第30話
エレボスは静かに歩き出した。地下の湿った石畳を踏みしめるたび、音もなく纏った魔力が周囲の気配を探り、わずかな痕跡さえも拾い集めていく。すでに転移陣の残滓はほとんど消えていたが、それでもわずかに残された『歪み』が、術者の位置をぼんやりと指し示していた。
「どこまで仕組まれていた……?」
呟く声は低く、乾いていた。
あの男の最後の言葉、そして口にされた“アーテー”の名。数年前、あの忌まわしき殺人鬼が血で綴った犯行声明。その全てが、まるで“神の啓示”であるかのように語られ始めている。
もし、あの“狂人”が本当に再び動き出しているのだとしたら──そして、それを信仰する連中が動いているのだとしたら──
事態は、あの時を遥かに超えている。
石壁に沿って進んだ先、小さな祠のような空間が現れた。地下墓地に併設された古い信仰施設の一部らしいが、すでに機能はしておらず、風化した石像と、崩れかけた壇が残されているだけだった。
だが、その中央に置かれていたものが、エレボスの目を鋭くした。
それは、歪んだ人間の顔が彫られた仮面。
そして、その周囲に刻まれた“血文字”。
『アーテーに仕える者、ここに集いし時、破滅の鐘は鳴る』
ただの落書きにしては、魔力の残留が強すぎた。誰かが明確な意図を持って“ここ”を用いていた。そして、そこにはひとつの“合図”があった。
地面のわずかな溝。血の流れが一点に向けて彫られている。祭壇に見せかけて、その中央に“何か”を捧げていた痕跡があった。
エレボスは指先で血の痕をなぞり、低く唸る。
「これは……“召喚”か。“模倣”か」
魔術の型は不完全だった。しかし、“完成を急がなかった”形跡がある。つまり、この教団の目的は即時の破壊や支配ではなく──『信仰の拡大』。狂信の中に、冷徹な“計画”が見え隠れする。
その時、後方の気配が揺れた。
反射的に身体をひねり、背後の影へと魔力を叩き込む。
空気が爆ぜ、黒いローブを纏った小柄な人影が吹き飛ぶ。床を転がった先で呻き声をあげるその者は、まだ少年と呼べるほどの年齢だった。
だが、眼だけは違った。
濁っている。恐怖でも憎しみでもない、“信仰”に塗れた眼だ。
「アーテー様に……手を出すな」
震える声ながらも、憎悪に満ちていた。魔法の才能は浅い。だがその小さな身体に、『何か』が宿っている。
「洗脳か……それとも、自ら堕ちたか」
エレボスが近づこうとしたその瞬間、少年の身体が不自然に震え始めた。
皮膚が割れる音。
骨の軋むような音。
「――“融合体”……!」
背中から突き出すのは、まるで虫の脚のような異形の器官。内部に『何か』を埋め込まれている。半ば“キメラ”として、少年は自らの身体を供物にしているのだ。
エレボスは咄嗟に魔力を展開した。
「意識を潰す……これ以上、苦しまなくて済むように」
少年は吠えるように叫び、跳躍する。その一撃は粗雑であっても、身体の硬度と魔力によって殺傷力を備えていた。
エレボスはかわさず、真正面から受け止めた。
ガン、と金属が打ち合うような音が響き、エレボスの前腕に魔力の盾がきらめく。そのまま地面を蹴り上げ、少年の動きを封じる形で足をかけて組み伏せた。
「眠れ……“救い”とは、これを拒むことではない」
魔力が指先から少年の首元へと滑り込む。その力は“破壊”ではなく“静止”。心臓を止めずに、意識のみを断つ。
少年の身体が静かに崩れ落ちた。
ほんの一瞬のうちに終わったその戦いは、残酷な静寂を残していた。
エレボスは倒れた少年をそっと仰向けにし、フードを直してやった。
その顔は、確かに“普通の子供”だった。
「……罪は、お前のものではない」
仮面の奥、声はかすかに沈んでいた。
だが、その沈黙の奥には、確かな『怒り』が息を潜めていた。
この歪んだ信仰の拡がり――根は、深い。
そしてその“核”に、再び“アーテー”の名が絡んでいるのなら――
エレボスは拳を握り直した。
『今度こそ、逃がしはしない』
夜は、まだ終わっていない。
祠を後にしたエレボスの足取りは、以前にも増して静かだった。だがその沈黙の裏には、確かな熱が渦巻いていた。教団の触手は地中に根を張り、既に王都のあちこちへと伸び始めている。しかも、彼らは“人間”を苗床にしていた。
子供までも、迷いなく“供物”にして。
これが、ただの信仰で済む話ではないことは明らかだった。
エレボスは地下回廊を進みながら、掌に宿したままの魔力で壁面をなぞる。血の流れがかすかに染み込んだその石材には、微細な転移痕と儀式の魔紋が刻まれていた。それらは不完全ながらも、あちこちで共通する“文様”を形成している。
「……なるほど。街全体を『陣』に見立てているか」
それは単なる拠点ではない。王都の地下網そのものを使って、教団は何かを“完成させよう”としている。空間そのものが、巨大な器となるなら――その中心である“核”は、既に用意されている可能性が高い。
だが、その“核”の場所だけが、今なお特定できない。
エレボスは地図を頭の中に展開し、既知の転移痕と残滓を繋いでいく。その途中、意識が自然とある一点へと向かう。都市中心部にある、大聖堂跡。かつて信仰の拠点として機能していたその場所は、今は役目を終え、封鎖されたままとなっていた。
「核……そこにあるのか?」
ふと、地下の空気が揺れた。
静寂のなかに、異質な『気配』が混じる。まるで人ならざるものが、岩の奥からこちらを覗いているかのような、粘性のある視線だった。
エレボスは立ち止まり、仮面の奥の瞳を細める。
風は吹かないはずのこの空間で、髪がふと揺れた。直後、突如として壁の一部が“裂けた”。
ぬるりと這い出してきたのは、長く、薄い身体。
それは人の形を模した“何か”だった。腕は二本、足もある。しかし、皮膚は均一な灰色で、目鼻口といった器官が“描かれたように”貼りついている。人間を模した蝋人形のようなその存在が、じわりと立ち上がった。
「……模倣体か。いや、“人間だった”か?」
仮面の下で、エレボスの声が沈んだ。
それは、確かに元は人だった。だが、すでに魂の芯を焼かれている。声を上げることも、言葉を発することもなく、ただ教団の“命令”に応じて動くだけの傀儡。
目の前の敵は、エレボスを見て即座に動いた。
滑るような速さで距離を詰めると、腕を裂くようにして刃を生み出し、一閃。
エレボスは体をひねり、それを紙一重でかわした。刃は背後の岩壁を抉り、火花が散る。
「悪趣味な細工だ」
その声とともに、エレボスの拳が炸裂した。
魔力を宿した掌底が傀儡の腹を砕き、そのまま壁へ叩きつける。だが、それでも敵は止まらなかった。身体を引き裂くようにして背中から“脚”のようなものが生え、蜘蛛のように逆立ち、再び跳びかかってくる。
敵は明確に“殺す”ために作られていた。
一つ一つの動きに感情がなく、ただ『対象の命を奪う』ことだけに特化している。
エレボスは冷静にその動きに付き合った。
拳と拳がぶつかり合い、魔力と肉体が擦れ合い、岩壁を震わせる衝突が幾度も繰り返される。
呼吸すら捨てたような敵に対して、エレボスは『肉体』と『魔』の融合で対抗する。魔力を指先に集めると、それを一気に放出し、敵の腕ごと裂いた。
そこからは血も出なかった。
かわりに、黒い液体のようなものが噴き出し、それが床に落ちて“溶かした”。
「やはり、“異界の核”を埋め込まれているか……」
その核は、教団が外部から取り寄せている未知の素材だった。正式な記録にも存在せず、他の魔術師たちでも研究すらできない。まさに“禁忌”と呼ぶべき物質。
だが、エレボスの拳はそれを恐れなかった。
「──沈め」
低く言い放つと同時に、魔力が爆ぜた。
接近戦特化の圧縮魔撃。それは“力”ではなく“破壊”そのものだった。敵の身体が内側から崩れ、皮膚が破れ、核の部分が露出する。
そこへもう一撃。
エレボスの手刀が真っ直ぐに貫き、その核を抉り取る。
残骸は崩れ落ち、ようやく地下に静寂が戻った。
エレボスは核を掌の中で砕きながら、仮面の奥で静かに息をついた。
「これで、一つ」
だが、周囲の空気が変わっていた。岩壁に刻まれた魔紋が、また新たに浮かび上がる。
まるで、誰かが“こちらを見ている”かのように。
「次は、“迎え撃たれる”番か……」
それでも構わなかった。
仮面の下、微かに口角が上がる。
彼は、あの“男”と再び出会うことを、何よりも待っていたのだから。
夜は、まだ深まる気配を見せていた。
王都の夜は静かだった。
だがその静けさは、死んだ水面のようなものだ。下では濁流が渦を巻き、どこかで必ず――破裂する。
エレボスはその兆しを見逃さない。
地上に戻った彼の視線は、遠く、封鎖された旧大聖堂跡を捉えていた。
かつての信仰の象徴。今では人が寄り付かず、時折鳴る鐘の音さえ風の悪戯と思われている。
しかし、エレボスには聞こえていた。
“何か”があの中で蠢いている音が。
彼は夜の王都を歩く。
瓦屋根に霧が降り、灯火の色をぼやかす中、ひときわ目立たぬ漆黒の影が、音もなく道を進んでいた。
そして、ある小路の奥。
旧市街に近いその一角は、日中こそ市場として賑わうが、夜になればすぐに闇に沈む。
だが、今夜だけは、確かにそこに“光”があった。
地面を照らす淡い赤い光――魔紋だった。
それは誰にも気づかれぬよう、路面の石と石の間に細く、深く刻まれていた。
「……ここも陣の一部か」
低く呟くと、エレボスは膝を折り、その文様に掌を当てる。
魔力の流れを探る。時間はかからなかった。
それは、既に“繋がっていた”。
そして次の瞬間、まるでそれが合図であるかのように――背後から、気配が現れる。
踏みしめられた石畳がきしみ、足音が響く。
ひとつ、ふたつ、みっつ。だが気配は、一人分ではなかった。
仮面の奥でエレボスの瞳が細くなる。
「……匂いが変わったな」
空気の密度が違う。
鉄錆のような、あるいは腐臭のような――生きてはいるが、人ではない。
気配が、にじむように増える。
やがて、闇から現れたのは、数名のフードの男たち。
全員が教団の装束をまとい、顔を隠していた。
だがその手には、剥き出しの“術式”が浮かび、手足の皮膚の下に“別の肉”が蠢いている。
彼らはもう、“人ではなかった”。
その中央。ゆっくりと進み出た男だけが、唯一フードを脱いでいた。
痩せこけた体躯。顔には奇妙な文様が刻まれ、瞳は焦点を結ばぬまま虚空を見ている。だが、口だけは笑っていた。
「我らは、『主の器』を目指す者」
彼は空に向かって腕を広げる。
「この世の理から逸脱し、愚者の咎を背負い、目覚めの時を告げるために」
その言葉が終わる前に、エレボスはすでに動いていた。
魔力を拳に集め、一直線に飛び出す。
前に出た信者の一人が防御の魔法を展開するが、拳の一撃で陣が砕け、肉体ごと吹き飛ぶ。
地面が砕け、信者たちが慌てて術式を描こうとする――が、遅い。
「お前たちは、“器”ですらない」
低い声が響くと同時に、エレボスの蹴りが次の一人の胸を貫く。
魔力で強化された肉体は、刃にも勝る破壊力を持ち、術者の防御を容易に穿つ。
しかし、敵もただの信者ではない。
残った者たちは一斉に詠唱を中断し、自身の肉体を“変異”させ始める。
その背から現れたのは、黒い“羽”。
蜘蛛か、蝙蝠か。あるいは、もっと別の何か。
人の輪郭が歪み、牙と爪が溢れ、眼がいくつも増える。
魔術による肉体変異――『転身の儀式』。
「“主の声”を聞け」
そう叫んだ瞬間、周囲の魔紋が一斉に光を帯びた。
結界だった。そこは、彼らの“聖域”。
その中で、エレボスは包囲されていた。
だが、逃げる気など最初からない。
「貴様らの主など、俺は知らん」
その言葉と同時に、掌が空を裂く。
圧縮した魔力を斬撃に変え、前方を薙ぎ払う。
信者の一人が胴体ごと裂かれ、魔力が暴発し、周囲の術式を巻き込んで爆ぜた。
火花の中、エレボスは地を蹴る。
まるで重力を逆らうように、壁を蹴って跳び、敵の頭上から急降下。
片膝を抱えたまま着地し、衝撃波が地面を砕く。
二人、三人と倒れていく。
だが、その奥であの痩せこけた男が笑っていた。
「ようこそ、“神の眼”へ」
その言葉の意味を問う暇もなく、周囲の空間が歪んだ。
天と地が一瞬逆転し、視界が強制的に塗り潰される。
魔術だ。空間転移型の、恐らく術者本人とリンクしたタイプ。
「逃げる気か」
エレボスは地を蹴る。
だが次の瞬間、男はすでにその場にはいなかった。
術式の残滓が舞い、彼の“転移”が完了したことを示していた。
エレボスはその場に立ち尽くし、ひとつ深く息を吐く。
「……また、見失ったか」
仮面の下の瞳が、再び細くなる。
だが、口元には皮肉のような微笑が浮かんでいた。
「それでいい。まだ、終わらせはしない」
夜風がその背を押し、王都の屋根の向こうに仄かな朝焼けが滲みはじめていた。
だが、闇はまだ、完全には退いていなかった。




