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第35話

廃倉庫の壁に残された“印”を、エレボスは指先でなぞった。細く刻まれた線は、ただの記号に見えて、その実“術式の核”だった。これは、信徒が集うための“結界の記号”──そして何より、その中心には、例の殺人鬼が名乗ったあの名が、まるで“神の銘”のように刻まれていた。


『アーテー』


その名が刻まれていたのは、明らかに“象徴”としての意味を持っている。かつてエレボスが対峙し、逃がし、そして今もなお探し続けている殺人鬼。その名が、今や教団の中心に据えられているというのか。


「……忌まわしい偶像を作りやがって」


低く、仮面の奥で呟いた声に、苛立ちがにじむ。


アーテーを信仰する集団。その存在が単なる妄信ではなく、何か“計画された構造”を持っていることが、ようやく確信に変わりつつある。


彼らはただの狂信者ではない。術を使い、儀式を施し、人を変質させる。そのために必要な材料を集める手段として、“子供”を狙っている可能性は高い。


エレボスは地面に膝をつき、先ほどの戦闘で飛び散った布の端を拾い上げた。そこには、かすかな焦げ跡と、何かの香油のような匂いが染み込んでいる。鼻を寄せ、記憶をたどる。


──これは、“召喚術”に使われる香。


人体を通して、異形の“核”を作るとき、術者が使う特別な媒介。


そして何より──かつてアーテーが逃走時に使用していた匂いと、限りなく近い。


「……やはり、お前が……あるいは、お前の“残響”が関わっているのか」


遠ざかる足音の幻聴すら、いまは彼の感覚を研ぎ澄ませるきっかけとなる。かすかに湿った風が吹き抜けた。どこかで人の声がする。王都の夜は静かだが、その静けさの裏で、確実に“何か”が動いている。


エレボスは静かに立ち上がり、仮面の下で表情を消した。


あまりにも多くの兆候が重なっていた。信仰、変質、子供、香油、そして“偶像”としてのアーテー。


それらすべてが、ある一点へと収束しつつある。


──『扉が開かれる』


敵がそう言ったことを思い出す。単なる儀式の隠喩ではない。もっと具体的で、現実的な何か。術式による次元の転移、あるいは“変異種”を解き放つための檻の開放。


いずれにせよ、放っておけば王都そのものが壊れる。


エレボスは拳を握り、夜の路地を抜けて歩き出した。足音は、石畳の上で確かに響く。その一歩一歩が、闇を抉り取るような鋭さを帯びている。


ふと、角を曲がった先、影がよろめくように姿を現した。


小さな影。身を震わせ、路地の壁にもたれかかっていた。


「……っ、た、たすけ……て……」


声はかすれ、震えていた。少年だった。年の頃は十にも満たない。服は薄汚れ、手足には何かの“封印痕”のような痣が刻まれていた。


エレボスは即座に近づこうとするが、その一歩を止める。


空気が違う。


──匂いがする。さっきの倉庫と同じ、香油の匂い。


慎重に歩を進めながら、エレボスはその“少年”の瞳を見据えた。涙と埃に濁ったその目の奥に、一瞬だけ、不自然な“冷たい色”が見えた。


「……君の名前は」


問いかけには返答がない。代わりに、少年は首をかしげた。


「……お兄さん、誰? 仮面……こわいよ?」


そう言いながら、まるで人間の子供らしからぬ“ぎこちなさ”で片足を動かした。


──まるで、初めて“足”という部位を使っているかのような動き。


エレボスは確信した。これは、もう“子供”ではない。


術者が作った何か。“魂の芯”が人ではない、別の存在。


「……君を作った者の名を教えろ」


少年はくすりと笑った。だがその笑みは、あまりにも空っぽだった。ピエロの仮面のように、表情だけが浮いていた。


「……アーテー、って……言ってた。僕の、お父さん……」


その瞬間、少年の全身から黒い紋様が広がり、肉体が異形へと変じ始める。


関節がねじれ、骨が軋み、背中から羽のような膜が広がった。


エレボスは、躊躇なく動いた。


腕に魔力を集中させ、足元を爆発的に蹴り出す。


「……元に戻れないなら、せめて苦痛だけは与えずに終わらせる」


仮面の奥の瞳が鋭く光る。


闇の中で、再び拳が走った。

異形と化した少年の身体が、獣のように地を這いながら飛びかかってくる。骨が鳴り、皮膚が裂け、背から伸びた“羽根”はまるで触手のように周囲の空気を切り裂いていた。


しかし、エレボスはその動きの“予兆”すら、見逃さなかった。


仮面の奥、彼の瞳は一瞬の揺らぎを捉え、体を捻って間一髪でその一撃を躱す。同時に、足元から放たれた魔力が瞬間的に路面を砕き、石片を弾き飛ばす。


「“本能”だけで動いている……だが、反応は速いな」


彼は冷静に相手の動きを読みながら、魔力を右腕に集中させた。骨格を強化するように筋肉がわずかに膨らみ、青白い光が指先から淡く滲む。それは、エレボスが得意とする“身体魔装”──遠距離の呪文や術ではなく、近接の一撃に全魔力を込める戦法。


敵は咆哮とも呻きともつかぬ声を上げ、再び飛びかかってくる。口が裂け、そこから垂れた黒い液体が地面を溶かすように音を立てる。


エレボスは後退せず、真正面から踏み込んだ。


腕が振るわれ、拳が異形の頭部に直撃する。


ごぎり、と嫌な音が鳴った。


だがそれでも、敵は崩れない。骨の強度は明らかに“人の域”を超えている。強化され、再構築された構造体だ。まるで、生体兵器のような“造り”だった。


「なるほど……術者は“素材”としての限界を、とうに超えている」


魔力を右足に送り込み、膝を跳ね上げるようにして敵の腹部に叩き込む。衝撃が胴体を歪ませ、石畳の上を滑らせるように吹き飛ばす。


異形は地面を滑りながらもすぐに立ち上がった。


裂けた皮膚の下から、触手のような筋繊維が蠢いている。完全に“異常変質”された肉体。


──だが、まだ“暴走”の域には達していない。


エレボスはそれを見て取ると、素早く距離を詰め、今度は左腕に魔力を込めた。交互に負担を分散させ、魔力の枯渇を防ぐ。彼の戦いは、無駄がない。


異形が腕を振るう。その動きに合わせて空気が震え、破裂音が生じる。


一歩踏み込んだエレボスの足が地面を打ち抜くようにめり込み、勢いをそのままに敵の懐へ滑り込んだ。


「眠れ──せめて、“人”だった名残だけでも、守ってやる」


左拳が、強化された肩口へ叩きつけられた。


鈍く、重い音。


それは、確かな断裂を伴う打撃だった。


異形は叫び声を上げ、膝を折るように崩れ落ちた。


動かない。もう、反応もしない。


だが、エレボスはすぐには手を引かなかった。慎重に、周囲を警戒しながら異形の身体に手を添え、軽く魔力を流す。


──術の残滓が残っている。


死後も“記憶”を封じ込める構造式。術者の痕跡が、わずかに感じ取れる。


「……残っていたか」


エレボスは仮面越しに目を細めた。


手をかざし、指先から放った微細な魔力を“構造式”へ滑り込ませる。まるで暗号を解読するように、その“記憶”の断片を読み取っていく。


苦しげな呻き声、儀式の灯、歪んだ十字のような印章──


そして、最後に映ったのは、


──道化のような化粧を施し、血に濡れたマスクをかぶった男の姿。


「……アーテー」


その名を、静かに口の中でなぞる。


敵が姿を見せずとも、確実に“手”は伸びていた。


目の前の異形は“偶然”ではない。明確な意図がある。


子供を餌に、エレボスを釣り出した──あるいは、戦闘の記録を“主”に還すための装置として使われていた可能性。


どちらにせよ、背後に“教団”が関与しているのは明白だった。


エレボスは静かに立ち上がり、仮面の奥で眼差しを細めた。


「……次は、こちらから仕掛ける番だな」


風が、再び路地を撫でる。


その音に、何かの気配が混じった気がして、彼は一瞬だけ足を止めた。


だが、誰もいない。


そう思った刹那──視界の端で、わずかに“影”が揺れた。


エレボスは反射的に振り返る。だがそこにあったのは、ただの石造りの壁と、古びた木箱が積み上げられた一角。猫一匹すら潜めそうにない、閉ざされた路地の末端だった。


「……術か」


空気が、一瞬だけ“沈んだ”。


それは、視線を逸らした瞬間に侵入を許す、微細な“欺瞞”。術式そのものを空間に編み込み、外部の目を誤魔化す“幻惑結界”の痕跡だった。ごく僅かに、視神経に干渉する感覚が残っている。


エレボスは慎重に数歩戻ると、壁際へと近づき、指先で石の表面をなぞった。


そこにあった。術式の“縫い目”が。


ほとんど視認できない。だが、確かに触れられる。


魔力を込めた指が、結界の“糸”を少しずつ剥ぎ取るように追い詰めていく。わずかに抵抗するような振動が指先を襲うが、エレボスはそれを抑え、ゆっくりと空間の“仮面”を剥がす。


──そして、空間が揺れた。


目の前の路地が歪み、奥に“存在しなかったはずの扉”が現れる。黒く、鉄で覆われた重厚な扉。その表面には、あの“教団の印”──十字に歪んだ異形の紋が刻まれていた。


エレボスは微かに眉を寄せた。


「……ここが“回収”の現場か」


人目につかず、しかも王都の中心から離れていないこの場所。教団にとっては“便利”な立地だ。捉えた者をここで異形へと変質させ、証拠もろとも処分する。誰にも気づかれず、静かに。


仮面の奥の眼差しが、鋭くなる。


彼は拳を軽く握りしめ、魔力を抑え込むように掌の中へ沈めると、扉へと手を伸ばした。


その時だった。


扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。


「──……アーテーさま……次の……準備が……」


その名を聞いた瞬間、エレボスの動きが止まる。


まさか、この場に本人が……? いや、そう短絡的には考えない。教団の一員が、その名を『神』として崇める声の可能性もある。だが──


「次の、とは……」


まさか、また新たな変質体を“放つ”つもりなのか。


エレボスの中で、一瞬だけ迷いが生まれた。


このまま踏み込めば、罠である可能性もある。


だが、もしここに新たな犠牲者がいるのだとすれば──


『止まらない』


その言葉が、脳裏に浮かぶ。


アーテーが最後に残した言葉。あの歪んだ顔で、芝居がかった声で、仮面の奥の彼に向かって言い放った。


『“まだまだ面白くなる”って、俺は思うんだよねえ……なぁ、エレボス?』


舌を巻くようにして笑ったあの声音が、今も耳の奥に残っている。


エレボスは扉の取っ手に手をかけた。


迷いは、ない。


「ここを破る」


低く呟いた声が、夜の空気を裂いた。


次の瞬間、鉄の扉が鈍い音を立てて弾け飛ぶ。接合部に宿された術式を無理矢理に破砕し、無理矢理に開かせた衝撃。魔力を帯びた拳は、扉ごと内側の空間をも揺らすような衝撃波を走らせた。


埃と煙が舞い、薄暗い地下通路の入口が露わになる。


そこは、石の壁で構築された狭い通路だった。地面にはわずかに血のようなものが垂れている。魔力に反応してぼんやりと赤く輝く紋様が、壁や床に描かれていた。術式か、あるいは──儀式の痕跡か。


「……やはり、ここで“変質”させている」


呟きながら、エレボスは通路を進む。慎重に、だがためらいは一切なかった。仮面の奥の瞳は、既に一切の光を見逃さぬ夜の狩人のそれになっていた。


やがて、通路の先に広がったのは半地下の大広間。


広間の中央には、魔術式で構成された巨大な“印”が刻まれており、その上に一人の少年が横たえられていた。意識は無く、身体には既に変質の兆候──皮膚の一部が硬化し、腕の骨が外部に突き出しかけていた。


その傍らに、ローブを纏った複数の術者たち。


「侵入者だ! 結界が破られた!」


声が飛ぶと同時に、周囲にいた術者たちが一斉にエレボスへと手を向け、詠唱を開始した。火花のような魔力が空中に走る。だが──


「遅い」


エレボスは足元の魔力を一気に解放した。肉体強化を施された脚が、床を砕きながら術者の懐へと疾走する。


一人、拳で沈めた。


もう一人、掌底で肋骨を砕き、壁際に叩きつけた。


残る数人が防御魔法を展開したが、それを読んだエレボスは腕に魔力を籠め、鋭い一撃で“縫合点”を破る。


術者たちは、もはや戦闘にならなかった。


それでも数人、最後の抵抗として地下の奥へと逃げようとする。その動きを追って、エレボスもまた深部へと足を踏み入れる。


そして──地下最奥の扉の前に、現れたのは一人の少女だった。


年端もいかぬその少女は、何かを“手に抱えていた”。


それは、小さな仮面。笑ったような表情を張りつけた、白い道化の仮面。


仮面を見た瞬間、エレボスの心臓が微かに跳ねた。


「……その仮面、どこで手に入れた」


少女は答えない。だがその瞳は濁っていて、“人の理”を完全に失っていた。


「“アーテーさま”が、選んでくださったの」


その声は、感情の色を持たない。ただ信仰だけが、心を塗り潰していた。


次の瞬間、少女の背中から蠢くように“脚”が生えた。


蜘蛛の脚のような、関節の多い異形の四肢。それは、少年の変質とよく似ていたが、明らかに構造が“進化”していた。


「……見せしめか」


少女の身体が異形へと変貌していく。


骨がきしみ、筋肉が引き裂かれ、器官が人ではない何かに作り変えられていく。


だが、エレボスは構えを崩さなかった。


「その手の先に、“主犯”がいる」


そう確信しながら、彼は再び足を踏み出した。


そして、血と術と狂信の匂いが満ちる空間の中、仮面の騎士は“中心”へと切り込んでいく。


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