボスの身体が疾駆した。


刃が粉塵を裂き、最短の軌跡で右腕の腱を断つ。


乾いた音と共に巨腕が制御を失い、石畳に叩きつけられた。

瓦礫が弾け飛び、男の笑い声が呻きに変わる。


「が……っ、俺の、舞台が……!」


エレボスは無言のまま刃を構え直す。

倒れるか、なおも立ち上がるか。

その選択すら、すでに相手の自由ではなかった。

乾いた音と共に巨腕が崩れ落ち、瓦礫を巻き込みながら石畳を砕いた。

呻き声を漏らす男の肩からは血が噴き、断たれた腱が力なく震えている。


「……終わりだ」


エレボスが低く呟き、刃を構え直したその時――。


男の全身が痙攣した。

裂けた右腕の肉が、焼けるような熱を帯びて膨張していく。

血管は黒く浮かび上がり、胸や背中にまで這い広がった。


「まだだ……まだ終わらねえ! アーテー様の舞台は、ここからなんだよォッ!」


絶叫と共に肉体が弾け、筋肉が膨れ上がる。

今度は右腕だけでなく、左腕や脚までもが異常な太さに歪み始めた。

骨が悲鳴を上げるように軋み、皮膚が裂けて血が飛び散る。


それは強化というよりも、自壊を代償にした暴走だった。


次の瞬間、男の姿は目の前から掻き消えた。

いや、速すぎて目が追えないだけだ。

床を蹴った爆音と共に、巨大な影がエレボスの背後に迫っていた。


「潰れろォッ!」


地鳴りのような轟音が響く。

石畳ごと抉り取る拳が、仮面の男を叩き潰さんと振り下ろされた。


エレボスは刃を交差させ、衝撃を受け流す。

しかし暴走した肉体は異様な粘りを見せ、斬撃が深く食い込んでも止まらない。


「クククッ……はははははッ! 俺はもう止まらねぇ! 俺の身体は、俺を舞台に変えるんだ!」


男の目は血走り、涙と涎を垂らしながら嗤っていた。

その姿はすでに人の意志を越え、ただアーテーに与えられた『役割』に燃え尽きようとしていた。


エレボスは一歩退き、仮面の奥で目を細める。

「……ならば、幕を下ろす」


再び拳が迫る。


轟音と共に、空気そのものが圧し潰されるような重圧が襲いかかる。

エレボスは地を蹴り、刃で巨腕の腱を断ち切った。

肉が裂け、右腕は制御を失って地に叩きつけられる。


「がっ……俺の、舞台が……」


呻き声と共に、男はよろめいた。

しかし次の瞬間、裂けた肉が焼けるように膨張し始める。

血管が黒く浮き、胸や背中に這い広がる。


「まだだ……まだ終わらねえ! アーテー様の舞台は、ここからなんだよォッ!」


全身が痙攣し、筋肉が膨れ上がる。

右腕に留まらず、両脚までもが獣じみた太さに歪み、骨が悲鳴を上げて軋む。

肉体は強化を超え、崩壊寸前の暴走へと突き進んでいた。


地を蹴った瞬間、姿が掻き消えた。

空気を裂く爆音と共に、エレボスの背後に影が迫る。


「潰れろォッ!」


拳が地を抉り、石畳が粉々に砕け散る。

その凄まじい暴力を、エレボスは刃で受け流し、衝撃を背後の壁に逃がした。


「はははっ……止まらねぇ! 俺は選ばれたんだ! アーテー様が見てる、この舞台の主役は俺なんだよォ!」


血走った瞳で叫ぶ男。

その姿は、もはや人の意志ではなく、妄執に突き動かされる狂気の塊だった。


だがそのとき。


――空気が変わった。


闇が揺らぎ、冷たい気配が降り立つ。

月明かりを背に、一人の男がそこに佇んでいた。


白塗りのように不気味な顔。

芝居がかった気配を纏いながらも、纏う視線は氷よりも冷たい。


「……アーテー」


エレボスの声が低く響く。


暴走の最中だった男は、その姿を見て歓喜に打ち震えた。

「ア、アーテー様ァ! 俺はここにいます! どうか、俺を役者に……!」


歓喜の絶叫。

血と汗に濡れた顔は、涙で歪んでいた。


だが。


アーテーは一歩も動かず、ただ汚れたゴミを眺めるような視線を投げかけた。

そこには、憐憫も期待も存在しない。

あるのはただ、吐き捨てるような冷たさだけ。

アーテーは無言だった。

だが、その沈黙こそが絶対の拒絶だった。


「……っ、アーテー様……?」


男は震えた声を漏らす。

その表情にはまだ歓喜が残っていた。

だが次第に、それは困惑へと変わっていく。


「お、俺は……選ばれたはずだ……この力だって……! あんたのために……」


異形に歪んだ両腕を見せつけるように掲げる。

血と汗で濡れた身体は崩壊寸前。

骨が軋み、肉が裂け、それでも必死に自分を証明しようとした。


アーテーの瞳は揺るがない。

ただ冷笑すら見せず、そこに存在していること自体が侮蔑の証のようだった。


「や、やめろよ……そんな目で見るな……俺は……俺は主役なんだ……!」


男は叫び、地を踏み抜く。

暴走した肉体がさらに膨張し、皮膚が裂け、血飛沫が散る。

その力はもはや自壊の域に達していた。


「アーテー様! 俺を見てくれェッ!」


絶叫と共に拳が振り下ろされる。

だがその動きは、もはや型を成していない。

歪んだ筋肉に引きずられたただの暴力だった。


エレボスは一歩踏み込み、刃を振り抜いた。


肉が裂け、血が弧を描く。

男の巨腕は肩から断たれ、瓦礫の上に転がった。


「が、あ……ッ!」


呻きと共に膝をつく男。

残された肉体は耐え切れず、膨張したままひび割れていく。


それでも男はアーテーを見上げ、必死に言葉を紡ごうとした。

「俺は……あんたに……選ばれ……」


その瞬間。

肉体が限界を超え、爆ぜるように崩壊した。


血と肉片が散り、残ったのは呻き声すら上げられぬ骸。


アーテーは一瞥すらせず、ただ舞台の幕が自然に下りたかのように視線を逸らした。


エレボスは刃を収め、仮面の奥で目を細める。

「……やはり、舞台の役者ですらなかったか」


闇の中で、アーテーの口元がわずかに歪んだ。

それは嘲笑とも、興味ともつかぬ微かな笑みだった。

沈黙が落ちた。

男の血肉は瓦礫にこびりつき、舞台の幕が唐突に下りたような余韻だけが残る。


その静けさを破ったのは、遠くから響く足音だった。

複数の影が、崩れた路地に集まってくる。


「アーテー様……!」

「ついに……ついにお姿を……!」


十数人の男たちが、血塗れの石畳に膝をつき、一斉に頭を垂れた。

女も混じっていた。涙を流しながら両手を合わせ、祈るようにアーテーを仰ぎ見る。


「我らは選ばれし者! この身も魂も、すべてアーテー様に捧げます!」

「どうか、我らに舞台を! 役割を!」


熱に浮かされたような声が交錯する。

その表情は狂気と歓喜に染まり、血走った瞳はただアーテーだけを映していた。


だが。


アーテーは一歩も動かない。

先ほどと同じく、冷たい視線を彼らに投げかける。

まるで道端の汚泥を眺めるように。


その沈黙に、信徒たちの熱は一瞬で揺らぎ始めた。


「……え? なぜ……」

「違う……違うんだ……」


ひとりが顔を上げ、恐怖に引き攣った声を漏らす。

アーテーは彼を見下ろすと、吐き捨てるように呟いた。


「役者を気取るな」


その声は低く、だが絶対の冷酷さを帯びていた。

信徒の顔から歓喜が剥がれ落ち、白い絶望が広がっていく。


「や、やめてくれ……私たちは……!」

「アーテー様! どうか……!」


涙混じりの懇願。

だがアーテーの瞳には一切の情がない。


「お前たちは舞台に立つ器ですらない。汚れた木偶にすぎん」


その一言で、信徒たちの幻想は砕け散った。


次の瞬間、群れの中から狂乱の叫びが上がる。


「嘘だあああッ! 俺は役者だ! 俺は舞台の主役だァッ!」


ひとりの男が暴走し、己の腕を裂いて血を撒き散らしながら突進する。

その狂気に釣られるように、他の信徒たちも次々に錯乱し、互いに掴み合い、殴り合いを始めた。


エレボスは一歩踏み出し、仮面の奥で低く吐き捨てる。

「……茶番だな」


アーテーはその光景を、観客席から舞台を眺めるかのように楽しげに見つめていた。

血飛沫が夜気を染めた。


「うわああああッ!」

「俺を押し退けるなッ! 主役はこの俺だッ!」


狂乱に陥った信徒たちは互いに掴み合い、殴り合い、牙を剥く。

武器を持たずとも、己の肉体を削り合うことにためらいはなかった。

舞台に立てないと知った絶望が、理性を焼き尽くしていた。


骨が砕け、肉が裂ける音が重なり合い、路地は修羅場と化す。

膝を折り泣き崩れる者もいれば、己の喉を裂いて血を吐く者もいた。


エレボスは刃を構え、低く唸った。

「……これ以上、放置はできん」


次の瞬間、狂乱の渦へ踏み込み、一閃ごとに暴徒を斬り伏せる。

だがそれすら止めにはならなかった。

残された者たちは、斬り倒された仲間の骸を踏み越えてなお叫び続ける。


「俺を! 俺を役者にッ!」

「舞台を……舞台をッ!」


声はもはや祈りではなく、断末魔の咆哮に近かった。


そして――その光景を見下ろすアーテーの瞳が、冷たく細められる。


「……見苦しい」


その一言は、刃より鋭かった。


信徒たちは凍りついた。

暴力の渦は一瞬で静まり、残った者たちの瞳から光が抜け落ちる。

膝を折り、口々に震え声を漏らした。


「……違う……」

「アーテー様に……捨てられた……」


絶望が伝染するように広がり、誰も立ち上がろうとしない。

ある者はその場で自らの首を掻き切り、ある者は地に頭を叩きつけ、己を責め続けた。


エレボスは一瞬だけ目を伏せ、仮面の奥で呟く。

「……これが、信仰の果てか」


アーテーは動かない。

ただ舞台を観る観客のように、静かに唇を歪めていた。

そこには憐憫も怒りもなく、ただ『退屈を紛らわせる見世物』への興味しか存在していなかった。

路地には血と骸だけが残った。

信徒たちの絶叫も、今はただの静寂に溶けている。

生温い血臭が立ち込め、夜風さえも重くよどんでいた。


エレボスは刃を下ろし、ゆっくりと息を吐く。

「……無駄死にだ。誰ひとり役を得られず、ただ舞台に立つことを夢見て散った」


その言葉に応じるように、アーテーが闇の中から歩み出た。

白塗りの顔が月光を受け、不気味に浮かび上がる。


「役者気取りの木偶ども。己の役割すら知らず、舞台を汚す愚か者だ」


その声は嘲りとも、吐き捨てともつかぬ冷たさを帯びていた。

エレボスは仮面越しにアーテーを見据える。


「お前を信じ、命を投げ出した連中だぞ。それを木偶と呼ぶのか」


「当然だ」

アーテーは即答する。

「舞台に必要なのは役者だ。信徒などただの観客にすぎぬ。……いや、観客ですらないな。拍手もせず、ただ騒ぎ立てるだけのゴミ山だ」


その言葉に、エレボスの手が一瞬だけ刃に力を込めた。

だが、アーテーは臆することなく続ける。


「お前も知っているだろう。舞台とは幕を上げてからが本番だ。こいつらの死など、序章の余興に過ぎん」


その瞳は闇の奥で妖しく光り、まるで次の幕を楽しみに待つ観客そのものだった。


エレボスは低く唸る。

「……つまり、まだ続くというわけか」


「当然だ」

アーテーは不気味に口角を上げ、舞台の幕引きを演じるかのように一礼してみせた。


「本当の役者は、これから登場する。……楽しみにしていろ」


そう告げると、闇が揺らぎ、アーテーの姿は掻き消えるように消えた。


残されたのは、血と骸と、冷たい夜気だけ。

エレボスは仮面の奥で目を閉じ、重く呟いた。


「……これが序幕なら、本編はどれほどの地獄だ」


闇の向こう、まだ見ぬ舞台の開幕を感じながら。

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