第27話
王都の夜は、まるで何事もなかったかのように静まり返っていた。
だが、その静寂の下には、確かに蠢くものがあった。
エレボスの足音は、人目を避けるように石畳を淡く打ち鳴らしながら、地下の隠れ家を後にした。手には、例の書と仮面の破片、そしていくつかの薬草の欠片。それらはすぐに証拠庫へと回されるべきものだが、今はまだ、表の機関には渡せない。
情報が漏れる可能性がある──いや、すでに何かが『内部に巣食っている』と仮定した方が良い。
「ヴァルスに渡すまで、このまま俺が預かっておくか」
仮面の内側でそう呟き、エレボスは薄暗い裏路地を抜け、旧教会跡地へと向かった。
そこは表向きにはすでに閉鎖された建造物であり、いまは王都の管理下には無い。だが、ヴァルスがかつて『自らの観察用拠点』として用いていた記録が、エレボスの記憶の中にあった。
扉は錆びついていたが、内部は思った以上に整然としていた。奥の部屋の一角には、埃を払った痕跡と、最近まで使われていたであろう薬品や筆記具の残り香。やはり、ここはまだ“使われている”。
そしてその中央に、静かに彼はいた。
「遅かったな」
椅子に座るヴァルスは、書を見ずとも誰が来たかを知っていた。
仮面の下から渡された破片と書物を受け取り、無言で手に取る。
一枚ずつ、ページをめくりながら彼は低く呟いた。
「これは、もう“病”だな。信仰と呼ぶには余りにも一方的で、理性を放棄している。まるで……『誰かに憑かれたかのような状態』だ」
「術ではなく、影響か?」
エレボスの声には警戒があった。
ヴァルスはしばし黙り込み、書の一節を指でなぞる。
「どちらか、とは言い切れない。が……この記述、“魂の中に入って来る声”という一文──これは単なる精神異常では説明がつかない」
エレボスの仮面の奥で、瞳が細くなった。
「アーテーの名が、本当に“神”と化しているというのか?」
「少なくとも、信じる者にとっては実在している」
静かなやり取りが続く中、旧教会の窓から月光が差し込んだ。
外の街では、日常が変わらず流れている。子どもたちは眠り、商人たちは次の商いの準備をしている。だが、その下で、誰にも知られずに暗い祈りを捧げる者たちが、確かに存在する。
「王都の各区に、同様の“地下拠点”が点在している可能性があるな」
ヴァルスがそう言いながら、棚の地図を引き出す。
夜の間に探るには時間が足りない。
エレボスは無言で頷き、仮面の下から口元を引き結んだ。
その瞬間、外から風が吹き込み、扉が軋んだ音を立てて揺れた。
何かが、また一歩“こちら”へ近づいている。
「この件、表に出すにはまだ早い。あくまで“裏”で進める」
「当然だ」
短く応じたエレボスは、再び背を向け、闇の中へと消えていった。
闇の中にこそ、真実がある。
そして、そこにこそ──アーテーが遺した“何か”がある。
夜はまだ終わらない。
闇の中で、次なる“足音”が、確かに近づいてきていた。
エレボスは旧教会を後にし、再び王都の影へと溶け込んでいった。月明かりは雲に覆われ、街の輪郭は曖昧になり始めている。だがその曖昧さこそ、闇に棲む者たちにとっては格好の舞台だった。
彼の足取りは、自然と南方の路地へ向かっていた。古くからあるが忘れ去られた市場跡。今では定期的に王都の整備員が通ることもなく、地図からも除外されている。表から見ればただの廃墟に過ぎないが、エレボスは感じていた。空気の流れに、焦げた香の残り香と、微かに焦げた肉の匂いが混じっていることに。
廃市場の一角、崩れかけた石積みの奥に、一見して気づかないほど小さな『裂け目』があった。そこから地下へと続く空洞が口を開けている。罠の気配はない。だが、明らかに“用意されている”──それは、闇に潜む者の『自信』の現れでもあった。
「……分かっていて、待っているのか」
呟いた声は闇に溶け、エレボスは身を屈めて裂け目へと身を滑り込ませる。土と石の感触が靴裏を鈍く打ち、すぐに狭い通路に包まれた。魔法で指先にわずかに光を灯す。光は遠くまで届かず、むしろ周囲の『圧』を際立たせるように見えた。
数分の沈黙の後、地下の小空間に出た。そこには──誰かがいた。
ろくに明かりもないその空間で、男が一人、膝をついて“何か”を喰らっていた。骨と肉が混ざったような粘ついた音。指先は人間のものだが、その背に黒い瘤のようなものが隆起している。喉からは、時折咳のような呻き声。目を凝らせば、その瘤から、細い触手のような何かが動いていた。
エレボスが一歩、足を踏み出すと、男は振り返った。
その顔には、どこかで見覚えのある“印”があった。例の集団が記していた“新しき神の子”と呼ばれる存在──その『雛形』。
「誰だ、てめえ」
男の声は擦れ、喉の奥で何かが鳴っているようだった。
その瞬間、背中の瘤が弾け、三本の節くれだった脚が突き出される。蜘蛛のような形、だが関節は逆に曲がり、表皮には呪符のような紋様が刻まれている。明らかに“人間の域”ではなかった。
エレボスの体は自然と構えを取った。
脚の動き、瘤の位置、胴のねじれ方──すべてが攻撃に転じるための『準備』だ。
「やはり、まだ“続いて”いたか」
言葉が終わるより早く、脚が振り下ろされる。石畳が砕ける音と同時に、エレボスは左へ跳び、光魔法を掌に収束。撃ち出した閃光が瘤を焼くが、それはただの牽制だ。奴の反応を見るための、計算された“痛み”。
「ギィイイイィ……!」
悲鳴があがると同時に、男は完全に『異形』へと変化していった。骨が割れ、皮が裂け、瘤は黒い羽のように広がる。そしてその中心、かつての人間の顔が、まだ“笑って”いた。
「俺たちは……もう、戻れねえんだよ」
その一言には、自嘲とも、信仰とも取れる響きがあった。
エレボスは応じない。ただ、次の攻撃に備え、低く身を沈めた。
その戦いの火蓋は、すでに落ちていた。
だが、それは単なる敵との交戦ではない。
“誰かが仕組んだ何か”へと、確実に近づいている。
その気配を、エレボスは確かに感じていた。
そして、闇の奥で──誰かが、笑っていた。
仮面の奥、エレボスの瞳が一瞬だけ細められる。
異形の唸りと空気の軋み、どこか“誘われる”ような感覚。
それが罠だと知りつつも、彼は前に出る。
異形の脚が一閃、低く切り払ってくる。
だが、エレボスは動じない。両足で石床を蹴り、間一髪でその軌道の外側へ滑り込む。
掌に収束させていた魔力が、肉体の各部へと馴染み、瞬時に《魔防》へと転じる。
脚が横殴りに再び襲いかかる――その勢いを利用し、彼は逆方向へと身を回転させる。
低く沈んだ膝から繰り出された拳が、異形の胴を叩き抜いた。
『ドゥッ!』
衝撃音と共に、肉の内部から異常な蠢きが走る。だが、それでも倒れない。
むしろその衝撃で“本性”を露わにしたかのように、異形の胴体が縦に裂け、中からさらに一対の触手のような肢が飛び出した。
「見てみろよ、この『贄』どもが残してくれた力を」
声は混濁していた。人間の言葉とは思えぬ響きが、幾層にも重なる。
だがその中心に、“誰かの意志”が宿っているのがわかる。
『アーテーの声を聞いたか?』
「聞いたのは“断末魔”だ」
エレボスは呟くように返し、肉体に宿る魔力をもう一段深く、骨と筋へと流し込む。
一瞬、背中から生じた閃光のような圧が、周囲の空気を跳ね除ける。
肉体魔法《断雷》――反応速度を極限まで研ぎ澄まし、相手の動きを視線ではなく“感覚”で捉える。
異形の触手がエレボスの顔面へ迫る。
その直前、左肩を動かして体軸をズラす。
一撃がすれ違った刹那、右の拳が一閃。
魔力で強化された指骨が、異形の横顎を叩き砕いた。
呻きと咆哮が混ざる音。
異形は後退するも、その口元に、血ではなく『黒い液体』が滴り落ちていた。
「それ以上は近づけさせない。命令だ」
背後から、静かだが威圧感のある声。
振り返ると、灰色のフードを纏った男が立っていた。
仮面で顔を隠していたが、その身の周囲にはわずかに“重力場”の歪み。
──術者、か。
異形の男は残った脚で壁を蹴るように跳躍し、闇の奥へと引いていく。
術者は何も言わず、その場に何かの呪符を落とすと、光の歪みと共に消えた。
エレボスが飛び込んだときには、すでに誰もいなかった。
ただ、地面には滴った“液体”と、異形の細胞が焼けたような痕跡が残っていた。
彼は跪き、指先でその液を掬い取る。
匂いと粘度。明らかに『生物のものではない』。
まるで、神経と魔力の“残滓”を混ぜたような不自然さ。
「……ようやく姿を見せたな」
仮面の下、低く呟いたその声は、空洞に吸い込まれるように響いた。
一瞬だけ、風が地の底を吹き抜ける。
どこからか、“子どものような笑い声”が微かに聞こえた気がした。
それは気のせいかもしれない。
だが、そうではないかもしれない。
王都の闇は、さらに深く広がっていた。
そしてその中心に──アーテーを崇める“狂気”が、着実に根を張りつつあった。
エレボスはしばしその場に佇み、焼け焦げた石畳と黒い液体の痕跡に目を落としたまま、沈黙していた。何かが確かにここで蠢き、確かに逃れた。術者の存在、それを隠す術、異形の逃走経路──それらは計画的で、なおかつ大胆だった。これは、偶然の出会いではない。
「……誘導された、か」
声には怒りはない。ただ、確信と冷静さ、そして静かな戦意が滲んでいた。
エレボスは指先に宿らせていた微細な魔力を、石畳の痕跡に流し込む。
《触感転移》──触れた魔力の残滓から、相手の“通った空気の道”を視る感覚魔法。
研ぎ澄まされた感覚に浮かび上がるのは、地下回廊の壁を這うような“魔力の尾”。通常の移動ではあり得ない、不自然な角度で迂回しながら、南方の地下水道へと繋がっていた。
「……地下の構造を熟知している」
それは王都の上層民でも把握しきれていない“旧時代”の遺構を意味していた。王都が築かれる以前、何がこの地にあったのか――その真相を知る者はほとんどいない。だが確実に、今の事件とそれは結びついていた。
エレボスは腰を低く落とし、崩れかけた壁の隙間から回廊の奥へと進む。
空気は湿り、嫌な圧が全身を押してくる。これは“霊”ではない。“意志ある圧力”だ。
人の目を欺くもの。人を信仰に狂わせるもの。
それを察知した瞬間、彼の中で静かにスイッチが入る。
「……アーテー」
あの芝居がかった狂気の顔が、脳裏を過ぎる。
おぞましく、滑稽で、だが決して『軽く扱えぬ本物の悪意』。
あれが姿を見せた時から、既に何かが動いていた。そして、それはもう後戻りできないところまで来ている。
回廊の突き当たり、小さな扉があった。石造りにしては異様に新しい。
エレボスが魔力を指先に集中し、僅かに触れるだけで、重たい錠が静かに外れる音がした。
扉の向こうには、異常な光景が広がっていた。
丸くくり抜かれた空間の中心、祭壇のような石の台。その上には、黒い布に包まれた人影──いや、人影の“ようなもの”が横たわっている。その周囲には、奇妙な模様を刻んだ石碑と、色とりどりの仮面が壁に吊るされていた。
そしてその仮面の中央、唯一“逆さ”に吊るされた白塗りの道化の面。
赤と青の唇。目の周囲だけ黒く塗られ、額には“愚”の文字。
――アーテーの顔と、同じだった。
その瞬間、背後の空気が揺れた。
「よぉ……また“俺”を追ってきたのかい?」
芝居がかった、舌足らずなピエロの声。だがその声音の奥には、禍々しく凍てついた“興奮”があった。
振り返ると、闇の中から浮かび上がるように、アーテーが立っていた。
相変わらずの化粧。悪趣味な顔面と、血のような赤で縁取られた白のマント。
肩を上下に揺らし、まるで舞台の役者のような立ち居振る舞いで一礼する。
「よく来たねぇ、仮面の騎士さん」
「貴様が……この“騒ぎ”の根か」
「根? いやいや、俺はせいぜい『花』さ。咲くときゃ見事に咲くけど、根っこはもっと深くて……ああ、君じゃ届かないかもしれないなァ」
エレボスは無言で、ゆっくりと構えを取った。
アーテーの笑みが、さらに大きく歪む。
彼の背後にある仮面の壁が、どろりと溶け落ち、次第に“生きた”仮面へと変貌していく。
一つ、また一つ。人の顔のような仮面が動き出し、呻き、咆哮する。
「“信仰”ってのは素晴らしいよ。自分を見失うほど他人を信じてさァ。ねぇ、エレボス。君は何を信じてるの?」
エレボスの声が低く、そして静かに響いた。
「……“俺”だけだ」
闘いが、再び始まろうとしていた。
だが今回の戦場は、ただの地下ではない。
そこに積み重ねられた“信仰の毒”が、今、具現化し始めていた。
そしてアーテーは――その中心に、笑いながら立っていた。




