第36話
そう確信しながら、彼は再び足を踏み出した。
仮面の奥にある眼差しは、揺らがない。いや、もはや揺らぎようがなかった。幾度となく見てきた、こうした『異形』の成れの果て。その根に潜むものが、誰かの悪意であるのか、あるいは信仰の名を借りた狂気なのか──どちらであれ、辿り着くべき場所は、最初から決まっていた。
少女の姿は、もはや原型をとどめていなかった。
背中から生えた蜘蛛の脚が床を穿ち、肉の質量が膨張し、顔の半分が軟化して溶け落ちる。けれど、その唇からはなおも言葉がこぼれていた。
「アーテーさまが……全てを、救ってくださる……」
その声に、エレボスは小さく息を吐く。
「……救いとは“誰”を救うものだ」
その問いは、もはや誰に向けられたものでもない。ただ、自らの中にある“確信”を形にするための、儀式のようなものだった。
異形と化した少女が、悲鳴にも似た咆哮をあげた。
その直後、床を叩き割るような勢いで跳躍。鋭利な蜘蛛脚が、斜め下から突き上げるように伸びてくる。殺意は明確。理性など、そこには一片も残っていなかった。
だが──
エレボスの身体が、ふっと霞のように掻き消えた。
目にも止まらぬ速度で後方へ跳び、着地と同時に両腕へ魔力を集中させる。空間を歪ませるほどの“質量”ではない。あくまで肉体に留める程度の、制御された強化魔法。それでも、彼の筋肉は鋼のように張り詰め、膝から下へと流れる力は地を砕く。
異形の少女が次の一手を打つ前に、彼の拳が動いた。
狙いは心臓──ではなく、神経束の集中点。無力化するには、ここを砕くしかない。
拳がめり込み、骨の砕ける音が周囲の静寂を裂く。
少女の身体がのけぞる。だが、完全には止まらない。激痛にも怯まず、右肩から新たに骨のような棘が突き出し、反撃を試みてくる。
即座にエレボスは後方回転し、棘の射出範囲から離脱。
その動作の中で、すれ違いざまに掌底を顎へと叩き込む。脳への衝撃が内部から逆流し、ついに少女の意識が霧散した。
崩れ落ちる身体を、彼は受け止めなかった。
そのまま床へと伏せた少女の肉体は、わずかに痙攣しながら静かになった。変質は止まりきらず、苦しみの痕跡だけがその四肢に残る。
「……すまない」
仮面の下で、エレボスはただ小さく呟いた。
これは、戦いではない。処置だった。
既に『戻らぬ』と判断したからこそ、彼は拳を振るった。
そうするしかなかった──それを理解していても、痛みは残る。
ふと、床に転がっていた“仮面”が目に入る。
歪んだ笑みの白い面──先ほどの少女が手にしていたものだ。
それを拾い上げると、裏面には奇妙な文字列が彫られていた。古代語とも異なる、まるで個人の“署名”のようなもの。
仮面を見つめる。
「“痕跡”だな」
誰かが、ここに置いていった。
まるで挑発するように。まるで誘導するように。
そして彼の中で、ひとつの確信が生まれつつあった。
これらの事件は、すべて繋がっている。
アーテーという名の殺人鬼と、教団と、異形の実験体たち。そして、その背後で“監視”する何者かの存在。
仮面の奥の目が、暗い空間を捉える。
エレボスは、静かに立ち上がった。
奥の部屋からは、まだ魔力の残滓が漂っていた。
誰かが、先に“逃げた”──それは明らかだった。
「……“本命”は、まだ先か」
壁の向こうで、微かに軋むような音がした。
そして彼は、再びその音のする方へ歩き出す。
靴底が湿った石床を叩くたび、水気を含んだ音がわずかに響いた。空間全体が静かで、息を潜めるような“沈黙”が支配している。だが、エレボスの足取りに迷いはなかった。音があったということは、何かがそこに“居た”ということ。そしてそれは、この地下の構造と“目的”を熟知している者──すなわち、“術者”自身である可能性が高い。
通路の奥はやがて左右に分岐していた。
右側は封印されたような古い扉が連なり、左側は照明の切れた暗い通路が続いている。わずかに魔力の残滓を感じ取った彼は、左を選んだ。通路に漂う空気は生温く、どこか“有機的な匂い”を含んでいた。血でも薬品でもない、もっと“生き物”に近い、それも自然のものではない、濃密な気配──
「……変質体を“育てて”いるのか」
低く呟いたその言葉の先、かすかな呼吸音が聞こえた。
エレボスは壁に身を預け、足音を殺しながら進んでいく。やがて小さな部屋があった。入り口の扉は半開きで、内側からわずかに光が漏れていた。音も、匂いも、すべてそこから発せられている。
その瞬間、床に走る微細な魔力の線を視認した。
術式。侵入者を感知し、自動で発動する罠だ。
「……初歩的な構造だな」
慎重に足先で魔力の接続点を踏み、静かに“断つ”。罠は作動せず、そのまま扉の隙間から部屋を覗く。
中には、数体の人影があった。
だが、それは人ではなかった。
人の形をしていた“何か”。
培養液のような装置に浮かぶ異形の肉塊。人間の手足を模した構造だが、関節の数が明らかに多く、顔には穴のようなものが複数開いている。誰かを模して造られたかのような異様なコピー。室内には調合された魔力素、血液、防腐剤、魔術触媒などが整然と並べられていた。
「……人形、か。それとも“替え”か」
さらに奥、机に広げられた資料に目を移す。
ページに描かれていたのは、魔術的な紋様と、人体の断面図。どれもが“人体を基盤にした変質”を目的としていた。中には『アーテーの祝福』と題された章があり、脳に働きかけて“判断力”を鈍らせ、対象を無意識に狂信へ導く術式について詳細な手順が書かれている。
『判断を失わせ、偽神の声に従わせよ』
その一文を読み、エレボスの眼差しが一瞬だけ鋭くなる。
「……“偽神”ではない。“仮面の道化”だ」
そう吐き捨てるように呟き、彼は資料を回収する。
そのとき、部屋の隅で何かが“カタリ”と音を立てた。
即座に構えると──棚の影から、誰かが飛び出してきた。
長いローブに顔を隠し、小柄な体躯。だが動きは鋭い。
一瞬のうちに間合いを詰め、手にした細い刃物で喉元を狙ってくる。
エレボスは身体を捻り、肩越しに攻撃を躱すと、反動を利用して肘を突き出した。相手の胸元に打撃が入ると、骨のきしむ音がした。
「ぐっ……!」
苦鳴を漏らして倒れ込む男。そのフードがずり落ちると、驚くほど若い顔が現れた。少年──いや、十代前半か。だが目は既に“正気”ではなかった。まるで何かに憑かれたような、濁った色。
「“アーテーさま”が、来る……“闇”は、すべてを救ってくださる……」
その言葉に、エレボスの目が細められた。
「……また、か」
少年を拘束しようとした瞬間、床下に仕掛けられていた術式が暴走する。
──爆発ではない、“転移”だった。
白い閃光と共に、少年の身体が霧のように掻き消える。
「……仕掛けは、まだ多い」
逃したことに一切動揺を見せず、エレボスは部屋を見渡す。
必要な情報はある程度得た。
“この施設の主は既に去っている”
“異形の変質は進化している”
“アーテーの名を信奉する者は増えている”
そして──“元凶”は、もっと深い場所にいる。
彼は再び仮面に手をやり、そっとその表面を撫でる。
静かに、だが確かに──“夜の狩人”としての意志が、その身に戻る。
「……次は、“本体”に踏み込む」
微かな魔力の流れを頼りに、彼はさらに地下の深部へと進み始めた。
通路は次第に狭くなり、石壁は湿気を帯びた苔に覆われ、歩を進めるたびに靴がぬかるむ音を立てる。燭台の一つも存在せず、闇は息を潜めるようにそこにあった。しかしエレボスの仮面の下、瞳は冴えたままだった。魔力に反応する僅かな“揺らぎ”が、空気の中に漂っている。
誰かがこの道を、つい先ほど通った。
しかも一人ではない。少なくとも三人、足取りの重さから見て、担がれている者も一人含まれている。
『まだ儀式は終わっていない』
彼の脳裏に浮かぶのは、さきほどの少年の言葉と、部屋に残されていた“偽神の祝福”という術式の記述。あれは単なる洗脳ではない。長期にわたって精神を侵し、対象の価値観を塗り替える魔術──それも、かなり高度な意図を持った構造。
これはもはや“狂信”ではない。“創造”だ。
『人を変える』のではない。
『人を作り直す』という意思の下で、動いている。
この地下のさらに下に、何が築かれているのか──彼は慎重に足音を抑え、壁のわずかな裂け目に手を触れる。魔力の反応が一層強くなっていた。やがて、壁の一部が“術式”で偽装されていることに気づく。
手を翳し、魔力を滑り込ませる。パターンの崩れに触れた瞬間、石壁の表面が微かに揺れ、重い音を立てて横にずれた。
その先にあったのは、天然の鍾乳洞をそのまま拡張したような、異様な空間だった。
岩壁には無数の“印”が刻まれ、それぞれが魔力を灯して淡く輝いている。床には痕跡のように血が撒かれ、儀式に用いた痕がそこかしこに見える。奥には壇上が設けられ、そこに立つ影が一つ──フードを深く被った人物が、誰かを磔にして、魔術の詠唱を続けていた。
「……遅かったか」
だが、まだ終わってはいない。
磔にされた人物は、息をしていた。完全に“変質”はしていない。
エレボスは仮面の奥で息を整えると、足を踏み入れた。
その瞬間、壇上の人物が動きを止める。
「……来たか、“仮面の騎士”よ」
その声は、低く、かすれ、だが明らかに“確信”を帯びていた。
「お前が来ることは、あの方がすでに“見て”おられる」
「“あの方”? ……“アーテー”か」
返す声に冷たさが混じる。だがその瞬間、術者のフードの奥から笑いが漏れた。
「我らが導き手は、あなたに“会えること”を楽しみにしておられる」
「ならば──こちらも、確認しておきたかった」
エレボスの手が、腰に下げた革袋に触れる。そこには先ほどの部屋で採取した“魔力触媒”と“印章の写し”がある。術式の構造はすでに解析に入っており、これを基にすれば、信徒たちの構造そのものに亀裂を入れることも可能だ。
だが、今は──
「貴様を“止める”ことが先だ」
術者が両手を広げる。その手には、細かな“呪文刻印”が彫り込まれていた。皮膚の下にまで染み込むように浸透した紋様は、魔力の供給源そのものを肉体に置き換えるという、危険な改造の証。
「“痛み”も“命”も、あの方に捧げた。私はもう、“人”ではない」
その瞬間、術者の身体が膨張し、異形の姿へと変わっていく。皮膚が裂け、背中からは無数の黒い管のような触手が伸びる。血と魔力の飛沫が弾けるたび、空間が歪む。
だが、エレボスは怯まなかった。
「……ならば、その信仰もろとも、断ち切るまでだ」
仮面の奥で目が光る。
次の瞬間、彼の足元が跳ね上がった。爆ぜるような衝撃と共に、筋肉に宿る魔力が一気に活性化し、彼はまっすぐに飛び込んだ。
地を蹴った瞬間、その肉体は鋼鉄すらも貫く矢のような鋭さを持ち、鍾乳洞の空気を断ち裂いた。エレボスの拳が放たれるより早く、異形の術者が伸ばした黒い触手が応じる。まるで意思を持つ生き物のように、うねる線が幾重にも絡みつこうと迫る。
だが──
「遅い」
仮面の奥で呟かれた声とともに、拳が閃く。
打ち抜かれた触手の一本が、根元から吹き飛んだ。肉と魔力が混じり合った断面から、火花のような魔素が散る。痛みを感じないはずの異形が、一瞬だけ呻き声を漏らす。
「……この“感覚”……!」
驚愕とも歓喜ともつかぬ声を上げ、術者が新たに腕を振り上げる。その動作に合わせ、天井の印が一斉に発光した。次の瞬間、鍾乳洞全体が軋みを上げ、空間そのものが歪み始める。
重力が狂った。
エレボスの足元がふわりと浮く。だが、そのまま流されるほど彼は甘くない。空中で体勢を整えると、膝を折って地面を蹴るような動作で天井に突進。重力の方向が変わった今、地と天の区別は意味を失っている。
敵が掌握しているのは空間の“支配権”だ。
魔術によって重力を反転させ、空間に“渦”を作ることでこちらの動きを制限しようとしている。
「だが……」
仮面の奥の瞳が細められた。
「重力だけでは、俺の“速さ”は奪えん」
空間の渦を踏み台に、重力の反転すら利用するようにエレボスは加速する。脇をすり抜ける無数の触手がかすめるたびに、肌を裂くほどの圧が生じたが、それでも踏み込んだ。
──この距離だ。
鍾乳石の影を縫い、再び踏み込むと、拳が放たれた。
着弾と同時に、異形の胸郭が内側からひしゃげた。
「グ……ァァァ……!!」
術者が呻く。明らかに“防御”が間に合っていなかった。
だが──それでも倒れない。
「“我らが導き手”は、すでにお前の運命を視ておられる……!」
狂気の声がこだまする。肉体がさらに膨張し、血が膿のように流れ出す。自壊寸前の身体を“信仰”の力で押し留めている。もはや人の形をなさぬ“塊”と化したその姿は、まるで一体の“神像”のようでもあった。
それでも、エレボスの表情は変わらない。
「神ではない。“狂気”だ」
床に足をつけた瞬間、魔力が肉体の芯から再び爆ぜる。
第二撃。第三撃。衝撃波が鍾乳洞の壁を割り、地を砕く。
戦いの最中、磔にされていた犠牲者の拘束が緩み、落ちそうになる。エレボスはその瞬間、敵から視線を外さずに、魔力を脚に集中させ、跳躍──空中で犠牲者を抱きかかえ、片手で鍾乳石を蹴って着地。
「無事だ。意識はあるか?」
返答はなかったが、かすかに瞳が動いた。生きている。
「なら、退いていろ」
その言葉を背に、再び闇に向かって身を翻す。
敵はなおも蠢いていた。自身の肉体すら魔術の供物に変え、己の存在そのものを“器”にしようとしている。
だが──
「限界はある。肉体という枷を越えては、魔術は“崩れる”」
崩れた術式の歪みを見極め、エレボスはそこへ集中する。
──一点突破。
魔術の結節点。すなわち、術者の“核”。
そこに魔力を一点に収束させると、拳に宿った閃光が鍾乳洞を切り裂く。
次の瞬間、異形の身体が断末魔とともに崩れ落ちた。
残されたのは、肉塊のような残骸と、焦げた魔術の符。
その奥に、奇妙な“印”が浮かび上がっていた。
見覚えのある──だが、わずかに違う。
「……“変異”している」
魔術の構造が、以前のものとは異なる。
アーテーの痕跡は確かにある。だが、それとは別の、より精密で冷たい意志が、それに“上書き”するように干渉していた。
『まだ終わらない』
その感覚が、仮面の奥で静かに燃え上がる。
闇はまだ深い。
そしてその向こうには、アーテーの影だけではない“何か”が、確かに手を伸ばしていた。




