第10話
彼の声が倉庫の冷えた空気に消える前に、背後の闇が微かに揺れた。
風ではない。魔力の気配──だが、それは通常の発動によるものではなかった。まるで空間そのものが軋むような、不協和音のような歪み。エレボスは瞬時に身を翻し、仮面の奥で目を細める。
そこに立っていたのは、人影だった。
いや、“それ”は確かに人の形をしていた。だが、違和感があった。影のように黒く、夜の中でもさらに暗い黒を纏っている。顔は布で覆われ、目元だけが覗いていた──赤い、異様に光を宿した瞳。
静かに、まるで靴音さえも拒絶するように、そいつは倉庫の入口に立っていた。
「仮面の男……」
その声には、抑揚がなかった。男か女かも判別できない、砂利のように擦れた声。
「──予定より、早いな」
エレボスは構えを崩さずに静かに言葉を返す。
「黒桟の人間か。それとも、彼らを使っていた“上”か?」
返答はなかった。ただ、影のようなその者の両腕が、ゆっくりと広がった。
そして次の瞬間、背中に“それ”が現れた。
脚──いや、蜘蛛のそれに酷似した、黒く硬質な魔力の構成体が、背中から六本、突き出した。生体とは思えないが、魔力の流れは生きていた。さきほど倒した術者たちの“脚”とは比べ物にならない精度。構造も、完成度も、段違い。
「……貴様が、“脚”の元凶か」
エレボスは瞬時に距離を詰めようとした。
だがその一歩の前に、“脚”の一本が地を打った。
──バン!
爆ぜたのは空気。地面にたたきつけられた脚の力で、一帯の気圧が瞬間的に変動した。埃が舞い、視界が一瞬、白濁する。
視界を奪う技。そこに続くのは──脚の連撃だった。
エレボスは瞬時に魔力を体表に集め、反射的に肘で受ける。脚の一撃が鈍い音を立てて彼の身体を弾くが、打撃は魔防で受け止められた。
だがその力は重かった。一撃、一撃に生物とは思えぬ精密さと質量がある。単なる魔力の具現ではない、技巧と工学、あるいは──儀式的な強化の成果。
「目的は何だ? 死体を操り、脚を生やし、何を目指す」
問いかけに返答はない。脚の一本が地面に突き刺さり、敵はその反動を利用して跳躍した。天井を蹴り、エレボスの頭上を取る。
エレボスは仮面の奥で目を閉じた。次の瞬間、全身から魔力が発動される。
瞬足──局所強化。足元の魔力が地面を滑らせ、彼の巨体が壁を駆ける。重さと速度を両立させるこの術は、近接魔法戦闘を主軸とする彼にとっての必殺の“間合い潰し”だった。
宙で交錯する二人。交差の瞬間、エレボスの拳が一閃する。
だが、掠めた手応えの直後──視界の端で黒い“脚”が空間を裂いた。
その一撃は攻撃ではなかった。空間に亀裂を生じさせ、まるで──瞬間移動のように敵の姿が掻き消える。
エレボスはすぐに警戒態勢を維持し、周囲に魔力を走らせる。微細な魔の痕跡が、倉庫の外側へ向かっていることを察知する。
追うべきか。だが、あの空間跳躍を再度されれば、現時点では捕捉も困難だ。さらに、この場にはまだ残留魔力と儀式陣が残っている。解析を怠れば、また同じ惨劇が起こる。
エレボスは歯を食いしばり、拳を収めた。
「……やはり、“ただの儀式”ではない。これは技術だ。再現性を持つ“術式”だ」
彼の瞳が、冷たく光る。敵は確かに、目的を持って動いている。殺戮のためだけではない。そこにあるのは、“造る”という意志──そして、それを隠すための、巧妙な痕跡の消去。
仮面の下、エレボスの表情に影が差す。
「一体、何を創ろうとしている」
風が倉庫の隙間から吹き抜ける。
それは、まるで何かが忍び寄ってくる前触れのように、夜の静寂を破った。
──そして朝が訪れた。
王都は変わらず喧騒に包まれていた。屋台の呼び声、荷車を引く車輪の軋み、衛兵の号令。すべてが平常を謳っていたが、ある場所だけは、その表層の陽気とは裏腹に、緊張の気配を孕んでいた。
デヴォン公爵邸──
王城に次ぐ格式を持つ屋敷の一室。人払いがなされたその執務室にて、デヴォンは書類を一枚一枚、慎重に捲っていた。
彼の目は冷静で、時に資料に指を滑らせながら、慎重にページの端をめくる。その仕草一つひとつに、貴族とは思えぬ実務の手際があった。
目の前に積まれているのは、最近王都で発生した失踪事件の報告書、死体が発見された現場の調査記録、そして関係者への聞き取り記録。いずれも一見、無関係な事件に見えるものばかりだ。だが、デヴォンの眼差しは別のものを見ていた。
彼は小さく口元で呟く。
「脚の切断痕……三例目か。切断面が焼き斬られている。刀剣ではなく、高熱。だが、火傷ではない」
調査官が残した記録の隅に記された一文が、彼の指でトントンと叩かれる。
“断面から魔素の痕跡。火属性でなく、硬質化された魔力による切断と思われる”
デヴォンの目が細くなった。
「脚……蜘蛛の“脚”か?」
椅子の背もたれに身を預け、彼は天井を仰いだ。仮面の無い顔は理知的で端正、その目には知性と深い思索が宿っていたが、その奥底には、昨夜の倉庫で見た“脚”の異形が色濃く残っていた。
使い魔のように自立して動く魔法構成体。それを、他者の肉体と繋げて動かす術。即興の儀式では到底到達できない完成度。術式、素材、構築工程、維持のための魔力供給──いずれも高度に体系化された“知識”がなければ成立しない。
「……個人犯の域を超えている。組織的な“研究”だ。では誰が?」
その時、扉の向こうから控えめなノック音が響いた。
「デヴォン公。失礼します。先日の東区路地裏の現場写真が届きました」
声の主は秘書官の青年だった。扉が開かれると、丁重な態度で一冊の封筒が差し出される。デヴォンは頷き、それを受け取ると封を切った。
写真の中に映っていたのは、血の滲む石畳、そして壁に付着した奇妙な痕。
赤黒く乾いた血の飛沫。その形が、異様だった。
「……放射状。これは、体内から圧力がかかった爆裂……?」
彼は写真をじっと見つめた。血の飛び散り方から、体の内側から何かが“飛び出した”可能性を示唆していた。つまり、術式によって何かを“移植”された直後の破綻、あるいは拒絶反応。
「脚を……身体に“植え付ける”過程か。失敗作かもしれないな」
青年は戸惑い気味に声をかけた。
「公爵様……失礼ですが、どうかされましたか?」
「いや、何でもない。助かった」
静かに告げ、再び視線を資料に落とす。ページの隅に、ある名前が目に留まった。
“ヴァルス・グランツ──第一警備隊副官、東区担当”
デヴォンは小さく目を細めた。
昼の彼にとっては、ただの副官の名に過ぎない。だが、“夜”の彼は知っている。ヴァルスこそ、エレボスとしての彼と繋がる唯一の協力者であり、地上の情報を拾う目だ。
「……そろそろ、次の一手を打つ時かもしれんな」
窓の外では、陽光が王都の石畳を照らしていた。だが、その光の下に広がる日常は、果たして本当に“日常”なのか。仮面を外しても、なお消えない“闇”の輪郭が、彼の視界に滲み続けていた。
デヴォンは椅子から静かに立ち上がると、執務机の脇に掛けられた外套を羽織った。王都の貴族であれば、日中に自ら街を歩くなどまずありえない。だが、彼はそうした慣例を頑なに無視してきた。理由は明白だ。王都の“実情”を、自らの目で確かめるためである。
邸を出ると、彼は周囲に控える衛士の随行を断り、単身で馬車にも乗らず街路を歩き始めた。貴族という立場でありながら、群衆の間を一人で歩くことができるのは、異例であり異様でもある。だが、彼にはすでにそれが日常だった。誰よりも王都を歩き、空気を吸い、民の声を聴く──その在り方こそが、“仮面のない”彼自身の責務なのだと信じていた。
南区の商店街は、朝の活気に満ちていた。焼きたてのパンの香り、露店で売られる果物の鮮烈な甘味。子供たちの笑い声と、荷を運ぶ労働者の掛け声が交錯するその通りに、彼の姿は不思議と自然に馴染んでいた。
「やあ、公爵様。今朝は珍しく早いじゃないですか!」
呼び止めたのは、路地裏の果物商だった。白髪混じりの男は、皿に盛られたリンゴを差し出す。
「これ、今朝一番の仕入れですよ。よろしければ味見を」
デヴォンは微笑を浮かべ、ひとつを手に取った。
「ありがたい。君の目利きは確かだからな。きっと、このリンゴも良い甘さだろう」
男は頷いて笑った。周囲の商人たちも彼に親しげな視線を送っている。彼が「デヴォン公」であることを知っている者は多いが、その肩書きではなく、“街に足を運ぶ一人の人間”として彼を受け入れているのだった。
彼の歩みは次第に、王都でも治安に不安のある旧街区へと向かっていく。崩れかけた建物、細い路地、壁のひび割れ。観光客は決して立ち入らないその一帯こそ、彼が最も目を配るべき場所だった。
ここでは、人の“目”よりも“気配”を読むことが求められる。表面上の会話や態度の裏に潜むもの──怯え、不信、そして時に偽りの沈黙。彼の歩みはそれを拾い上げる術に長けていた。
小さな工房の前を通ると、中から声がかかった。
「……公爵様。少し、よろしいでしょうか」
顔を出したのは、機械職人の男だった。腕には油がこびりつき、顔にも疲れが滲んでいたが、その眼差しには切実な色が浮かんでいた。
「うちの娘が、最近……夜になると、夢遊病のように外に出ようとするんです。誰かの声に呼ばれてるような……そんなこと、ありえるんでしょうか?」
デヴォンは一瞬目を伏せ、考えた。これまでの事例の中に、“声”を聴く者の存在があった。特定の波長の魔力、あるいは精神への微弱な干渉。無意識下に訴えかける何か──それが、異形の“脚”と繋がる可能性は否定できない。
「……ありえる。だが、あまり娘さんを怯えさせないように。今夜、信頼できる者を向かわせよう。正体を掴む手掛かりになるかもしれない」
「は、はい……ありがとうございます……!」
職人は頭を深く下げた。デヴォンはそっと手を置いて、それを制した。
「礼は要らない。私がしているのは、“私の仕事”に過ぎない」
そのまま彼は歩を進めた。日差しは徐々に傾き始め、影が地面を這うように延びている。空気は少しだけ冷たく、乾いていた。まるで、夜の気配が微かに忍び寄ってくるかのようだった。
路地の奥へ、ふと風に乗って香る、香料とは異なる匂いが漂ってくる。薬草でもなければ、商人の品でもない──もっと、湿った匂い。鉄とも、血とも、違う。
デヴォンは静かに立ち止まり、路地の壁に手をついた。その指先に、僅かな震えが伝わってくる。人が通った気配。魔力の残滓は感じられない──だが、足跡は確かに“異質”だった。体重のかけ方、踏みしめた位置、靴ではない……いや、もっと不安定な形だ。
「……やはり、地上にも出てきているな」
目を細めながら、彼は壁際の痕跡を視線でなぞった。人目を避け、正確な軌道で移動している。追跡を避ける訓練を受けているか、それとも、元より“人間”ではないのか。
彼の胸中に、かすかな不安が芽吹く。
王都の表面にはまだ異変はない。だが、こうして地下から滲み出すように、少しずつ、確実に“何か”が迫ってきている。
そしてそれは、“夜”だけの話では、もはや済まされなくなりつつあった。




