第31話
静けさが戻った路地裏の闇の中で、仮面の騎士はなおも立ち尽くしていた。
彼の足元には割れた石畳と、魔力に焼かれた魔紋の断片だけが残されている。空気は重く、焦げた臭いが鼻を刺す。
けれど、それらはすべて“痕跡”でしかなかった。すでに敵の本体は、再び“見えない場所”へと身を潜めたのだ。
エレボスは、ふと指先で地に刻まれた痕をなぞる。
「結界の構造が複雑だったな……術式が『二重』になっていた」
最初に展開された光の魔紋、それだけがすべてではなかった。
本命はその裏に隠された“転送儀式”だ。しかもこれは、術者の肉体と魂を同時に『別の次元座標』に移送する、高度な空間魔術。
この魔術を用いるには、一般の術者では到底足りない。
加えて、構築された陣の正確さ、連動する魔素の流れ、そして集団で補強された“信仰”の力。
それは、すでに個人の技術というよりも、何か“組織”の存在を裏付けていた。
仮面の下で、エレボスの思考は静かに深く沈んでいく。
敵は確実に“何か”を準備している。アーテーが起こした連続殺人事件、それに続く『信者』たちの出現、そして今回の“神の眼”を名乗る異端結社。
点と点はまだ線にならない。
だが、それでも――あの声が告げた言葉は、決して聞き逃せないものだった。
『ようこそ、“神の眼”へ』
あれはただの捨て台詞ではない。
それは、確かに“扉”の名だ。彼らの信仰、あるいは目的の中心に位置する“核”の暗喩。
エレボスは魔力を微かに込めた指先で、燃え残った魔紋の断片を小瓶に収めた。
証拠はいつも、目に見える場所にあるとは限らない。
時には、消えた後にこそ“確かな何か”が残される。
風が吹いた。
夜明けが近い。王都の空の端が、わずかに白み始めていた。
エレボスは、ゆっくりと立ち上がる。
仮面の奥の目が、遠く塔の尖端を見据えていた。そこには、東錬区の封鎖区画がある。
かつて錬金術の研究が盛んだった場所。今は封鎖され、出入りも厳しく制限されている。
しかし、その場所から――“何か”が流れてきているのだ。
「神も魔も……関係ない。ただ、俺は“人間の罪”を追っている」
エレボスはひとつ息を吐くと、静かに背を向けた。
誰にも気づかれぬよう、その姿は再び路地裏の闇へと溶けていく。
仄かな光が差す朝の王都では、すでに人々の生活が始まろうとしていた。
パンの焼ける香り、井戸から水を汲む音、商人たちの喧騒――どれもが平穏の象徴のように鳴り響く。
だがその下では、確実に『何か』が胎動している。
この街の根の奥、闇のさらに下で、名もなき悪意が形を得ようとしていた。
そして、それを迎え撃つ影の存在もまた――黙して歩き続けている。
エレボス。
仮面の騎士。
夜に目覚める、“闇の証人”。
この戦いはまだ、ほんの序章に過ぎない。
だが確かに、扉はすでに開いている。
王都の朝は、どこまでも穏やかだった。
人々は何も知らないまま、今日もまた一日を始める。パン屋の青年がオーブンの前で額の汗を拭い、子供たちが小石を蹴って笑い合い、衛兵たちは街角でゆったりとした警備の輪を描いている。
だが、その光景の片隅に、確かに“異質”はあった。
石畳に染み込むようにして漂う、微かな魔力の残滓。街の一角だけ、空気の密度が違っている。気づかぬ者には、決して届かない“気配”。
それを嗅ぎ分けるのは、エレボス――否、昼の姿を纏う『デヴォン公』だけだった。
彼は静かにその場に佇み、周囲の様子を一見無関心に眺めながら、すでに目線の先では“新たな歪み”を捉えていた。
通りの端、年季の入った骨董品店。店主は代替わりしたばかりで、以前からあった薄暗い雰囲気が今もなお残されている。だが最近、その裏手で夜な夜な荷が搬入されているという噂があった。
『魔術素材ではないか』
『遺物を運び込んでいる』
『それとも、何かの“儀式”か?』
住民の言葉の端々には、奇妙な確信めいた恐れがあった。だが表立って誰もそれを口に出さない。王都では、表向き『神も魔も存在しない』ことになっている。だからこそ、“闇”は都合よく隠れやすい。
デヴォン公はふと目線を巡らせ、近くの広場へと歩を移す。
そこでは少年が一人、蹴っていた石につまずいて転びそうになり、母親が駆け寄って声をかけていた。
「だいじょうぶですか?」
彼はすぐに駆け寄り、母子の間に自然な形で入った。微笑みを浮かべ、少年の額についた小さな擦り傷を拭ってやる。母親は、ホッとしたように胸に手を当てていた。
「いつもありがとう、デヴォン公。こんな時まで気にかけてくださって……」
「当たり前のことをしているだけですよ」
そう言って笑うその横顔に、町の者たちは安心を覚える。だがその裏に潜む真実――その仮面の奥にある“目”に気づく者はいない。
心を癒やすその手は、夜になれば刃のように鋭くなる。
優しげな声の主は、闇の底で“殺意”と対峙する存在だ。
その後、彼は区役所の奥にある記録保管庫へと足を運んだ。
衛兵の制服を着た文官が、彼の来訪に慌てて立ち上がる。
「デヴォン公、お疲れ様です。先日の件でご覧になりたい資料を──」
「はい、地下保管庫の記録から、“旧鉱区”の搬入申請をすべて」
そう。
“神の眼”と呼ばれた結社が姿を消したその後にも、どこかに“拠点”が残っている。術者が逃走時に用いた転送陣、それは間違いなく“広域に展開された結界”と繋がっていた。
『広域転送』を可能にするほどの魔力圧縮、それを支えるのは地下に張り巡らされた“錬金術用魔紋”の再利用しかありえない。
その魔紋が、どこに隠されているのか。
デヴォン公――いや、エレボスは、ようやく“次なる敵の牙”の形を、輪郭として捉え始めていた。
その牙の根元には、“神”ではない、もっと古く、もっと人間的な『欲望』が息づいている。
組織的な犯行、仕組まれた神話、そしてアーテーを崇める『狂信者』たちの残響。
夜が来る。
また、仮面をつける時間が近づいている。
彼が望むと望まざるとに関わらず、“闇”は確実に、次の幕を上げようとしていた。
そしてその幕の向こうには、また“別の敵”が、静かに笑っている。
王都の夜は、音もなく降りてくる。
だがその静寂は、決して安らぎではない。
一筋の風が古びた路地裏を抜け、石畳の上に微かな埃を巻き上げた。月は雲に隠れ、灯火の届かぬ暗がりに、誰かの足音が滲んでいく。黒衣を纏い、仮面をつけた男――エレボス。その歩みはためらいなく、まるで最初からこの“夜”のために生きていたかのようだった。
昼間に見つけた記録の断片。
旧鉱区と呼ばれる、かつて錬金術の実験場として使われていた一帯。法的には封鎖され、今では地図上からもほとんど消えた場所。だがその地下にはまだ通じる道が残されていた。
しかも“改ざんされた搬入記録”が、そこに“何か”が隠されていることを確かに示している。
エレボスは石壁の隙間に指をかけ、蔦に覆われた隠し扉を押し開けた。鉄の軋む音が周囲に溶ける。そしてそこから続く、古びた地下通路。
空気は湿っている。だが、ただの封鎖区画の匂いではない。
魔力の痕跡、それも“儀式的な”痕が、壁面に薄く刻まれていた。
「……やはり、ここを使っていたか」
エレボスの瞳が細められる。
彼の背後では、仮面の内側に仕込まれた感覚増幅魔術が、微かな“鼓動”を拾っていた。下層へと、何かが息づいている。
それは小動物のものではない。脈打つような、意志ある存在の気配。
通路を進むごとに、その気配は濃くなる。
やがて、広間にたどり着いた。そこには……奇妙な“痕跡”があった。数日前まで人の気配があったと思われる生活の痕。食器、簡易ベッド、そして壁に刻まれた多数の“紋章”。それは“神の眼”の残党が用いる印と酷似していたが、微妙に構成が異なっていた。
『模倣……あるいは、分派か』
そう推測した矢先だった。背後の闇が動いた。
振り向くと同時に、影から“何か”が跳び出した。――人の姿だ。だがその背には、異様な“羽根”のような器官。羽根ではない、繊毛の束。まるで昆虫か、軟体動物のような異形がそこにはあった。
「……キメラ」
静かに呟いたエレボスは、瞬時に身体に魔法を流し込む。筋肉が収縮し、反応速度が倍加する。相手が何者であれ、まずは無力化が最優先。
異形の男は、口から獣のようなうなり声を漏らしながら、腕を鋭く伸ばして襲いかかる。腕もまた、途中から別の生き物のものに置き換えられていた。
それを、エレボスは肘で受け止めた。
衝撃が走る。重い。――だが想定内。
腕を流すように受け、体勢をずらして足を払いにかかる。キメラの男は尻もちをつくことなく、空中で一回転して着地し、今度は背中の突起から何かを発射した。粘着質の液体、それに混じる魔術的な毒素。
「ふん……遊びは終わりだ」
エレボスの両腕が淡く発光する。
その発光は、筋肉の動きと連動して“魔力の補助動作”として機能するよう最適化されたもの。彼の魔術は遠距離を焼き払う派手なものではない。身体に組み込むことで、あくまで『機能性』を高めるために用いる。
再び接近。
踏み込んだ瞬間、キメラの喉元に拳が届く。骨の砕ける感触と共に、相手は壁に叩きつけられた。
だが――その時、床に仕込まれていた“転送陣”が発動する。
そのキメラの肉体が、まるで吸い込まれるように霧のように溶け、消えていった。
エレボスは、壁に手をついて残留魔力を感じ取る。
この転送魔法……旧式だが、精度は高い。
「遅かったか……」
呟きながらも、彼は周囲を見渡す。
散乱した道具、書き残された紙束。その一つ一つに、崇拝を示す文言がある。
『彼は道を示した』
『アーテーの声が届いた』
『我らは彼の影となり、闇を歩む』
――アーテー。
その名が、再び姿を現す。
やはり、あの男は“ただの殺人鬼”ではない。
狂気は伝播し、信仰に変わり、ついには“教義”として根を張り始めている。
エレボスの仮面の奥の瞳が、静かに鋭さを増す。
この夜は、終わらない。
だが、その“夜の核”に確実に近づいている。
王都の裏側で、何が起こりつつあるのか――そして、誰がそれを仕組んでいるのか。
エレボスは、その全てを暴く覚悟で、再び歩き始めた。




