第29話
風が吹いた。廃屋の隙間から入り込んだ冷気が、仮面の下の肌を撫でる。それはどこか、得体の知れない声なき『呼吸』のようだった。
エレボスは静かにその場を後にしながら、足元に転がる奇怪な肉塊を一瞥した。それはすでに人の形をしておらず、どこか虫のようであり、魚のようでもあった。かつて祭壇の上に立っていた男の成れの果て。あの異形の者が語った最後の言葉は、ただの狂信による妄言ではない――それは、確かな“系統”を持った『意志』のようにすら思えた。
「この教団……ただの模倣ではない」
仮面の奥で低く呟きながら、エレボスは思考を深める。背後に“本物”がいる。――いや、正確には“本物のアーテーを知っている”誰か、だ。
地下で初めてアーテーと対峙した時の感覚が、脳裏に微かに蘇る。芝居がかった声。不可解な論理。破綻した言葉の中に、一筋の“悪意の確信”があった。それと似た匂いが、確かに今の教団からも漂っていた。
「意図的に“模倣”させている……あいつが、意図的に」
闇の中に潜む殺人鬼――アーテー。彼が生きている限り、こうした歪んだ信仰は、別の顔を被って何度でも現れる。まるで、狂気の種を自らばら撒いて歩くかのように。
エレボスは地面に残る術式の残骸を指先でなぞる。そこには、見慣れぬ『形』が描かれていた。幾何学的だが、意図的に線を“ずらし”てある。構造は古代の封印術式に酷似しているが、決定的に違うのは、“中心”がないということだった。
「核を欠いた術式……外側だけを真似た、無核の魔術か」
まるで、それを作った者が“中心の力”にすら触れたことがないのに、儀式の“形”だけを模倣しているような――。
いや、違う。むしろ“中心”が『別の場所』にあるのかもしれない。遠く離れた場所で、その核が脈動し、ここを駒の一つとして動かしているとすれば……。
「“遠隔の祭壇”……か」
思考が深まるごとに、見えぬ敵の姿がぼんやりと輪郭を帯びてくる。アーテー自身の関与の度合いは不明だが、この“模倣”の動きの奥には確実に知性がある。意図。計画。秩序なき秩序。
――もう一度、地下へ降りる必要がある。
そこには、信仰の“根”がある。地上で手に負えなくなった信徒の残骸を処理するだけでは、何も終わらない。
エレボスは静かに歩き出す。夜の街の、さらに深くへ。
王都の灯は、誰もが気づかぬまま揺らぎつつあった。だが、それでもなお、彼の歩みだけは、ぶれることなく地を踏みしめていた。
闇の底。地下の底。
――そのどこかに、“核”がある。
そしてそれを作った『誰か』が、今もどこかでこちらを見ている。仮面の奥の視線と、どこかで交差するその瞬間を待ちながら。
王都の夜は、静寂と微かな騒がしさが交錯する不思議な時間帯だった。街の明かりが徐々に落ち、衛兵たちが交代の声を上げ、人気の薄れた道の先に、風が吹き込む。
エレボスはその中を、音もなく歩いていた。長身の影が建物の縁をなぞるように進み、仮面の奥で光る眼差しは、すでに人の目に映るものだけを見てはいなかった。
先の教団との戦いは、表面的には終結していた。祭壇も崩れ、信徒の多くは捕縛または粛清され、表立った活動は途絶えた。だが、それはあくまで“表面”でしかない。教団が根付いていた場所を離れれば、街の人々は平穏な日常に戻り、彼らの口から『信仰』という言葉が語られることはなかった。
だがエレボスは知っていた。
その平穏こそが、最も静かに進行する“侵食”の証だということを。
廃寺と化した一角へと足を踏み入れる。瓦礫の奥に、手入れされた跡のある石段があった。埃一つ無いその段差に、明らかな“足取り”が残されていた。――最近、誰かが通った形跡だ。
エレボスは指先で微かな跡をなぞる。土の乾き具合、足の向き、重心の偏り……一瞬で複数の情報が頭に流れ込んでくる。
「子供……ではない。軽装の大人、踵を付けていない歩き方」
踏み跡は石段の奥、地下に続く通路へと消えていた。
そして、その先に――あった。
床に、わずかに“蠢く”痕跡。乾ききっていない粘液。魔力反応を帯びたそれは、ただの血液でも汗でもない。生物の体液……いや、キメラの“体内構造”の一部である可能性が高かった。
「……まだ潜んでいるな」
仮面の奥で、エレボスの視線がさらに鋭くなる。足音を殺し、地下へと続く狭い石段を降りていく。途中、崩れかけた壁面の隙間からかすかに空気が流れていた。冷たく、湿った匂い。だがその奥には――不自然な“香”があった。
香と呼ぶには不快すぎるそれは、焼かれた香草と肉の腐臭が混ざり合ったようなものだった。地下の闇に紛れた何かが、匂いとともにこちらを探っている。
しばらく進んだ先、突き当たりの部屋で、彼はそれを見た。
人の姿をしていた。だが明らかに“人ではなかった”。
四肢の関節が逆に曲がり、肩から突き出したのは、背中を突き破って生えた――“骨の翼”。翼ではあったが、それは空を飛ぶためのものではない。槍のように鋭く、殺すためだけに存在する“器官”だった。
エレボスは静かに手を上げた。
「抵抗するなら、応じるまでだ」
その声は低く、揺るがない。
だが異形の者は返答しなかった。代わりに、咆哮が響いた。空気が歪む。部屋の気圧が急激に下がり、次の瞬間、骨の槍が一気に放たれた。
エレボスの身体が、霞のように揺らいだ。残像を残して横に跳び、指先から魔力を収束させた掌を突き出す。術式は使わない。肉体に魔法を纏わせた、純粋な打撃だった。
骨の翼が砕ける。
だが敵は止まらない。砕けた骨の一部が溶け、瞬時に再形成される。――それが“生物”ではなく、“造られたもの”である証。
「術者の痕跡を追ってきたが……お前は囮か」
エレボスが見抜いた瞬間、異形の者が猛然と襲いかかってきた。その脚は人のものより遥かに長く、跳躍力と踏み込みの重さを兼ね備えていた。
重い。だが、鈍くはない。
それを正面から受け止めるのは得策ではない。エレボスは床を滑り、敵の懐に潜り込んだ。肘に纏った魔力を一点に集中させ、異形の胴体へと叩きつける。
爆ぜた。
爆風のように周囲に飛び散る肉片。その中に、僅かに“術式の核”が混じっていた。
「……術者と繋がっている」
エレボスは核を掌で押さえ込む。まだ脈動しているそれを通して、かすかな魔力の“逆流”があった。どこか、遠く。まだ未発見の拠点がある。そこに、この“核”の根が繋がっている。
仮面の奥、瞳が冷たく光る。
闇は深い。だが、核心は確実に近づいていた。
床に散らばった肉片と、血ではない奇怪な液体が微かに蒸気を立てながら蒸発していく。エレボスは足元の核を見下ろしたまま、指先に魔力を集中させた。音もなく魔力が核を包み、空間の一点を歪ませていく。
術者の痕跡が、そこには確かにあった。明確な波長、偏った属性、そして何より――“悪意”の匂い。
仮面の奥の瞳が静かに細められた。
「同じ系統だ……いや、“教団”とは違う……これはもっと……個人的な執念だ」
思考を巡らせる傍らで、核から漂っていた魔力の“残滓”が一気に弱まる。まるで遮断されたかのように、術者との繋がりが断たれた。
「気づかれたか……」
敵は想像以上に用心深い。そして、こちらの動きを監視している可能性すらある。それがただの一介の術者か、それとも新たな組織の気配なのか――まだ断定するには情報が足りない。
エレボスは床に落ちた破片のいくつかを拾い、慎重に布で包んだ。戻れば、ヴァルスの協力を得て解析できる。今夜はこれ以上深入りすべきではない。術者に気取られた今、無理をしても証拠はすべて潰されるだけだ。
だが、そう思った刹那だった。
地下の奥、かすかに風が揺れた。
気配。
仮面の奥の瞳が、即座に反応する。
「……まだ“残っていた”か」
音もなく抜けた通路の先に、人影が立っていた。ローブに身を包み、顔は深くフードで隠されている。手には何も持たず、ただこちらを見据えるその姿に、言い知れぬ不気味さがあった。
「“見つけた”……夜の仮面よ」
その声は、笑っていた。だが感情が乗っていない。まるで誰かの台詞をそのまま口にしているような、奇妙な“間”と“抑揚”。
「……貴様が、術者か」
エレボスが一歩踏み出した瞬間、男の足元に展開された陣が淡く輝いた。転移陣だ。展開速度からして、かなり前から発動の準備をしていたもの。――つまり、こちらの動きは読まれていた。
「“今はまだ”会う時ではない。けれど……近いうちに、“お方”が望まれる」
「“お方”? 貴様、何者だ」
「信じる者の名は、まだ語らぬ。だが……『アーテー様』を称える声は、やがてこの地にも響く」
アーテー――その名に、エレボスの瞳が細くなる。
「貴様ら……“教団”の残党か」
「残党? ああ、それとは少し違う。けれど……彼の名を崇める者が、どれだけ居ると思う?」
男の体が魔力に包まれ、像を結ぶ境界が曖昧になっていく。
「これからが“始まり”だ。地を這う者よ……せいぜい、夜を照らし続けることだ」
次の瞬間、男の姿は霧散した。
転移は完了し、残されたのは魔力の残滓と、仄かに香る焦げ臭い空気だけだった。
エレボスは拳をゆっくりと握りしめた。
「……“崇める”……か」
その言葉の意味を、エレボスは慎重に考えた。“信仰”とは、ただの思想にとどまらない。人を盲目にさせ、理を越えた行動を起こさせる。
それがもし、“アーテー”を神格化するような集団へと広がっているのだとしたら――
これはもう、ただの事件ではない。
エレボスは仮面の奥で目を閉じた。
その男の口ぶり、語調、発音。
“本人”ではない。だが、確かに“本人の意志”が介在していた。何者かがアーテーの名を広めようとしている。それは単なる狂信ではなく、“意図”を持った計画の一部だ。
エレボスは仮面に手を触れ、静かに前を向いた。
――もうすぐ、アーテーの“痕跡”が再び姿を現す。
それが、どれほどの闇を引き連れてこようとも。
彼は、止まることはない。




