第42話
王都の夜は、いつになく静かだった。
鐘の音すら控えめに響き、空を覆う雲が月を隠していた。
東錬区の廃棄工房群に立ち並ぶ影は、かつての喧騒を偲ばせることなく、ただ朽ち果てるのを待っているだけのようだった。
そんな風景の中で、彼は立っていた。
エレボス――仮面の騎士は、かつて信徒どもが潜伏していた廃工房のひとつ、その地下に残る封鎖扉を見つめている。
封鎖の魔封陣は壊されていた。
壊され方は雑だったが、そこには“意図的な痕跡”があった。
「俺を、誘っているのか」
仮面の内側で、低く声が漏れる。
見逃すことのないように刻まれた魔法陣の縁取りには、あの忌まわしき『化粧』が塗り込まれていた。
赤、紫、黄――まるで狂人のメイクのように。
アーテーのものだ。
そう断じるのに十分な痕跡だった。
一度、東錬区での調査は打ち切られていた。
信徒たちは捕らえられ、アーテーの術式体系も一部明らかとなった。
だが彼──『狂気の道化師』本人だけが、煙のように姿を消していた。
それが今になって、こうしてまた痕跡を晒した。
挑発だ。
それも、明確な意志を持った“犯意”としての挑発である。
「……」
エレボスは踵を返し、その場を離れた。
突入はまだしない。
彼が何かを仕掛けてくるというのなら、その直前に現れる『兆し』を見極めなければならない。
アーテーは衝動に見せかけて、必ず“筋”を通す。
奴は、笑いながら人を斬る。
だがその刃には、絶えず計算された意図がこもっている。
彼の狂気は遊戯ではない。
それは──『芸術』だ。
数時間後、王都本庁の捜査局に届いた一通の封筒が、全てを裏付けた。
手紙は濃い赤で書かれ、封蝋には目玉の意匠。
中央には大きく、無意味なようで意味深な『詩』が綴られていた。
『さぁ、始めようか 仮面の騎士
お前が灯すは 人の正義か それとも獣の裁きか
舞台は整った 観客も待ってる
第一の幕が上がるとき 王都は血で染まる』
──アーテーからの予告状だった。
だが、そこには日時も場所も書かれていない。
それすらも、エレボスに『探らせる』つもりなのだ。
王都捜査局は動揺したが、彼は違った。
エレボスは静かに席を立つと、夜の帳に身を沈めた。
『第一の幕』――それが、どこで起こるかを読み解く鍵は、すでに封筒の余白にあった。
アーテーは、芸術家を気取る殺人鬼。
彼は“舞台”を選ぶ。
それも、彼が美しく思う“狂気”に満ちた場所を。
……王都北端。旧劇場街跡地。
──そこが、最初の舞台となる。
静かに、闇がうごめき始めていた。
そしてそれを迎え撃つため、エレボスもまた、仮面を固く結び直した。
次なる闘いは、すでに始まっている。
これは、王都最後の影──ではない。
真の“狂気”が、ようやく幕を開けたのだ。
地面に叩きつけられた遺体は、既に人間の形を保っていなかった。骨はひしゃげ、内臓は外へと飛び散り、顔面は判別不能なほどに砕けていた。それでもなお、胸元に刻まれた不可解な痕跡だけは、生々しく存在を主張していた。
それは、あの男――『アーテー』の象徴だった。
奇怪なマーク。道化の仮面にも似た、笑みのような歪な文様。それは、東錬区の信徒たちが信仰対象として崇めた“狂気の神”の印であり、同時に今や壊滅したはずの一派が残した“爪痕”でもあった。
「……おかしいな」
エレボスは崩れた肉塊のそばにしゃがみ込み、血で濡れた石畳を見下ろす。その赤黒い水たまりの中に、わずかに混じった“灰”があった。
魔力で焼かれた痕。
だがこれは、被害者が抵抗して放ったものではない。異常に高熱の魔力が外部から注がれ、一瞬で内側から焼かれたような跡だった。
つまり──犯人は最初から、抵抗すら許す気はなかった。
「アーテー……これはお前の仕業か」
声に出したところで、返事などあるはずがない。だが仮面の下で、エレボスの目が細くなる。
一度は壊滅した信徒集団。しかしこの“犯行”は、彼らの稚拙な儀式や崇拝ではない。もっと深い、個人的な悪意。意志ある殺意。あのアーテー本人による、明確な『挑発』に他ならなかった。
──その時だった。
遠くから、耳障りな笑い声が響いた。
「アァ〜〜ッハッハッハッ! 久しぶりじゃないかぁ、“エレボス”くぅん……!」
その声は空気を震わせ、あらゆる壁に反響しながら、まるで地下全体を笑っているかのように響く。
「やっぱり君が来たか。ほら、ほら見てよ。僕の“作品”たち、どうだった? 良い出来だったろう?」
エレボスは立ち上がり、音の発生源を探しながら沈黙を保つ。
「なァに、信徒たちはいなくなったけど、舞台がある限り、役者は必要だろ? 今夜は君が主役さ。あっはははは!」
男の声は徐々に遠のく。だが、その余韻は確かにこの空間を支配していた。
──これは、始まりに過ぎない。
アーテーはもう、信徒など必要としていない。今この瞬間も、彼自身が“舞台”に降りてきたのだ。
そしてそれは、王都にとって最も忌まわしい悲劇の再来を意味していた。
エレボスは静かに、拳を握る。骨の軋む音が、地下に鳴り響く。
「……終わらせる」
静かに足音が消える。
エレボスは、血の跡が残る瓦礫の上を踏み越え、壊された壁の奥へと進んだ。夜風が吹き込む隙間から、湿った空気が立ち込める。そこには『異様な痕跡』があった。
焦げたように黒ずんだ円。周囲の石材がわずかに歪み、中心部には灰と化した何かが──人間であったものが──残っている。
ただの殺人ではない。明らかに『術式』が用いられていた。
エレボスは屈み、手袋越しに灰の一部を指先でつまみ取った。ふっと風が吹いた瞬間、それは崩れて消えた。
残滓。
そして、魔術の『手口』。
「……やはり、お前か」
かつて信徒を率い、多くの犠牲を生んだ狂気の男──アーテー。
その信徒たちはすでに王都から一掃されたはずだった。彼らの拠点は焼かれ、術具は回収され、残された手がかりすらも潰された。だが、残っていたのだ。
『本人』が。
エレボスの目に、あの派手な化粧と芝居がかった声が蘇る。滑稽で、残虐で、そして『純粋に破壊を愉しむ狂人』。
あれほど危険な存在が、まだこの王都のどこかに潜んでいる。
──否、これは『挑発』だ。
狙って痕跡を残したのだ。おそらくは、エレボスに向けて。
あるいは……ただの『遊戯』として。
壁に寄りかかるようにして死んでいた少年の遺体を、エレボスは見つめた。片手に握られていたのは、小さな笛。
祭り用の安物だ。屋台で買い求めたのだろう。血のついた指は、なおもそれを守るように固まっていた。
「……今度こそ、終わらせる」
仮面の奥、瞳が燃える。
過去を清算するのではない。これは、今なお続いている『殺戮の現在形』。
アーテーがまた動き出した以上、それを止められるのはただ一人──この闇に踏み込んだ者だけだ。
エレボスは立ち上がり、黒い外套を揺らして夜へと身を投じた。
血に濡れた王都を、仮面の騎士が駆ける。
その背にあるのは、誰にも告げぬ『誓い』。
それは、何度繰り返されようとも変わらぬ一つの意思。
霧雨のような血飛沫が、静かに空気を染めていた。
倒れ伏す死体は三体。いずれも奇怪な変化を遂げた人間で、肉体の一部が異様に膨張し、骨格がありえぬ方向にねじ曲がっている。指は槍のように尖り、眼窩の奥には理性の欠片すら残っていなかった。
彼らは既に人ではなかった。
術者が施した『歪め』の儀式によって、人としての境界線を喰い破られ、ただの『武器』へと成り果てた存在。その命令主たる術者──そしてその元凶は、すでに分かっている。
エレボスは血に濡れた床に膝をつき、静かに目を閉じた。
「……直接、動き出したか」
アーテー。かつて信徒集団の頂点に君臨し、今や唯一残された災厄そのもの。信仰は潰した。拠点も潰した。だが、それで終わるような男ではないことは、初めから分かっていた。
今のこれは、ただの予告にすぎない。仮面の奥、目の奥に宿る光が、音もなく静かに怒りを燃やしていた。
この三体を襲撃に送り込んできた場所は、王都南区の旧劇場。すでに長らく廃墟として扱われていた建物だが、裏では人身売買の拠点としても知られていた。そこを襲撃したのは、ただの愉快犯ではない。あれは、確かに『見せつける』ための犯行だった。
無意味な惨殺。被害者たちの両目には、笑っているかのような傷が刻まれていた。
──アーテーの『手口』だ。
滑稽を装い、狂気を娯楽として振るう殺人鬼。だがその裏に潜む意図は常に冷徹で、すべてが意味を持っている。今回の一手も、次の段階への布石にすぎない。
「わざわざ、俺の前に送り込んできた……ということか」
挑発ではない。確認だ。まだ生きているという確かな証明。そして──宣戦布告。
エレボスは立ち上がった。黒衣が揺れ、血に濡れた床を踏みしめる足音が、場違いなほど静かだった。
仮面の奥、エレボスの視線が上がる。
──来る。やつは必ず、もっと“近く”に現れる。
そして──幕が上がる。
それは、あまりにも唐突で、あまりにも滑稽で、そして凶悪だった。
王都中央区、第一広場。午前九時二十七分。市民の多くが通勤や登庁の足を早める時間帯。鐘楼の音が次の時刻を告げようとした、その瞬間。
どこからともなく響いたのは、ひとつの《歌》だった。
「♪ うたっておどって しにましょう くるくるくるくる てんしのおどり〜 ♪」
明るく、軽やかに、そして異様なほど響き渡る声。子どもの合唱のように、何人もの声が重なり、空気に染み渡ってゆく。
何かがおかしいと気づいた時には、すでに遅かった。
突如、広場の中央にある噴水の水が黒く濁り、泡立ち、そこから何かが──『這い出てきた』。
異形。だが、既視感がある。エレボスが過去に相対してきた、キメラのような魔術の産物。だが今回のそれは──まるで『演出された』ように、異様なまでの装飾と色彩に満ちていた。
──仮面をつけた“人形”。
それらは一様に笑っている。口は裂け、目は塗り潰され、しかし顔の下には見える。肉のようなものが蠢いている。人間だったものが、何者かに『加工』された。まるで『ピエロの舞台装置』のように。
「皆さーん、お騒がせしまーす!」
響く声。空の上、時計塔の頂上に──いた。
両腕を広げ、胸を張ってその場に立つ、異形の男。
濃すぎるチークとおどけた口紅、左右で色の違うウィッグ、そして――
「久しぶりだねェ、エレボスゥ……!」
――アーテーだった。
人混みが恐怖で逃げ惑う中、その姿だけはまるで舞台上の主演のように、光を浴びて立っていた。
「今日はね、君に捧げる大・演・目! タイトルは……『永遠に終わらぬ道化の劇場』!!」
その言葉とともに、周囲の建物の影が歪む。
通りに設置された街灯、看板、ドアの隙間から、次々に“仮面の人形”が現れた。いや──“演者”だ。アーテーの舞台で、踊らされるために『加工された人間』。
誰かが叫んだ。「あれ……あれ、消えたって聞いたはずの……!」と。
そう、それはかつて王都に潜伏していた『信徒』の一部。行方不明になった者たちの、成れの果て。
その惨劇に気づいた市民たちは、もはや悲鳴すら発せられない。ただ震え、膝をつき、空虚な目でその劇を見上げるしかなかった。
──舞台は整った。
エレボスは、仮面を深くつけ直す。
その目に宿るのは、ただ一つ。
『断罪』。
闇の道化よ、今度こそ終わらせる。お前が用意した舞台で、お前自身を打ち倒す。
仮面の奥で、静かに呟く。
「これは、俺の劇場だ」
### 第二章 狂気は踊る
#### 第三話 呼び鈴は三度鳴る
最初の通報は深夜三時を回った頃だった。東錬区にほど近い中層住宅街。その一角にある古びた三階建てのアパートから、断続的な叫び声が聞こえたという。警備隊が駆けつけた時、そこには『誰もいなかった』。異常も、侵入の痕も、ましてや叫びの主とされる住人の姿もなかった。ただ一つ、部屋の中央に『赤い塗料』のようなものが撒かれていたという。円を描き、その中には人型の空白──まるで人が立っていたような、奇妙な跡。
二度目は翌日の同時刻。今度は西環区、倉庫街の外れにある廃ビルから『笑い声』が聞こえた。派遣された調査員は昏倒して発見された。記録によれば、彼は「顔のない子供に囲まれた」と錯乱していたという。
そして三度目。今夜。
アーテーは『何か』を刻んでいる。
──空間に。
──記憶に。
──この街そのものに。
ヴァルスはその異常性に気づいていた。報告書を読み込みながら、彼は何度もペン先でこめかみを叩く。思考の速度についていけない苛立ち。そしてある一点に、ふと目が止まる。
「……全て、三時」
深夜三時。奇妙な出来事が三日連続で起きている。しかも、それぞれの現場に残されていた不可解な要素──血ではない液体、意識の喪失、そして『笑い』。
──演出だ。
それがヴァルスの結論だった。誰かが、何かを『見せよう』としている。誰かに『気づかせよう』としている。あからさまな残酷ではなく、じわじわと染み出すように。
「奴だな」
誰にも聞かせるつもりのない呟き。それでも空気が微かに震えた。
それを合図のように、部屋の片隅に置かれた仮面が、ひとりでに揺れた。
──エレボス。
その名は誰にも呼ばれず、しかし、誰よりも深くこの街を見つめていた。
今夜もまた、仮面は顔に戻る。
「闇が動いている。今度は、演者として」
エレボスは静かに立ち上がる。
その足取りはまるで『舞台袖から、幕間へと歩む役者』のように迷いがない。
そして、舞台の照明が落ちる。
この街のどこかで、三度目の『笑い声』が響く。
──アーテーの劇は、まだ序章だ。




