第26話
少年の手から、その紙片は風に乗ってふわりと舞い上がった。周囲の誰も、その異質な絵に気を留める者はいなかった。ただ、その目――仮面に描かれた、異様に生々しい目だけが、通り過ぎる人々を見下ろしていた。
王都は今日も、表面上の平穏を保っていた。
その片隅、東錬区から南市門へ向かう一角に、デヴォン公の姿があった。昼の顔である彼は、重厚な制服に身を包み、数人の部下を連れて視察に当たっていた。周囲の住民は彼に気安く声をかけ、笑みを返す彼に誰もが敬意を示していた。
だが、その瞳の奥に宿るのは、人の目には映らぬ“兆し”を見極めようとする静かな警戒心だった。
「この辺り、何か変わったことはなかったか?」
八百屋の老人に問いかけると、しばし首を捻り、こう答えた。
「そうさのう……この頃、夜になると猫がやけに騒ぐ。裏路地の方で、よく何かを引っ掻いたような音がしてのう。気味が悪くて」
「なるほど。夜だけ、というのが気にかかるな」
言葉を残し、彼は軽く一礼すると、再び路地の奥へと足を向けた。
この一帯で目撃されている違和感は、どれも小さなものばかりだ。猫の異常な行動、地下の異臭、そして時折聞こえる耳鳴りのような音。いずれも明確な証拠には至らない。だが、どれもが“不自然”に収束している。
それが、王都の心臓部へ向かって集まりつつあるように感じられた。
夜――
再び、仮面の騎士が目を覚ました。
エレボスとして地下路地に降り立った彼は、昼間に見つけた猫の爪痕をたどりながら、廃屋の裏へと進んでいく。剥がれた壁板の奥には、隠し通路のような空間があった。薄暗く、冷たい空気が内側から流れ出てくる。
その奥に、血の染みが一筋、床に走っていた。まだ新しい。
慎重に足を進め、魔力を指先に宿す。何者かがここで、儀式のような“場”を設けた痕跡がある。だが、それを行った者の気配はもう残っていなかった。
いや――違う。
エレボスは気づく。誰かが、こちらを“見ている”。
「……潜んでいるか」
その声が終わるよりも早く、天井の梁から一つの影が落ちた。
細い手足。蛇のようにしなやかな動き。
だが、背中には“ありえないもの”が生えていた。
――蜘蛛の脚。
六本の関節のある肢が、がしゃりと音を立てて床に着地する。体は人間のように見えるが、目の数が多すぎる。顔の中央に、丸く並んだ“複眼”のようなものが瞬きをした。
キメラだ。
術者によって、人間の体を無理に変化させられた存在。その悲鳴のような呼吸に、エレボスはほんの一瞬、眉を曇らせた。
「……まだ、生きていたか」
その言葉が届いたかどうかは分からない。だが、キメラは叫びもなく、殺意を露わにして跳びかかってきた。
エレボスは回避しつつ、右腕に魔力を集める。魔力を肉体に宿す術は即効性が高く、筋肉繊維を軋ませながら収束するエネルギーが拳に伝わっていく。
蜘蛛の脚が壁を蹴り、再び上空から襲いかかる。反射的に肘で一撃を受け流し、床を転がるようにして体勢を整える。斬ることはしない。殺すことも目的ではない。
彼は、苦しまずに“止める”ために動いていた。
拳が一閃し、光を帯びた軌跡がキメラの腹部に命中する。衝撃波と共に魔力が内側から拡散し、暴走した術式の核を打ち砕く。苦しげに身体が震え、やがて床に崩れ落ちた。
静寂が戻る。
仮面の下、エレボスの呼吸が整う。
キメラの顔には、涙の痕があった。
「……術者は、まだ近くにいるな」
それを証明するかのように、壁の影からそっと這い出た黒い霧のような痕跡が、床をすり抜けて姿を消していった。
“導きの輪”――その実体は、まだ全貌を現していない。
エレボスはゆっくりとその場を離れながら、仮面の奥で呟いた。
「俺の眼は、闇の奥の“主”を見るまで、閉じることはない」
闇の中、ひとつの音が鳴った。
それは、始まりを告げる鐘の音か。
あるいは、地の底から忍び寄る新たな悪意の足音かもしれなかった。
――そのために、彼は再び足を踏み出した。
王都の外縁部、旧交易路の名残を留める石畳を静かに踏みしめながら、エレボスは歩みを進めていた。月の光が斑に降り注ぐ中、朽ちかけた倉庫群の影が、まるで何かを潜ませているかのように不気味に揺れていた。風は冷たく、夜の湿気を孕んで背中を撫でる。だがエレボスの気配は微塵も揺るがない。仮面の奥の視線は、ひたすら前を射抜いていた。
彼の足が止まったのは、特に目立たない木製の扉の前だった。見た目はただの物置のようでありながら、過去数件の痕跡が微かにここを指していた。『アーテーを信奉する集団』──奇怪なシンボルを刻んだ小物、夜にだけ点灯する不可解な燈台、そして、消息を絶った者たちの足取りが、この場所へと収束していたのだ。
エレボスは何も言わず、静かに扉に手をかける。軋む音が夜に紛れると同時に、冷たい空気が鼻腔を刺した。中はほとんど真っ暗だったが、彼の瞳には微かな輪郭が映る。床には何度も踏み荒らされた足跡。壁に寄せられた棚には、用途不明の器具。そして奥に進むにつれて、奇妙な図形が煤けたインクで描かれていた。
それは、どこか『儀式』を連想させる形だった。環の中心には羽根を模したような記号。そして、外周に向かって滴るように並ぶ赤黒い点。エレボスはしゃがみ込み、慎重に床へ手を這わせる。微かな粉末、植物性の香──幻惑に使われる薬草の類だ。だが、ここには既に人の気配はない。用済みの『式場』というわけか。
そのとき、背後の空気が微かに揺れた。気配はなかった。音もなかった。ただ、風すら止まったその一瞬、エレボスの身体は自然に動いていた。横へ跳ぶ。次の瞬間、倉庫の木壁が内側から破壊され、まるで蜘蛛のような脚が突き出される。
『――来たか』
エレボスは立ち上がり、冷たく声を落とした。
飛び出してきたのは、異形の姿だった。背中から幾本もの『脚』を生やし、その根元は人の背骨と癒着している。顔は人間のそれに近いが、目の数が多い。何より、口元が裂けるように広がり、まるで『笑っている』ような表情を張り付かせていた。
その体躯は異様に細長く、だが動きは素早かった。脚で天井を蹴り、斜め上からエレボスに襲い掛かる。その突進を、エレボスは腕で受け止める。だが次の瞬間、異形の脚の先端から『魔力の波動』が弾けた。小規模な衝撃波だ。魔法による爆発性の加速。エレボスの身体がわずかに後方へ押される。
『動きの中に魔法を織り込んでいる……だが――』
押し返すように、エレボスの足が床を割る。地に魔力を流し、脚部に重力を操る魔法を宿す。その反動で異形を吹き飛ばすと同時に、間を詰める。拳が炸裂し、蜘蛛の脚を一本、もぎ取る。
「グギャァァァ!!」
甲高い声が倉庫に反響した。だが、異形は怯まない。むしろその声は『喜悦』に近いものだった。裂けた口がさらに広がり、まるで哄笑するように叫ぶ。
「オマエ……『アノ方』に近い匂イガスル……!」
『あの方』──それが、アーテーを指すとすれば。
エレボスの視線が鋭くなる。だが返答はせず、さらにもう一撃を放つ。拳に魔力を集中させ、発熱させる。それは斬撃ではなく、灼熱と衝撃を伴う貫通の一打。異形の胴体に穴を穿つ。
しかし、それでも異形は死ななかった。肉が蠢き、穴を塞ごうと蠢いている。だが、再生が間に合う前に、エレボスの手がその頭部を掴む。
『終わりだ』
魔力の脈動が彼の掌に集中する。対象の魔力を暴走させる術式。肉体を制御できなくなる『干渉』によって、異形の体が内側から崩壊し、音もなく燃え尽きた。
静寂が戻る。埃が舞い、埃の中に『何かの小片』が落ちていた。金属ではない。石でもない。黒く、細い。それは、アーテーがかつて使用していた仮面の破片に酷似していた。
エレボスはそれを拾い上げ、仮面の奥で目を細めた。
『……信仰か。だが、信仰だけでは、ここまでの異形は生まれない』
彼の声は低く、闇に溶けていった。まだ見ぬ『術者』の存在が、この背後にある。その確信だけが、夜の王都に静かに灯っていた。
そしてその夜も、仮面の騎士は、また一つ闇の輪郭を捉えていた。王都の影はなお深く、彼の戦いもまた、終わりの見えぬ道を歩み続けていた。
月明かりが、崩れかけた倉庫の瓦礫を冷たく照らしていた。
エレボスは、手にした仮面の破片をじっと見つめた。欠けた縁は焼け焦げ、先ほどの戦闘によって生じた高熱がその表面を変質させている。それでも、この破片には確かな“意志”が残っていた。明確な意思ではない。だが、そこに染みついた“執着”──それは人間のものではなかった。
仮面の奥の目がわずかに動く。夜風の中に紛れ込む微かな“音”を聞き取る。呼吸。だが、それは生物のものではない。石のように乾いた、低く掠れた空気の擦れる音。
「……もう一体、か」
エレボスは静かに立ち上がった。音の発生源を正確に捉える。倉庫の奥、壁の裏。そこには隠し扉があった。傷跡の流れと空間の歪みから、魔術によって偽装された小空間の存在が読み取れた。
床をそっと踏むと、結界がわずかに軋んだ。そのまま一歩踏み出し、手のひらに魔力を集中させる。物理ではなく、空間に直接“鍵”として干渉する魔術。
視界が一瞬きらめき、隠された通路が現れる。
そこには、先ほどの異形の“種”とも呼べるような存在が保存されていた。泡立つような肉塊の中に、まだ完全には成長しきっていない半端な生き物が幾つも眠っている。蜘蛛の脚、蛇のような胴、羽の痕跡。人の顔の面影すらある。だがそれは、もう“誰か”ではなかった。
「……この“変異”は、意図されたものだ」
ただの偶発的な変質ではない。明確な目的をもって作られている。あの異形の言葉──『アノ方』──それが指し示すもの。
エレボスは仮面の内側で、わずかに眉をひそめた。
『アーテー、お前が撒いた種が、ここまで根を張ったか』
そして、扉の奥に進んだ。
小部屋の中には、書物や術式の残骸、血の乾いた円環、供物の痕跡。そこは間違いなく、何者かの“研究所”であり“祭壇”であり“舞台”だった。そして、そのすべてが放棄されたように、静かにその場に在った。
まるで、何者かがここを“用済み”として去ったかのように。
部屋の壁に残された一文が、エレボスの目を引いた。赤黒く塗りつけられた、魔力反応のある痕跡。その文字は、古い神話の一節を模していた。
『愚行は地より昇る。導きは狂気の渦に宿り、彼の者の舞台は深き闇より始まる』
エレボスは目を細め、その言葉の意味を慎重に読み解く。狂信的な詩文。それだけならば何の価値もない。だが、この言葉には『地理的な暗喩』が含まれている可能性があった。王都の地下網。捨てられた水道。旧時代の神殿跡。『深き闇』が意味する場所。
思考を整理しながら、エレボスは部屋の中から一冊の書を拾い上げた。日記帳のような装丁。しかし中身は術式の走り書きと、断片的な独白に満ちていた。
『……“我らが主”に選ばれし日、私の目は開かれた。肉体は変わりゆく。だが魂は熱を持ち、光よりも強く鼓動した……アーテー様……』
ページが破かれた箇所がいくつもあり、完全な読み取りはできない。だが確かにこの書き手は、『アーテー』を“神”として信奉していた。そしてその“神”に近づこうと、術と変異を繰り返していた。
「アーテー、貴様の名が……ここまで歪められているとはな」
呟きには、皮肉とも怒りともつかない冷たい響きがあった。
仮面の奥で静かに息を吐く。証拠は十分だった。だが、術者本人の気配はもうここにはない。既に別の場所へと移動したのだろう。
エレボスは振り返り、最後にもう一度、部屋を見渡した。
『どこまで貴様の掌の上なのか、試してやる』
王都は静かだった。だが、その静寂の底にある闇は、確かに“何か”の胎動を含んでいた。
そして仮面の騎士は、再び王都の夜を歩き出す。
その足音が、夜の奥へと沈んでゆくまで。




