第28話
王都の外れ、廃工房の跡地。石造りの外壁は崩れ、天井の梁は腐りかけている。だが、その内奥に潜む空気は、外の荒廃とは対照的なほどに、息を潜めた熱を孕んでいた。
仮面の奥で、エレボスの瞳が静かに光を宿す。
重く軋む扉を押し開けると、そこには人工的に整えられた空間が広がっていた。壁一面に貼られた祈祷文のような墨書。無数の蝋燭が灯され、中央には、黒い布を纏った人影が数名、円を描いて膝をついている。彼らの中心には、禍々しい形の偶像──鳥と人間が融合したような、異形の面を被せられた像が祭壇に安置されていた。
エレボスの気配に気づいた者たちが、一斉に顔を上げる。
「……来たか、夜の狩人」
「ようこそ……『目覚めの儀』へ」
その声には狂気が混じっていた。口元に笑みを浮かべながら、彼らは一様に胸元の印を掲げる。黒い円の中に描かれた、無数の線──それは、エレボスが過去に調査した『狂人・アーテー』の犯罪現場に残されていた、あの羽根模様と酷似していた。
「信仰などではない。これは……崇拝か」
彼らの目は虚ろで、けれど確かに『何か』を見ていた。その先にあるものが、ただの虚構ではないと感じさせるほどに。
男の一人が立ち上がると、静かにローブを脱ぎ捨てる。痩せた肉体の背中には、刺青のような紋様が刻まれていた。それが、突如として脈打ち始める。
ズチュッ──音もなく、男の背中から何かが生え始めた。
蜘蛛の脚に似た、硬質な黒い肢体が、皮膚を突き破って姿を現す。
他の信徒たちも次々と異形へと姿を変えていく。人間と異形の境界を溶かしたような存在。まともな意思では制御できぬ力が、彼らを貪っていた。
エレボスは静かに腰を落とす。
魔力が彼の両腕に宿る。炎でも雷でもない。圧縮された気流と重圧が、その肉体を媒介にして、戦意と共に噴き出す。
「……祈るなら、せめて“生きて”いる間にすることだな」
一人、跳躍して襲い掛かってきた男の爪を、エレボスは片腕で受け止め、膝で急所を砕く。弾かれた身体が壁に叩きつけられる音と同時に、別の敵が背後から突進してくる。
だが、エレボスの足元に魔力が集中する。次の瞬間、魔力を帯びた踵が、床を砕きながら跳躍し、空中で迫る敵の顔面に拳を叩き込む。
骨が砕ける音と共に、天井にめり込む肉体。
決して過剰な力ではない。だが、一撃で沈める確実さが、仮面の騎士の力量を示していた。
「アーテーに縋ることで、何を得た……?」
「『見えたのだ』……“真理”が……!」
歪んだ声でそう叫んだ女の口から、粘液のような霧が広がる。目を塞ぐほどの濃密な毒気。だが、エレボスは怯まない。
仮面の奥で目を閉じ、魔力を全身に回す。肺を満たす呼吸すら制御しながら、毒の中を歩く。
敵の姿は見えない。だが、足音、風の乱れ、肉の軋み……全てを捉えた瞬間、肘打ちが煙の向こうに走る。
鈍い音と共に、霧の中から呻き声が響いた。
数分後、部屋には静寂が戻っていた。
倒れた信徒たちの身体から、蜘蛛の脚は消え、代わりに異様な痕跡だけが残っていた。それは、術によって植え付けられた“異物”であり、彼らが意図して選んだ道ではない可能性を示していた。
「自我を奪われている……術者は別にいるな」
エレボスは、無言で異形の偶像を見下ろした。その瞳に宿るのは怒りではない。悲哀でもない。
ただ、冷徹なまでの“覚悟”だった。
これがアーテーの信奉によって引き起こされたものであるならば──
その名のもとに、いかなる歪みが広がろうとも、彼はそれを止める存在として、夜の王都を歩き続ける。
やがて静かに背を向けると、仮面の影が月光の中に溶けていった。
それが、次の『悪意の温床』を暴くための、最初の一歩であることを、エレボスはすでに知っていた。
月は未だ天頂を越えず、王都の上空にぼんやりとその輪郭を浮かべていた。だが、地を歩く者にとって、その冷たい光はもはや導きにはならない。ただ静かに、闇の底に潜む悪意の影を際立たせるだけだった。
エレボスの足音は沈黙の中に吸い込まれ、廃工房を後にした彼の周囲には、かすかな違和だけが残っていた。彼は夜の風の中、視線を落としながらゆっくりと歩く。
足元には、信徒たちの残した痕跡──革の破れた靴、焦げた手帳の一片、そして、奇妙な文様を象った金属片が散らばっていた。
「……魔術式の断片か」
エレボスはそれを拾い上げ、仮面の奥でじっと観察する。表面には焦げ跡がありながらも、いくつかの線刻は辛うじて読み取れた。
それは“呼び出し”の類ではない。むしろ、“変質”や“媒介”に関するもの──人体と外的な魔素を強制的に同調させる、禁忌に近い術式。
「術者はまだ近くにいる可能性があるな」
ポケットに金属片をしまいながら、彼は周囲を一瞥した。そこには、ごく自然に崩れた外壁があり、夜の空気に触れた蔦が小さく揺れている。だが、エレボスの目は、その揺れ方の『違和感』を見逃さなかった。
壁の裏側。そこに、誰かが通った跡──いや、逃げるように這い出たような痕がある。
エレボスは静かに、壁の崩れた隙間を通り抜けた。
その先は、王都の地下へと繋がる旧水道だった。いまや使われていない古のトンネルは、地図にすら記されていない。彼が以前の事件で調査した時に得た、断片的な地下網の知識が活きていた。
風が流れていた。湿った苔と土の匂い。その奥に、微かに──血の臭い。
「隠れていたのは……ここというわけか」
奥へ進むごとに、足元の石畳が濡れ始める。水ではない。生ぬるく、濃い液体。そこには、再び祈祷文のような文様が、床に描かれていた。
だが、それは未完成であり、途中で断たれていた。書き手が中断した、もしくは逃げ出した証。
「ここで儀式を……?」
仮面の奥で、エレボスの目が細くなる。
遠くから微かな音。爪で石を引っ掻くような、不快なノイズが混ざっていた。
音の先を辿ると、小さな扉があった。かつてはメンテナンス用の通路だったのだろう。だが今、その奥から濃密な魔素の気配が漏れ出ていた。
エレボスはゆっくりと手を伸ばし、扉に触れる。
「……隠しきれると思ったか」
開かれた扉の向こうには、一人の男がいた。
目を見開き、背を震わせながら、手に持った本を必死に抱えている。魔術師の風貌ではない。どこか素人めいた不格好な姿。だがその男の足元に広がる魔法陣だけが、本物だった。
「来るなッ!これは……俺の……ッ!」
叫びと共に魔法陣が起動する。地面に描かれた符が淡く赤く輝き始める。
エレボスはすかさず走り出す。風が巻き起こる。彼の肉体に宿した魔力が、全身に瞬時に巡る。腕を掲げ、掌から圧縮された力を解放すると、魔法陣の中心が炸裂する。
瞬間、吹き飛ばされた男が呻き声を上げて倒れる。だが、彼の背後にあった術具が割れたことで、膨れ上がりかけていた魔力の歪みは消えていた。
エレボスは男に歩み寄り、その顔を仮面の奥から見下ろす。
「貴様が、あの術を……?」
「ち……違う……俺は……“あれ”に教えられただけだ……!」
震える声。
その口から吐き出されたのは、一つの名。
「『アーテーの声』を聞いたんだ……俺は、導かれただけなんだ……!」
再び現れた、狂気の名。
エレボスの瞳が静かに細まる。
『狂人アーテー』──その名を冠する者の影が、また新たな事件の底に垂れ込めていた。
これは、単なる模倣や信仰ではない。意図的に、誰かが“信仰の土壌”を広げている。
「……あの狂気は、形を変えて種を撒いているのか」
仮面の下の口元が、かすかに歪む。
エレボスは男の腕を縛り、懐から印を取り出す。それは、王都の刑吏たちに用いられる、確保信号。
彼がこの場を後にするころ、地上の夜はすでに淡い光を宿し始めていた。
だが、闇は終わらない。
アーテーの『信徒』が、この街に広がり始めた事実だけが、確かに次なる戦いの訪れを告げていた。
――月は雲間に隠れ、闇が濃くなる。
エレボスは仮面の奥から、夜の王都を睥睨していた。足元には、つい数刻前まで教団の一員であったと思しき男の身体が横たわっている。すでに息はなく、表情には苦悶と恐怖が張り付いたままだ。その胸元には、赤黒い刺青のような文様が浮かび上がっていた。何かの『儀式』に関わっていたことは明白だった。
「……間に合わなかった、か」
かすれた呟きが、風に消える。男の遺体の周囲には、奇妙な粉塵が撒かれていた。銀と黒の粒子が入り混じったその粉は、何らかの術式の残滓だ。エレボスはしゃがみこみ、指先でその粒を軽くなぞる。触れた瞬間、脳裏にざらついた声が微かに響いた。
『アーテーに捧げよ……肉体も、魂も、思考も……』
その声は儀式に使われた魔術痕を辿った残響に過ぎない。だが、その歪んだ響きは確かに、『集団の規模が拡大している』ことを暗示していた。
「放置すれば、この王都全体が“信仰”に呑まれる……」
仮面の奥で、エレボスの眉がわずかに動く。あのアーテーという狂気の具現を『神格』として信じ、崇める集団。それが本当に信仰に値する存在だと信じているならば、もはや交渉も説得も意味を持たない。ただ、『根こそぎにする』しかない。
*
その夜、エレボスは地下街の一角に踏み込んだ。過去に違法な錬金術師や薬師が拠点として使っていた廃屋。そこが今、教団の“臨時礼拝所”として使われているという情報がヴァルスから届いていた。
扉は封じられていたが、内側からは微かに光と、香のような匂いが漏れていた。エレボスは静かに手を翳し、掌に魔術の印を刻む。彼の使う魔法は、詠唱の輝きもなく、ただ肉体に宿る力の奔流として現れる。今宵もまた、闇を討つためにそれを解き放つ。
拳が壁を叩くと同時に、封印が破られ、内部へと躍り込む。だが、そこにいたのは、ただの信徒たちではなかった。儀式の最中にありながら、彼らの目は異様に爛々と光り、口元は涎を垂らして笑っていた。まるで人の形をした『生贄』そのもの。
「来た……来たぞ……夜の騎士が……」
女の信徒が呻くように呟いた瞬間、部屋の奥、赤い布を被った壇上から、黒い影がぬるりと立ち上がった。
「“お前”を待っていたよ、仮面の御仁」
芝居じみた声。だが、その一言だけで、エレボスの全身に電流のような警戒が走る。アーテーではない。だが、似ている。『あの調子を真似ている』ようにさえ思える、異常者特有の軽薄さがあった。
「お前たちは……彼の“代理”か」
「代理? いやいや、違う違う。“俺たち”は、神の器だ。あの方の『思想』を肉にして、喉元から街に染み渡らせる」
そう言った男の顔には、アーテーと同じ、下手に塗り重ねたメイクが施されていた。血のような紅、目の周囲には黒の隈取り。模倣犯。しかし、異様な“熱”がその身体から立ち昇っているのは事実だった。
信徒たちが、いっせいに這い寄ってくる。その目には光がない。ただ、盲目的に“仮面の騎士”に触れたがっているだけだ。
「下がれ」
エレボスの声が低く落ちた瞬間、足元から魔法の紋が浮かび上がる。衝撃と共に、地面を走る熱。エレボスの腕が紅く煌き、接近してきた信徒たちを、最小限の力で気絶させていく。彼らは操られている。可能な限り命を奪いたくはない。
だが、祭壇に立つ男は違った。
「甘いねぇ……“神の言葉”を耳にした者は、もう戻れない」
次の瞬間、男の身体が異形へと歪む。背中からは奇怪な膜のような翅が突き出し、肉体が捩れた音を響かせながら変形していく。術者に『自分自身を差し出す』魔術――人間の限界を越えてでもアーテーに近づこうとした者の末路。
「では、“お前”の選択は?」
「――駆逐する」
その言葉と共に、エレボスの脚が地を砕き、祭壇へと飛び込んだ。
*
やがて、炎と呻きの果てに、静寂が戻る。
エレボスは仮面の奥で、わずかに息を整える。信徒たちは拘束し、術の痕跡も押収した。だが――アーテーに“似せた”何かは、死ぬ間際に言葉を残していた。
「“あの方”は、もっと深いところにいる……俺たちなど、ただの皮だよ」
闇の中で蠢く、さらなる何か。
エレボスは拳を握った。あの狂気が、また別の影を生み出している。
『教団』は、根を張り、広がっていた。
仮面の奥で、その瞳が、夜の更に奥を見据える。




