第43話
西街の時計塔が、低く、湿った鐘の音を鳴らした。
夜の帳が完全に落ちた王都。その静けさを、ただ一度だけ破った音。それを合図にしたかのように、誰にも気づかれぬまま、ひとつの影が路地裏をすり抜けていく。
だが、その『影』を──もう一つの影が、先回りして待っていた。
「こんな時間に何を探してる」
低く、感情の読めない声。仮面の男、エレボスが、袋小路の手前で歩みを止めていた。灰色の外套が微かに揺れ、闇の中でも目を凝らせば、指先に淡く宿る魔力が確認できる。
そして、追われていたその『影』は、ゆっくりと仮面の男へと向き直った。
「……あんたこそ、こんな時間に人を待ち伏せる趣味でも?」
男だった。二十代前半。乱れた茶髪、眼の下にはくっきりとした隈。どこか酔いが抜けきらぬような足取りに見えたが、その目には明確な警戒の色がある。
「名前を」
「さあ? 名乗ったら逃がしてくれるのか?」
「名乗らなくても、答えが出れば同じだ」
エレボスは一歩、前へ。気圧されるように男がわずかに身を引いた。視線が、逃げ道を探してちらつく。
「……おい、ちょっと待て。俺は別に、あんたの敵じゃない。たまたま通りがかっただけだ」
「ではなぜ、五分前に、北市場の露天を見回っていた?」
「…………」
男の表情が、静かに凍る。
──バレていた。
「そっちこそ、なんで知ってる」
「“追っていた”からだ」
その瞬間、男が背後の壁を蹴った。音もなく宙を跳び、袋小路の側面を伝って逃げようとする。その動きは一瞬、訓練された兵士のそれに近かった。
だが、次の瞬間。
エレボスの左手から、黒い縄のような魔力が飛び、空中の男の足首を絡め取った。
「ッ、あああああッ……!」
地面に叩きつけられる音が夜に響く。男は呻きながらも起き上がり、傷を庇って後退った。
「……チッ、やっぱ“本物”かよ……」
その呟きはエレボスの耳にも届いていた。
まるで、噂を確かめるような口ぶり。
「お前は……アーテーに繋がる者か」
「ち、違う……いや、もうどうでもいい。捕まるぐらいなら──!」
再び身を翻そうとする男。
だが、その足元に──もう一つの影が現れた。
「そこまでだよ。共犯者くん」
明るく、裏返ったような声。
どこか芝居がかったその声色は、ただ一言で場を凍りつかせる。
路地の向こう側。
まるで闇から滲み出すように、ひとりの道化めいた男が立っていた。
目の周囲には不釣り合いな赤い化粧。唇は黒く縁取られ、髪は明るい金の巻き毛。どこからどう見ても『まとも』ではない風体。
アーテー。
エレボスは、ほんのわずかに目を細めるだけで、その名を口にはしない。
「久しぶりのご登場……って顔してるねえ、仮面の君。あれから信徒はぜ〜んぶ潰されて、残念だったけど……ふふふ、それでもさ、僕は“まだ”終わってないって、信じてたんだ」
「……この男は、お前の指示か」
「違うよ? 彼はね、ちょっとだけ“心が擦り減ってた”だけ。だから少し、お話しただけ。選んだのは彼自身さ」
アーテーが指を鳴らすと、男の目が一瞬、虚ろになった。
「……やめ……ろ……俺は……ッ、俺はッ……!」
崩れ落ちるように、男が膝をついた。痙攣のように肩が震える。
エレボスはゆっくりとその場へ近づくと、警戒を保ったまま男に手を伸ばす。
その背後で、アーテーが唄うように囁いた。
「さあ……“次の舞台”の幕が上がるよ、仮面の英雄」
湿った風が吹き抜ける、東錬区と中央区の境界地。赤錆に侵食された廃路線のトンネルが、突如として『口』を開いた。
その奥で、うごめく気配がある。
人のようで、人ではない。
動物のようで、知性を孕む。
そして、叫び声は──すべてが『同じ音階』で揃っていた。
まるで、一つの喉から発せられるかのような合唱。
あるいは、狂気に染まった演奏会。
そこに踏み込んだ者は、すぐに消える。
警備隊の連絡はそこで途絶え、捜索に向かった補佐官までもが無線越しに叫びを残し、沈黙した。
……異常が報告されたのは、その翌朝。
中央区の王宮から通達された指令はただ一つ。
「この“トンネル”に関わった者たちは、すべて消息不明となっている。再調査には、“影狩り”の派遣が望ましい」
夜更け。
仮面の男──エレボスは、静かにトンネルの前に立っていた。
冷たい石畳を踏み締め、手にしたのは短剣。腰には封呪の札。そして、背に隠されたもう一つの“刃”。
ヴァルスの連絡によれば、すでに『式』がトンネルの奥から何度も出入りしているとのことだった。生きた者とは思えぬ気配。そして、その根にあるものは……かつての信徒ではない。
「アーテー……また貴様か」
呟きは、仮面の奥の冷えた眼差しと共鳴する。
ここには“魔術の残滓”がある。だが、それは信徒が操っていたものとは異なる。
もっと、強引で、もっと原始的。
そして何より……『愉悦』に満ちている。
アーテーの魔術だ。
彼の術には、必ず“見世物”としての要素が含まれる。
痛みも、苦しみも、絶望さえも……観客のための『演出』に変える。
つまりこのトンネルもまた──『舞台』なのだ。
踏み込んだ瞬間、空気が歪む。
闇の中で、誰かが笑った気がした。
それは耳に届く音ではなく、心の奥を叩くような『気配』。
そう、それこそがアーテーの“呼吸”。
「……来てくれたんだね、エレボス」
声が、どこからともなく響いた。
いや、壁から? 床から? 天井から?
いいや──『トンネル全体』が、喋っている。
「待ってたよ。やっと、君がこの舞台に立つ日が来たんだ」
エレボスは答えない。
ただ、足を踏み出した。
一歩ずつ、闇の深淵へ。
剣を抜く音だけが、場内の静寂を裂く。
「第一幕──『消えた者たち』の哀歌。開演だよ、仮面の英雄」
漆黒の夜に仮面の風が走る。
王都東錬区、かつて信徒たちの根城であった地下礼拝堂の崩壊から三日。都市はようやく静けさを取り戻しつつあった。だがそれは、束の間の幕間──アーテーが仕掛けた新たな“劇”の、ほんの導入に過ぎなかった。
発見されたのは、劇場の舞台袖だった。
老朽化した小劇場。数年も使われていないはずのその空間に、唐突に現れた『異物』。
──宙吊りにされた遺体。それも五体。
舞台装置のバトンに括りつけられたそれらは、いずれも裸で、顔だけが道化のように塗られていた。目も口も縫われ、肌には『お遊戯会』と書かれた落書き。首には番号札が提げられており、整然と一列に並べられていた。
それはまるで、悪趣味な演目のリハーサルだった。
そして、彼だけが知っていた。これがアーテーの“序曲”に過ぎないことを。
エレボスはひざまずき、遺体の傷痕を調べた。
ナイフの痕──違う。
魔術の痕──いや、それもない。
だが、体内から骨が消えていた。五体とも、全身の骨という骨が、抜き取られていたのだ。
「どうやって……?」
問いかけは宙に溶ける。誰も答えはしない。だが、その沈黙こそが、狂気の演出。
──視線を感じた。
エレボスは素早く仮面を横に向けたが、そこには誰もいない。だが確かにいた。目の奥で笑っている『誰か』が。
「もう見てるのか……アーテー」
仮面の下の目が、闇の奥を射抜いた。
この事件は始まったばかりだ。そして、この街の闇を操る“道化”が、次に何を演出するのか──
止めるのは、仮面の男しかいない。
彼は静かに立ち上がると、劇場を後にした。
灯りがひとつ、またひとつと消えていく。まるで街そのものが、息を潜めているかのようだった。
王都の北、老朽化した水路跡。もはや誰も足を踏み入れぬその地下道で、最初の“悲鳴”が上がったのは、夜の帳が下りて間もない頃だった。
――異常な事件が、再び始まった。
見つかったのは、ひとりの老人。王都の公文書を保管する役所に勤めていた、温厚な書記官だったという。遺体は首から上が消失していた。文字通り、顔という『仮面』を剥がされたように。
続けて、数日内に二件。今度は若い夫婦。妻は洗濯をしていた屋敷の裏手で、夫は書斎で……やはり顔だけが消えていた。
死体には、例の『刻印』があった。信徒たちの使っていた、あの異形の魔術による、痕跡。
だが、信徒たちはすでに壊滅している。拷問に耐えた末に口を割った者はいなかった。術者としての再利用もできないほど、念入りに殺されている。
――だとすれば。
残るのは、たったひとつの名だ。
「アーテー……」
エレボスは噛み締めるように、その名を口にする。
あの男だけは、最後まで姿を現さなかった。信徒の壊滅を知りながら、逃げもせず、動きもせず。まるで、こちらの手が届くその瞬間を『待っていた』かのように──
「いや……違うな」
エレボスは、仮面の下で静かに息を吐いた。
「待っていたんじゃない。準備していたんだ……新しい舞台を」
これは、“次の遊戯”だ。
奴は今も、見下ろしている。闇の向こうから。
誰がどこで苦しみ、誰がどこで泣くのかを、愉しそうに観察しながら。
王都全体が、またしても“見えない舞台”の中にある。
その演者として、否応なしに“役”を振られた者たちがいる。
──だが、エレボスは違う。
彼は演者ではない。
『観客席の闇』に隠れ潜む狂気の劇作家を、舞台ごと焼き払う者だ。
静かに足音を忍ばせながら、エレボスは地下道の奥へと進んでいく。
そこには、新たな『印』が残されていた。信徒の使っていたものとは異なる、しかし“同じ魔術の系統”に属する──『模倣された死』の紋。
「また、か」
エレボスは、壁に刻まれた印を撫でながら、目を細めた。
「アーテー……本気で俺を引きずり出すつもりか」
その名を告げた瞬間、微かに、足元の影が“ざわめいた”。
それは目に見えない。音も匂いも気配さえ、希薄だというのに──確かに『在る』。そう感じてしまった瞬間、人間はもう逃れられない。
湿った空気の中、かすかな擦過音が床を這う。まるで肉の塊が無理やりに移動しているような、不自然な音だった。
エレボスは片膝をつき、指先で床をなぞった。冷たい石造りの地面に、幾筋もの傷跡が走っている。それは螺旋を描くように、中央へ向かって収束していた。
「……召喚痕か」
その中心にあったもの。それは“何か”を封じ込めた跡だった。もうそこに実体はないが、魔力の残滓は、目を焼くように濃密だ。
術式は、旧王朝時代に禁じられた形式。犠牲を糧に異界から存在を呼び寄せる、悪名高き『寄肉』の技術。にもかかわらず、それは異常な完成度で構築されていた。
──この街に、まだ術者が潜んでいる。
そう断じた直後、背後で『カチリ』と何かが鳴った。
反射よりも早く振り返る。だが、そこに『誰もいない』。否、正確には──人間ではない。
そこに立っていたのは、一体の『異形』。
子供ほどの体格に、背丈よりも長く伸びた腕。肌はざらついた灰色、眼球のない顔面には、赤黒い縫い目が幾重にも刻まれている。その中心で、裂け目のような口が、かすかに動いた。
「……たすけて」
その声は、少女のものだった。
だがエレボスは即座に魔力を込め、地面を砕いて跳躍する。次の瞬間、異形の手から黒い糸のような魔力が噴き出し、元いた位置を切り裂いていた。
助けを求めたのではない。誘ったのだ。
「アーテー……」
低く呟くと同時に、仮面の奥の瞳が鋭く細められる。
これは、演出だ。アーテーが見せた“舞台”の第一幕。
恐怖を装った声。少女の姿に似せた異形。呼び水のような術痕。すべてが、彼の『悪趣味な遊戯』に過ぎない。
この一体は、囮でしかない。
──本命は別にいる。
エレボスは追跡を断ち、周囲の気配を探る。異形は唸り声をあげながら腕をぶらつかせ、糸のような魔力で辺りの壁を切り裂いていた。
その音が、王都の夜に静かに染み込んでいく。
アーテーはもう、始めている。
新たな殺人の“舞台”を──この王都の片隅で。




