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第21話

東錬区の夜が明けた。

王都の広場では、早朝にも関わらず、異様な騒ぎが起きていた。


「……これは、何だ?」


目の前に広がる光景に、エレボスはわずかに眉をひそめた。


街の噴水に赤黒い染料が流し込まれ、中心には粗雑な十字架。そして、その先端には“仮面”を模した木彫りの像がくくりつけられている。

像の胸元には血文字のように、赤い文字が記されていた。


『我らの神、アーテーの名の下に』


その異様な光景を、野次馬たちは遠巻きに見つめていたが、恐怖の色は隠せない。


「また、あの“信仰者”たちの仕業か」


エレボスは呟き、仮面の奥で情報を整理する。


連中は明らかに――“見せる”ことを意識している。

隠れるのではなく、存在を誇示する。あたかも『この街にアーテーの支配が及び始めている』とでも言いたげに。


目的は混乱の種を蒔くこと。

その果てに、人々の不安と絶望を“信仰”へ変える。


「派手な真似を……」


エレボスは、噴水の周囲に散らされた紙片の一つを拾った。そこには、稚拙な筆致でこう書かれていた。


『最初の“供物”は受け取られた。次は“声”を捧げる時。地の下の祈りを、天に届かせよ』


「“声”……誰かが狙われているのか?」


思考の途中、背後から足音が近づいた。振り返ると、ローブ姿の中年男が、わずかに震える声で話しかけてきた。


「……あ、あなた、エレボス様ですよね……? 噂で……」


「用件を言え。長く立ち話する気はない」


「あ……いえ、その、私……教会の信徒だったんです。最近になって、妙な“集会”が地下で開かれるようになって……。最初はただの瞑想会だと思ったんですが、気づいたら皆、仮面をつけて……“アーテー様”に祈りを捧げていたんです……」


「場所は」


「西錬区の旧下水道です。数日前から、集まっては祈って……中には行方不明になった者も……」


エレボスはわずかに頷き、視線を噴水に戻した。


アーテーは“信者”を使って、街を『舞台』に変え始めている。

血と恐怖と、崇拝の芝居で覆い尽くそうとしている。


だが――この街に舞台は不要だ。

必要なのは、闇を断ち切る“終幕”だけだ。


「情報、感謝する。お前の言葉は“声”だ。奴らに奪わせるな」


そう告げて立ち去るエレボスの背に、男は安堵のため息を漏らした。


西錬区の片隅。

都市の背骨とも言える古びた排水施設の入り口に、エレボスは静かに佇んでいた。


錆びついた鉄格子。崩れかけた階段。湿気を含んだ空気に混じる、なまぐさい匂い。


「旧下水道……。皮肉な舞台だな」


ひとつ息をつき、闇の中へと身を沈める。

靴音を響かせることなく、音も気配も殺して進む足取りは、まるで影そのもの。


やがて、地下三層ほど下った先に、微かな音が聞こえてきた。


――カラン……カラン……


金属を揺らす音。

それに混じって、低くくぐもった声。いや、複数の声だ。


「アーテーよ……導きたまえ……」


「愚行と破滅の使徒よ、我らに“意思”を……」


洞窟のように広がった空間に灯るのは、無数の蝋燭と、吊るされた仮面たち。


その中央に、円形に並んだ十数名の信徒。全員が粗末な白衣に仮面をつけ、手には黒い蝋燭。

そして――彼らの中心に立つ一人の人物。


大仰なマントを羽織り、顔には例の“センスの悪い”ピエロメイク。

唇は黒く、頬には不釣り合いな赤。目元には、涙を模した奇妙なライン。


「皆々さま……本日もご参列、ありがとぉぉぉう」


高らかに、芝居じみた声が響いた。


「夜の帳が降りたこの時、人々が理性と倫理を脱ぎ捨てる『祝祭』の刻……!」


アーテー――あの殺人鬼が、確かにそこに居た。


「我らが道を踏み外すその瞬間こそ、人間である証……! さぁ、愛らしき子羊たちよ、共に“壊れよう”じゃないかぁ!」


信徒たちが歓声を上げる。その響きは不気味に反響し、異様な熱に満ちていた。


エレボスは物陰から静かにそれを見つめていた。

まだ動かない。今は“観察”の時。


アーテーの動き。信徒の数。彼らの目的――そして“儀式”の内容。


だがそのとき、空気が一瞬だけ張り詰めた。


「……ん?」


アーテーの目線が、こちらに向いた。


いや――仮面越しにもわかる。こちらを見て“いる”。


「まさか……」


ピエロのような口元が、にぃっと笑った。


「ねぇ、そこに居るぅ? 我が“永遠の舞台装置”……エレボスくぅん」


信徒たちがざわめいた。


エレボスは舌打ち一つ。見つかった以上、次の手は決まっている。


静かに、マントを翻し、影の中から歩み出る。


「アーテー。……次に顔を合わせたら、斃すと決めていた」


「ん~、おっかないセリフっ。でもその前にぃ……“観客”が増えすぎたんじゃない?」


そう言うと、アーテーは手を一振り。


その合図で、信徒たちが一斉に懐から金属の仮面を取り出し――床へ叩きつけた。


割れる仮面。砕ける音。


直後、仮面の破片から、黒い煙が噴き出し、空間を一気に覆い尽くす。


「……っ!」


煙が晴れたとき、信徒たちの姿はすでになく。

残されたのは、仮面と蝋燭、そして……アーテーの残したメッセージが、石壁に刻まれていた。


『今宵は“予告編”。主役が本気を出すのは……次の幕から』


エレボスは無言でそれを見つめた。


再び、奴は逃げた。

だが、それは“次”があるということ。


逃げられたことに悔しさを覚えながらも――確実に、奴の手口も、狙いも見えてきている。


「アーテー……次こそ、終わらせる」


仮面の奥の目が、冷たく光を帯びた。


翌朝、王都の北端にある広場で“それ”は発見された。


石畳に描かれた奇怪な紋様――

血で描かれたものだと、第一発見者は震える声で報告している。


中央には一つの仮面が置かれていた。

昨夜、アーテーの儀式で使われていたものと“酷似”していた。


『愚かさこそが真理だ』


仮面の内側には、そう書かれた紙片が貼られていた。


通報を受け、王都警備団が動いた。

その情報はすぐさま、異形犯罪の専門区画にも届き――


「……また、奴らか」


書類を受け取った管轄長が呟いたときには、すでに黒衣の男がその場に立っていた。


エレボス。


「現場には入れたか」


「……ああ。ただし、周囲は騒ぎになり始めてる。『カルトだ』『呪いだ』と好き放題言ってる連中ばかりだ」


「愚行に愚行を重ねる……いい見本だな」


そう言い残すと、エレボスは風のように背を向け、王都北端の広場へと足を向けた。


昼間の太陽の下、血の紋様は赤黒く変色していた。


だが、目を凝らすまでもなく、そこには“魔術的な構造”が存在していた。


円形の陣形は単なる見世物ではない。

周囲に点在する小さな傷跡――それは、集団がここで“何か”を召喚しようとしていた証拠だった。


「召喚は失敗している。痕跡も浅い。目的は……“模倣”か、“予告”」


周囲をぐるりと見渡す。

数歩離れた木陰に、子どもたちが遠巻きに覗き込んでいた。


その中の一人、痩せた少年がふと口を開いた。


「あのおじさん、笑ってたよ」


エレボスが目を向ける。


「どんな顔だった」


少年は指で輪郭をなぞりながら言った。


「こう、ピエロみたいに……口元がヘンに広くて、目のとこ、黒かった」


「メイク……?」


「ああ、あとね、手を広げて、何か言ってた」


エレボスはしゃがみ込み、目線を合わせる。


「何を言っていた?」


少年は少し悩んだ後、得意げに胸を張った。


「『皆さま、舞台の準備は整いました』って。そう言ってた」


エレボスは立ち上がり、改めて現場を見下ろした。


――これは予告だ。


『次はもっと派手にやる』

そう、宣言するかのような痕跡。


そして、エレボスにはわかっていた。


これは“始まり”に過ぎない。


アーテーは再び姿を消した。

だが、今度は奴の影だけでなく、“信仰”そのものが街に根を下ろしつつある。


「殺人鬼の“模倣”では終わらない。これは“崇拝”だ」


その危険性は、過去に対峙した異形とも異なる。

理解されることで、アーテーという“狂気”は拡大していく。


それを止めるためには、ただ追うだけでは足りない。


「――次の手を打つ」


エレボスの瞳に、再び静かな決意が灯った。


それは、正午を少し過ぎた頃だった。


王都の中央通り、昼の喧騒に紛れて――

突如として男が叫び声をあげ、通行人に突っ込んだ。


「うわっ! な、何だ――ぎゃっ!?」


男は裸足だった。

上半身は裸で、血のような赤い塗料が身体中に塗りたくられていた。


目は虚ろで、口元はだらしなく開いている。

ただ、顔の中心だけ――口の周囲だけが異様に赤く塗られていた。


歪な笑みを象った、それはまるで“仮面”のようで――


「きゃああっ! 誰か、警備を――!」


混乱の声が響く中、男は街灯に体当たりし、石畳に転がる。

起き上がると、両手を広げて叫んだ。


「祝えええええ! 我らが主は再び地を照らす! 愚かなる知性を捨て、偉大なる愚行に膝をつけえええええ!」


その直後、背後から鋭い何かが飛来した。


バシュッ


男の喉元に、小さな麻酔針が突き刺さる。

もがきながらも、男は力を失って崩れ落ちた。


「……もう少しで誰かが死んでいたな」


静かに歩いてくる男――黒衣の仮面。

エレボスが現場へと到着した。


周囲の市民は距離を取り、警備団員が男を拘束しようと駆け寄る。


「近づくな」


エレボスの言葉に、警備団員が足を止めた。


男の身体に、黒い斑点が広がっていた。

それは魔力の焼け跡――術式が“内側から”発動していた証だった。


「これは……術式を“埋め込まれて”いる」


エレボスは男の手首を取って、静かに脈を計る。

乱れている。だが、意識がないのに喋っていたのも事実。


「……これは、人形だな。意志を失った人間を、外側から操っていた」


遠隔操作、あるいは呪術的な制御。


「……演出だ。観客に見せつける芝居。それ以上でも以下でもない」


そして、彼の仮面越しの視線が空中を捉えた。


屋根の上。


そこに、道化のようなシルエットが、こちらを見下ろしていた。


ピエロめいたメイク。

だが、瞳だけが異様に暗く、空虚。


『愚行は伝染するんだよ。なあ、エレボス』


アーテーだった。


仮面も、武器も持たない。

ただ、ひらひらと赤いマントを翻し、屋根の端に立っている。


『俺たちは同じだ。……だって、“人間の中に巣食う何か”を知ってる』


「お前はそれを“肯定”したいだけだろう」


『正解。……だけど、それがなぜ悪い? 俺を見ろ、街は動いた、信徒は生まれた』


「そして、死んだ」


『でも“笑った”だろ? それが人間だ。“正しさ”より、“面白さ”を選ぶ。お前だって、どこかでわかってる』


屋根の上で、アーテーがくるりと踊るように回る。


『これは祝祭なんだよ、エレボス。“愚かさの祝祭”さ』


「……まだ、遊び足りないのか」


『まだ“始まってすら”ない』


そして――


アーテーは後ろに跳ねるようにして、視界から消えた。

気配すら残さず、まるで演目の幕が降りたような静けさ。


エレボスは、しばし沈黙のまま男の顔を見下ろした。

無理やり塗られた笑み。意識を失ったままの市民。


「……これは、ただの模倣ではない。“信仰の形”を探ろうとしている」


“演出”の先にあるもの。


“教義”を求めるように、アーテーは“形”を固めようとしている。



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