第20話
瓦礫の隙間を抜けて吹き抜ける風が、エレボスの外套を揺らす。
アーテーの残した気配は、霧が晴れるように完全に消えていた。
まるでそこに最初から存在しなかったかのように——
だが、視線を落とせば、確かに“痕”はあった。
崩れかけた柱のひび割れに、赤黒い液体が乾ききらずこびりついている。
キメラのものか、あるいは、それを作るために“使われた者”の残滓か。
エレボスはしゃがみこみ、指先でそれを掬った。
魔力の混濁。人の血と異質な魔素が強制的に結合させられている。
「やはり、こいつの術式……」
脈動する不快な違和感。
これは“殺すため”に作られたものではない。“見せつける”ための意図がある。
“誰かの手で殺された誰か”を、別の何かへと変える——
そうした手順が、冷酷に繰り返されている。
エレボスは立ち上がり、仮面越しに廃墟の奥を見やった。
まだだ。
ここには、まだ“何か”が残されている。
アーテーがわざわざ姿を現した以上、目的が“挑発”だけとは思えない。
彼は歩を進め、倒れかけた神像の裏手に手をかけた。
石がこすれる音とともに、内部に隠された階段が姿を現す。
「……地下か」
王都第七区画の“旧礼拝堂”。
かつてこの地に仕えていた司祭たちが、罪を祓うためと称して“何か”を封じていたという噂があった。
当時は信仰の名の下に闇を葬り去ったとも言われている。
その封印が、今、再び開かれようとしているのだとすれば——
アーテーは、その“鍵”を握っている。
エレボスは階段を降りる。
冷たい空気が下から吹き上げ、まるで地下が“息をしている”かのようだった。
途中、壁には儀式文様が乱雑に描かれていた。古いものと、新しいもの。
上書きされ、塗り潰され、重なり続ける“呪文”の跡。
やがて足元に広がったのは、半円形の空間だった。
祭壇、そして無数の拘束具。
人を“固定する”ための器具が規則正しく並び、その中心には、一つだけ解放された鎖があった。
そこには何もいなかった。
だが、周囲には無数の“踏み跡”。
術者が複数人ここを訪れていた証拠。
……いや、“ひとりの術者”と、“多数の犠牲者”か。
ふと、壁際に置かれた一冊のノートに目が留まる。
開けば、中には手書きの記録。
人の名前。
年齢。
“異常適合率”という数字。
「……これは……」
かつて王都が魔術実験のために封印したはずの“生体転化術式”。
それが、再び動いている。
そしてアーテーは、その中心に居る。
彼はただの殺人鬼ではない。
人を殺し、魔術の“素材”として使いながら、それを“舞台”とし“芸術”として昇華する。
まさに、『破滅のアーティスト』。
その執着は狂気と呼ぶには理がありすぎる。
破滅に導くために、手順を楽しんでいるのだ。
階段を登り直すエレボスの足音が、どこか鋭さを帯びる。
仮面の奥、彼の目が冷たく光る。
「次は……必ず、止める」
地上に出たその時、彼は確かに感じた。
風の中に、ほんの僅かな“視線”。
遠くの屋根の上、笑うピエロのような影が、手を振っていた。
それは、まるで——“次の幕が上がる”合図のようだった。
風が吹き抜けた瞬間、屋根の上の“影”は消えていた。
エレボスは仮面越しにその残滓を追う。だが、既にアーテーの気配は、どこにも残っていなかった。
屋根の上にすら、足跡ひとつ無い。
まるでそこに居たのは幻影だったかのように——いや、意図的に“残さなかった”のだ。
アーテーは、彼の中の『見せたいもの』と『見せないもの』を明確に使い分けている。
『演目はまだ途中だぜ、観客くん』
あの芝居がかった声が、脳裏でリフレインする。
嘲るように、それでいてどこか愉快そうに。
エレボスはしばし黙したまま空を見上げ、やがて口を開いた。
「……本当に、厄介な奴だな」
その声に、怒気や焦りはない。ただ、深い静けさが滲んでいた。
アーテーが“次”を仕掛けてくるのは確実だ。問題は、それが“どこで”か、だ。
エレボスは再び、廃墟の内部へと目を戻す。
ノート。術式痕。鎖。残された血痕。
全てが語っている。
『次』は、もうすぐだ。
彼はゆっくりと、手の甲を宙にかざす。
魔術回路が静かに発動し、空間に淡い光の刻印が浮かび上がる。
探索式。
空間の揺らぎ、残留魔力、異質な熱量を拾い、周囲数キロの“術式反応”を探る。
数秒の沈黙の後——西、二キロ。反応あり。
それは、単なる魔力ではない。
“拡張系陣式”、つまり“何か”が増幅され、維持されている証。
しかも、それはアーテーが好む“即興演出”とは異なる。
計画的に築かれ、維持されている“ステージ”。
「……やはり、次を仕掛けるつもりか」
彼は足音を立てずにその場を離れた。
進む先は王都の旧処刑場跡。
二百年前、かつて魔術犯罪者たちが“儀式”のために集まった場所。
地中には今なお、血と呪詛の記憶が染みついている。
そこで、アーテーは“次”の殺人舞踏会を開こうとしているのかもしれない。
そして、今回の舞台は——“観客”付きだ。
エレボスは仮面を少しだけ持ち上げ、喉奥で短く息を吐く。
「また……命を、見世物にするつもりか」
風が鳴く。
空は赤く染まりつつあり、薄雲の奥に、陽は沈みかけていた。
闇が迫る。
影が踊る。
エレボスは静かに、しかし確かに歩を進めた。
その先に待つのが地獄であろうとも、止まる理由など、彼にはない。
なぜなら、あの男——アーテーはまた、あの『笑み』を浮かべながら、誰かの命を“幕開けの鐘”に変えようとしているのだから。
王都の空が淡い藍色に染まる頃、東錬区の裏通りで、不穏な気配がじわじわと広がっていた。
表通りの喧騒から一歩外れた先に、誰も近づかなくなった空き倉庫がある。かつて香料の精製に使われていた建物だったが、今では壁に油が染み、風が通るたび軋んだ音を立てている。
その一室で、白いローブを纏った数人の男女が、円を描くように立っていた。床には黒い墨で歪な円形の紋様が描かれ、その中央に祀られた蝋燭が静かに揺れている。
「アーテーよ。我らの声を聞きたまえ。歪みと愚行を司りし真なる主よ」
誰かがそう呟くと、他の者も次々と後に続いた。
「この世界は、偽りに満ちている。秩序を騙り、正義を押しつける者どもを、どうか裁きたまえ」
祈りはやがて、歓喜にも似た歪んだ笑いへと変わっていく。その顔には、誰から教えられたのか分からない、滑稽なメイクが施されていた。派手な赤と青の染料で唇を縁取り、目元を大きく塗り潰している。
その滑稽さが、むしろ気味が悪い。
「……来るぞ。また“供物”を迎える時が」
彼らの前に置かれた木箱が、わずかに揺れた。
中に押し込まれていたのは、一人の青年だった。縄で縛られ、口を塞がれた彼は、目を見開き、必死に体をよじっている。恐怖に濡れたその瞳を、彼らは陶酔するような目で見下ろしていた。
「アーテーの器にふさわしいだろう?」
その言葉とともに、蝋燭の火がふっと揺れ、部屋全体が低く唸るように震えた。
その夜、王都の衛兵詰所には、一件の報告が届く。
「東錬区でまた“行方不明者”が出たそうです。しかも今度は昼間に……」
エレボスは仮面越しに地図を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「何かが動いているな。次は、地下の流通を押さえる必要がある」
仮面を整え、マントの襟を立てながら、彼はすでに誰も通らぬ道へと姿を消す。狙うのは、かつて情報屋が話していた“薬草取引の抜け道”。その一角に、例の紋様が描かれていたという。
地下通路に足を踏み入れると、すぐに鼻をつく焦げた香の匂い。遠くで蝋燭が揺れる音と、何かを引きずる微かな音が交錯していた。
ほどなくして、一人の男の呻き声が聞こえてきた。
「アァ……アーテー……救済……俺は、器に……なれる……」
男は壁にもたれ、焼き印を抱きかかえるようにしていた。皮膚にはっきりと浮かぶ歪んだ紋様。口元はだらしなく緩み、言葉はもはや意味を成していない。
「……これは“信仰”じゃない。中毒だな。思想という毒だ」
エレボスは呟くと、男の手から引き剥がすように布片を取り上げた。その裏には血で書かれた一文が残されていた。
『我らが主は、破滅より生まれし者。名はアーテー。愚者を導く“真理の仮面”なり』
仮面の奥、彼の瞳が冷たく光った。
「……また貴様か。アーテー」
闇の中で育つ狂気は、まだ芽吹いたばかりに過ぎない。
そしてこの街は、気づかぬままに、“仮面の神”を信じる信徒たちに侵されはじめていた。
王都の夜は静かだった。だがその静けさは、穏やかさではなく『異様な沈黙』だ。
何かが潜んでいる。誰かが見ている。
そんな気配だけが、東錬区の空気を重くしていた。
エレボスは裏路地の一角にある、朽ちた屋敷の地下へと潜っていた。
例の信者が所持していた布片に記されていた座標。その場所に、奇妙な空間が広がっていた。
「……地下に、これほど広い空間が眠っていたとはな」
崩れかけた石造りのアーチ。天井には祈りの文句が墨で描かれ、床には大小の蝋燭が立ち並んでいた。
そのすべてに、あの“仮面”を象った印が焼きつけられている。
「信仰じゃない。これは“模倣”だ。あの男の残した猿芝居を、本気で拝んでいる連中がいる」
仮面の奥、エレボスの目が冷える。
奥へ進むと、礼拝堂らしき部屋に出た。中央には石の祭壇。そして、その上に捧げられるように、白いローブを纏った少女が倒れていた。
目を閉じ、まるで眠っているように見える。だが、呼吸はかすかに続いていた。
「生きている……薬物か、魔術か」
周囲を警戒しつつ、少女を抱え上げようとした瞬間。
「おやおやおや、そりゃ困るなあ。せっかく“器”にしようとしてたのに」
どこかから声が響いた。壁か、天井か、それとも自分の脳裏かと錯覚するような、芝居がかった、乾いた声。
「せめて“終演”までは付き合ってくれないと、俺の舞台が台無しじゃないか」
音もなく現れたのは、あの男だった。
白塗りの顔に、左右非対称なメイク。黒い涙が片方の目元から流れ落ち、赤く塗られた唇が笑っていた。
「久しいねえ、エレボスくん。再会のキスでもする?」
エレボスは言葉を返さず、ただ足元の祭壇から離れ、仮面を少し傾けて男を見据える。
「“アーテー”。てめえはまた、こういう悪趣味な登場を……」
「違うなァ。俺は“悪趣味”じゃない、“本質”ってやつさ。人間の、理性ってやつが紙みたいにペラペラだって、見せてるだけだよ?」
男は肩をすくめ、滑稽なほど大袈裟な身振りで舞台俳優のように両腕を広げた。
「だってさあ、彼らは俺に祈ったんだぜ?『救ってください』って。破滅の神に、救済を願うだなんて――最高じゃないか」
「“神”の名を騙って人を弄ぶ気か」
「違うよ、“神”は俺じゃない。俺は“彼ら”にとっての『導き』。お前が切り捨てた者たちの、なァ!」
次の瞬間、蝋燭が全て吹き消され、視界が闇に沈んだ。
エレボスはすぐさま気配に集中し、背後の風を読みながら踏み込み――腕を一閃。
しかし手応えは、ただの“布”。
「……煙幕か」
「今の俺はね、“祈られる”存在なんだよ。信仰を受けて、信仰の中に逃げ込む。お前が追いきれないほど深く、な」
煙が薄れる頃には、アーテーの姿はなかった。残されたのは、奇妙な詩のようなメモ。
『俺はどこにでもいる 笑う者の中に 泣く者の中に
道を踏み外したその瞬間 お前の影に立っている』
仮面の奥、エレボスの顔に一瞬だけ静かな怒気が浮かんだ。
「……影に立つなら、いずれ踏み抜くこともできる」
少女を抱きかかえ、彼は再び地上へと歩き出す。
闇はまだ深い。だが、その中心には必ず“奴”がいる。
それを知るだけで、エレボスの足は止まることはなかった。




