第19話
エレボスは立ち尽くしていた。
アーテーの残した黒い霧は、すでに風に流されていたが、その痕跡は街の空気にしぶとく残っていた。
皮膚にまとわりつくような、微かな魔素の感触。
闇の性質に似て非なる、それでいて人を狂わせる何か。
「……ここまで痕跡を残して消えるとは、随分と余裕だな」
彼は足元に落ちていた、小さな黒い羽根を拾い上げた。
それはまるで、アーテーの“演目”が終わった後に残された道化の小道具のようだった。
魔力の波動は微弱だが、確かに残っている。
街の空気に紛れたそれは、普通の捜査官ではまず感知できまい。
エレボスはその羽根を懐にしまい、闇の中に視線を投げた。
アーテーが逃げた先。
完全な足取りを掴むのは難しい。だが、今夜の戦いには意味があった。
アーテーの魔力は、以前と比べてわずかに変質していた。
より濃く、より悪意を孕み、誰かの手が加わっているような印象を受けた。
それが術者によるものか、それとも別の“存在”なのか——。
「……どこかで接触しているな。キメラを生み出す術者と」
そう確信するに足る変化だった。
アーテーが単独で動いていたわけではない。
誰かが、あるいは何かが、彼を『意図的に』導いている。
その事実こそが、今夜の収穫だった。
エレボスは背を向け、街の裏路地へと姿を消した。
その歩みには迷いがない。
彼は確実に“影”の中核に近づいている。
それは、これまでよりも遥かに濃く、重い闇の深淵。
だが、彼の視線は曇らない。
仮面の奥に宿る瞳は、闇にこそ慣れ親しんだ者の鋭さで、光を見据えている。
そしてその奥底には、再び相まみえるであろう、道化の殺人鬼——アーテーへの、揺るがぬ覚悟が静かに燃えていた。
闇が深まるほど、戦いは冴える。
エレボスはそれを知っていた。
だから、進む。迷いなく。
今、王都の最奥に蠢く“本当の黒幕”に向けて——。
冷たい夜風が、石畳の路地を這うように吹き抜けた。
エレボスの黒衣が微かに揺れる。
その気配に紛れて、遠くで猫の鳴き声がかすかに響いた。
静寂は戻ってきていた。
だが、その静けさは安寧とはほど遠い。
ただ、闇が息をひそめて次の獲物を待っている——そんな不穏な空気。
エレボスは、アーテーの逃走経路をなぞるように歩を進めていた。
闇の網目の中にわずかに残る、魔力の擦れ跡。
それはまるで、火の粉が残した痕のように、石壁の内側にしみ込んでいた。
「こちらに逃げたようだな……」
路地の突き当たり、古い廃倉庫が目に入った。
東錬区の外れ、かつては貿易商が物資を貯めていたというこの場所は、今では誰も近づかない。
人払いの結界すら張られずに放置されている。
だが、だからこそ“何か”が潜むには格好の場所でもある。
エレボスは扉に手をかけた。
鍵は壊れていた。
押し開けると、軋む音と共に、埃と鉄の臭いが鼻腔を満たした。
中は薄暗く、窓には布がかけられている。
外の光は届かず、内側には……誰かが使った痕跡。
足跡。焦げ跡。血のような痕。
そして——
「……これは、転移陣か?」
床に描かれた魔方陣のような痕。
薄れてはいるが、中央には明らかに“生体転送”に用いられる構造式が刻まれていた。
魔術的には古い形式だ。精度は低い。
だが、その分だけ軌跡は素直に残る。
エレボスは跪き、指先で構造式をなぞった。
「中央区の地下……いや、北側の第七区画か。随分と懐かしい地名だな」
第七区画。
十年前、謎の火災で全域が封鎖された地区。
今では出入り禁止とされ、文書上も“存在しない”と扱われている。
その封印されたはずの区域へ、アーテーは跳んだ。
——あるいは、跳ばされた。
「……ついに、底が見えたか」
エレボスは立ち上がり、視線を倉庫の奥へ向けた。
そこには、崩れかけた棚と、ひしゃげた木箱。
その中に、ぽつんと置かれた小さな紙人形があった。
滑稽な道化の姿を象った、それは、間違いなくアーテーの“置き土産”。
「随分と芝居がかった真似をする」
手に取ると、人形は音もなく崩れ、黒い灰となって消えた。
それがアーテーからの『挑発』だと、彼には分かっていた。
だが、乗るつもりは毛頭ない。
エレボスにとって、アーテーは“遊び相手”ではない。
殺すべき標的であり、放っておけば誰かの命が失われる“災厄”だ。
「……次こそは逃がさん」
低く呟いたその声は、まるで夜の底に沈み込むようだった。
闇の騎士は、踵を返した。
その背に、再び風が吹く。
決戦の地は、封じられた第七区画。
王都の最も深い場所で、再び“道化”と“仮面”が交錯する日が近づいていた。
倉庫を出たエレボスの足取りは静かだった。だが、内に秘めた気配は鋭く研ぎ澄まされている。路地の闇に紛れるその背に、追跡者としての沈黙と、裁定者としての覚悟が漂っていた。
第七区画。
封鎖された街の影。
記録上では“存在しない”ことになっているその場所は、王都の過去の失敗の象徴だった。十年前、大火災と連続失踪事件が重なり、街全体が崩壊。すべては「事故」として処理され、住民は他区に移送され、区域一帯は厳重に封鎖された。
しかし、エレボスは知っていた。
あれが単なる事故ではなかったことを。
「……お前が、またそこに潜ったか。アーテー」
呟きには怒りも、驚きもない。
ただ、古傷に指を這わせるような重みだけがあった。
十年前、あの火災の現場にもアーテーはいた。
否——むしろ、あれこそがアーテーの“最初の舞台”だったとも言える。
人間の皮を被って、住民たちの中に紛れ込み、
笑いながら、家族同士を疑心と狂気で引き裂かせた。
誰もが「自分は正しい」と叫びながら、互いを焼き、壊し、殺した。
そこに、アーテーが手を下した痕跡はほとんどなかった。
だが、確かにそこには“アーテーの意志”があった。
彼が手を汚さずして人を狂わせる、その才覚の一端が。
『なあ、エレボス。人ってのは、道化のひと言で破滅できるんだぜ? 自分で首を締めながら、なぜか最後は“助けて”って叫ぶんだ。あれが、最高に“笑える”んだよなァ?』
そう語ったアーテーの声が、脳裏で反響する。
ピエロのようなその調子も、仮面の裏の彼にはもはや不快ですらなかった。
それは“理解を拒む存在”への拒絶ではなく、むしろ理解しすぎた者への嫌悪——あるいは哀れみに近かった。
そして今、アーテーは再び第七区画に舞台を戻そうとしている。
あの時、封じられたはずの“地獄の残響”が、また呼び戻されようとしているのだ。
エレボスは立ち止まり、路地の壁に片手を当てた。
古い石の感触。冷たいが、どこか懐かしさを含んでいる。
「……第七区画に潜る以上、お前は何かを企んでいる。アーテー、“偶然”だけで生きる道化ではない」
手がかりはまだ少ない。
術者の痕跡は確かに転移陣を通じて“そちら”へと向かっていた。
だが、その背後にどれだけの犠牲と計画があるのかは、まだ掴めていない。
「だからこそ……逃げ足の速いお前を、次こそ“討つ”」
静かに呟いた言葉には、仮面の内側の熱が滲んでいた。
かつて誰も救えなかった区画。
そこで、また同じ過ちを繰り返させるわけにはいかない。
エレボスの視線は、夜空の先へ向けられた。
雲間に、わずかに月が姿を見せている。
光の届かぬ区画へ向かうには、あまりに穏やかな光だった。
——だが、闇に潜る者に必要なのは、光ではない。
沈黙の中で相手の息を読み、見えぬ毒を嗅ぎ分ける、冷徹な勘。
仮面の奥の眼差しが、ゆっくりと細められた。
「……次の幕は、第七区画か」
第七区画――それは、王都の地図から削り取られた忘却の闇だった。
かつての住人たちが残した痕跡は、すべてが灰になり、瓦礫に埋もれているはずだった。だが、エレボスの足元を撫でた風は、まるで囁くように「まだ終わっていない」と告げていた。
無人のはずの通りに、微かな足音。
猫のものか、あるいはもっと“異質な”何かか。
エレボスは屈み、地面に指先を触れた。
そこには、かすかな圧痕。人の足跡ではない。爪のような形状、しかし二足歩行を前提にした配置——
「……キメラ」
低く、確信を込めて呟く。
その足跡は新しく、しかも意図的に消されていた。地面をこすって撫でたような痕跡。だが、完全には拭いきれていない。
痕跡の辿る先にあったのは、崩れかけた礼拝堂だった。
屋根は抜け、内部は影に満ちている。
しかし、朽ちた壁面には、かすかに魔法陣の名残が焼き付けられていた。
「……転移門ではない。召喚陣か?」
ただの破滅ではない。
術者は“何か”を呼び寄せている。
それは地の底からか、あるいは外の世界かはまだわからない。だが、明確な意思と計画のもとで行われているのは確かだ。
その時だった。
風が、逆巻いた。
石畳の隙間から吹き上がった冷気が、エレボスの外套を翻す。
音もなく、その背後に何かが“立った”。
「……来るか」
振り返るまでもなく、気配で理解した。
それは獣でも、人でもない。
理性と本能の境界が溶けた、あの“歪み”だ。
歪んだ肢体、奇妙に長い腕、そして血のにおい。
キメラ——いや、“術式によって拘束された何か”。
エレボスは視線だけで相手の動きを読む。
真正面からの突進。だが、重心は狂っていない。動きも洗練されている。
つまり、“誰か”が制御している。
「……傀儡か」
瞬間、エレボスは身を沈め、寸前で放たれた腕をかわした。
風を裂いた爪が礼拝堂の柱を薙ぎ、粉塵が舞う。
その隙を縫って、エレボスは右手を突き出した。
掌に練り上げた魔力が、極細の線として空間を切り裂く。
対象の関節部に、正確に、深く。
キメラの動きが僅かに鈍る。そこを逃さず、左膝裏へもう一閃。
力の流れを断ち切ることが、術者とのリンクを切る最短経路。
だが——
『あーっ、やっぱり見てるだけじゃ物足りなくなるなァ』
空間が、声を孕んで“笑った”。
聞き覚えのある声だった。
芝居がかった、仮面をかぶったような口調。
その“愉悦”の滲んだ抑揚に、エレボスの瞳が僅かに鋭さを増す。
「アーテー……」
廃墟の奥、影と影の間から現れたのは、一人の男だった。
顔には悪趣味な白黒メイク。
まるで死に化粧をピエロ風に雑に上塗りしたような、それでいてなぜか整ってすら見える“不気味さ”。
身を翻すようにして礼拝堂の柱に腰掛け、足をぶらつかせながら、彼——アーテーは言った。
『やあ、やあ、やあ。ようやく来てくれたな、俺の“親友”』
「お前がここに居るということは……」
『んー、そりゃあ“宴の準備”に余念がないってだけさ。せっかくの再会だし? 舞台は賑やかな方がいいだろ?』
言葉に毒気はない。だが、その笑顔の下に渦巻くのは純粋な悪意。
誰かを傷つけることに目的はない。ただ、それを見て“笑いたい”だけの破滅者。
エレボスが踏み出そうとした、その瞬間。
アーテーは片手を軽く振り上げた。
その動きと同時に、先ほどのキメラが自壊するように崩れた。
『んー……ダメだな、やっぱり。こうやって面と向かうと“面白くなくなっちゃう”んだよなァ、俺。困ったもんだ』
「……逃げるのか」
『逃げる? 違うねぇ。“観客席に戻る”だけさ。次の“幕間”を楽しみにしてるよ、エレボスくん』
そして、その言葉とともに、アーテーの姿は霧のように溶けた。
空気すら嘲笑うような気配を残しながら。
仮面の奥、エレボスの瞳はしばらくその消えた場所を見据えていた。
わずかに力を込めた拳の震えが、静かな怒りを物語っている。
「……次は、逃がさない」
廃墟に残ったのは、かすかな魔力の痕跡と、冷たい風だけだった。




