第11話
夜の王都に、静かな風が吹いていた。街路を灯す魔灯が、古びた石畳をぼんやりと照らし、その隙間に染み込むように夜の気配が広がっている。誰もが眠りに落ちている時間──しかし、エレボスは目を覚ましていた。仮面の奥、銀の瞳が静かに街を見下ろしている。
今夜は巡回区域を変え、旧市街地に近い裏通りを歩いていた。昼間にデヴォン公として聞き取った情報をもとに、夢遊病の少女が徘徊しかけたという一帯を重点的に探る。見た目は荒廃した家屋と細い路地が絡み合うただのスラム。だが、その静寂には妙な“揺らぎ”があった。
壁に手を這わせながら歩いていたそのとき、小さな泣き声が聞こえた。耳を澄ますと、半壊した納屋の奥から子どもの嗚咽が漏れている。すぐに身を滑り込ませると、震える小柄な影が目に入った。膝を抱えて泣いている少女の側には、泥に汚れた籠が転がっており、中には潰された果実が散らばっていた。
「どうした?」
エレボスは低いが優しい声で問うた。少女は驚いて一瞬身を縮こまらせたが、仮面の奥の光に、どこか安心を覚えたように顔を上げた。
「おじさんたちが……お金払わないって、果物踏んで……逃げて……」
話す声はか細かったが、内容は明瞭だった。子供が家族の代わりに働いている、よくある王都の光景。しかし、それに付け込んで暴力で品を奪うなど──許されることではない。
「名前は?」
「ララ……です」
「ララ。怖くはない。家へ戻りなさい。……この件は、私が裁く」
そう告げると、少女の肩に軽く手を置き、立ち上がった。すぐに近くの空き家の屋根に上り、周囲を見渡す。果たして、数ブロック先の路地で男たちが酒を片手に騒いでいた。二人、いや三人。見慣れた盗賊まがいの顔だった。街中を徘徊しては、力の無い者たちを踏みつけにしている卑劣な連中だ。
エレボスは静かに、しかし正確に屋根から降り立つと、影の中を滑るように歩き、男たちの前に立った。
「……その果実、味はどうだった?」
「はァ? 誰だテメェ……って、うおっ、なんだその仮面!?」
一人が嘲笑と共に構えを取った瞬間、エレボスの手が光を放った。だがそれは派手な呪文ではなく、純粋な魔力を帯びた拳が男の腹に叩き込まれたのだった。鈍い音と共に男が吹き飛び、残りの二人が慌てて逃げ出す。
「愚か者は、痛みでしか学ばぬ」
残る一人も逃げようとしたが、その背後にすでにエレボスの影があった。地を這うような疾走の末、背に一撃が叩き込まれ、男は気絶する。
エレボスは振り返らずに背を向け、その場を後にした。小さな悪意は断たれた。しかし、今夜の目的は別にある──もっと深い、闇の根を掘り起こすことにあった。
旧倉庫街に足を運んだのは、それからしばらく後だった。数日前から、人目につかぬ深夜に人が消えるという噂があった区域だ。昼間に見た、路地に残された“靴ではない足跡”の延長線が、この倉庫の一角に繋がっている。
その場に立ち止まった時、エレボスの感覚が鋭くなった。空気の濃度が変わったのだ。人が“いる”──だが、それはただの人ではない。
倉庫の鉄扉の隙間から、奇妙な匂いと“圧”が漏れていた。そっと扉に手を掛け、中を覗いた瞬間、視界に入ったのは倒れた衛兵の姿。血は流れていない。だが、意識を失っている。すぐ横には、粘液を垂らした足跡。
仮面の奥の目が細くなる。
「……いるな」
奥へ進むと、天井の高い倉庫の中央に、細身の影が立っていた。人間の女のように見えるが、背からは蜘蛛の脚のような黒く細長い“何か”が生え、ゆっくりと蠢いていた。脚は地面に触れず、空を這うように揺れている。そこから滴る液体が、衛兵の意識を奪ったのだろう。
「何者だ」
エレボスの声に、女はゆっくりと振り返った。目には焦点がない。言葉も発しない。ただ、顔が裂けるように笑った。
そして次の瞬間、脚が音もなく突き出される。即座にエレボスは回避し、拳に魔力を集中させて応じる。だが、その攻撃は本気ではなかった。あくまで試すような、牽制。
視界が白く曇った瞬間、エレボスの意識は本能の領域に切り替わった。仮面の奥、鋭い視線が霧の動きと空気の密度を読み取る。彼はその場から一歩も退かず、体内に宿す魔力を鼓膜の奥で鳴らせた。
「誤魔化しは──効かない」
霧の向こうから蜘蛛脚が疾風のように突き出される。だが、それは空を裂くだけだった。すでにエレボスは横にずれていたのだ。濃密な毒の霧を振り払い、彼の拳が一瞬の閃光と共に、女の体へと叩き込まれる。
「ぐ、ぁ……っ!」
女は呻き、脚を縮めて距離を取る。その身体は見た目よりも脆い。人間としての身体に、異形の器官だけを無理に接続されたような、歪んだ造形だった。だがその分、機動力と攻撃範囲に異常な冴えがあった。
「――逃がすか」
女の背後、倉庫の鉄骨を伝って逃げようとするその脚に、エレボスの魔力が纏われる。拳を構えたまま、一歩──二歩と踏み込み、その“足”の根元に向けて手刀を振り下ろす。魔力の重さに耐えきれず、一本の蜘蛛脚が鋭く裂け飛んだ。
断末魔のような悲鳴が倉庫に響く。女は身をよじりながらも、まだ牙を剥いた。反撃の速度は今まで以上。残った脚を地面に突き刺すように跳躍し、天井へ逃れる動きと見せかけて、真上から落下攻撃を仕掛けてきた。
だが、その奇襲さえ読まれていた。エレボスは一瞬の躊躇もなく、拳を真上へ突き上げる。
「力の“芯”が見えている」
掌底の一撃は、まるで地を砕く衝撃のように女の胸に炸裂した。蜘蛛脚が痙攣し、女の体が数メートル先の壁に叩きつけられる。
そのまま崩れ落ちた女の体から、蠢いていた脚が霧のように溶け、床に消えていく。魔術か──それとも、未知の術式か。だがそれを解析する暇はない。
「……死んだか?」
近づいて確認しようとしたその瞬間。女の体が小刻みに震え、口元から呻き声が漏れた。目を見開くと、もはや焦点も意志もなかった。ただ、命令に従うだけの抜け殻のような目。
「やはり……“使われて”いたか」
女の背から浮かび上がるように、淡い光が現れた。それは羽のように揺れ、音もなく宙へ昇っていく。かつて見た“羽根”と似ている。だが、どこかが違う──形状が不完全で、まるで失敗作のように歪だった。
そして次の瞬間、その光が音もなく四散する。まるで誰かが、証拠を隠滅するように。
エレボスは拳を引き、女の体をそっと仰向けに倒した。生きてはいる。だが、精神は壊れているように見えた。ここまで魔術的な操作を受けているとなれば、尋問も難しい。
彼はその場で、王都警備団の夜班とヴァルスへの伝令符を取り出すと、詳細な位置と状況を記した。女を回収させ、専門の隔離施設へ送る必要がある。だが、それと同時に別の懸念が胸をよぎる。
(この女……完全な狂信者ではない。もっと“外側”に近い)
口元に苦味を含ませ、エレボスは立ち上がった。彼の周囲にはまだ、無数の“入口”が潜んでいる。王都という都市の皮を一枚剥げば、そこにはかつて誰も知らなかった“何か”が、着実に這い寄ってきていた。
仮面の奥の瞳が、静かに夜の深みに焦点を定めた。
「──核心は、もっと深い場所にある」
その言葉と共に、エレボスはゆっくりと立ち上がった。瓦礫のように散らばった倉庫内の残骸を、丁寧に視線でなぞっていく。肉体の戦いが終わった直後でも、彼の思考はすでに次の手がかりを探し始めていた。
女が倒れていた場所。そこに残された蜘蛛脚の破片は、すでに力を失い、枯れた枝のように崩れかけていた。しかし、素材としては極めて特殊な性質を持っている。金属とも骨ともつかない質感。指先で掴んだそれは、わずかに魔力の痕跡を宿していた。
「これは……ただの魔法の産物ではない。儀式的な要素が混ざっているな」
口の中で呟き、エレボスは破片を布で包んで懐に収める。そして、女の逃走経路――すなわち、倉庫の奥へと向かう鉄扉に目をやった。まだ使われている形跡がある。そこから逃げる意志があったというより、むしろ“導かれていた”ような軌跡だった。
扉を開けた瞬間、微かに錆と血の混じったような臭気が漂った。エレボスの眉がわずかに動く。
通路の先は、地下へと続く古い階段だった。かつての物流倉庫で使われていた名残か、それとも異なる目的で造られたのか──だがその造りは、明らかに現在の王都の規格からは外れている。
「地下……やはり、そこに通じているのか」
慎重に足を進める。靴底が石を踏むたび、かすかな反響が闇に吸い込まれていく。壁の石材には、かすれた刻印のような痕跡が残っていた。それはまるで何かの“儀式”を意味する記号。読み取ることはできないが、エレボスの内にある魔力が僅かにざわめく。
階段を降り切った先、薄暗い空間に出た。そこには、木箱や棚が乱雑に積まれ、今しがた誰かが通り抜けたような乱れ方があった。埃が薄く舞い上がっており、直前まで誰かが潜んでいたことは確かだった。
「逃げ足の速さも、段取りも整っている……仕組まれていたな」
だが、ここまで明け透けに痕跡を残していくのは異例だった。あの女はあくまで“駒”であり、操っていた何者かが、確実にこの先に居た。なのにあっさりと尻尾を見せたようなこの痕跡。あえて“見せて”いる可能性も捨てきれない。
床に散った一枚の羊皮紙が目に入った。拾い上げてみると、それは見慣れない言語で何かが綴られていた。だが、幾つかの図形や印に見覚えがある。数日前、王都の北区で押収された、異教徒の祭壇跡に刻まれていたものと同じだ。
「点が……繋がっていく」
その瞬間、足元で小さく何かが砕ける音がした。視線を落とすと、鉄製の魔法式の破片。追跡防止、魔力痕跡の拡散遮断──情報抹消のための細工だ。
「遅かったか。いや……わざと残しているな」
敵は、自分を誘導している。そう気づいた瞬間、背筋に冷たい感覚が走る。この場所に残されたすべては、誰かの意志によって“見せられて”いるだけかもしれない。だが、だからこそ逆に分かる。
敵は焦っている。エレボスの追跡が、核心に近づいている証拠だった。
彼は仮面の下で口を結び、倉庫を後にした。夜は深まっていく。闇は深さを増し、その奥で何かが、牙を磨いている。けれどその爪音に、エレボスはもう慣れていた。
「……次は、誘導の先。そこが罠でも、行くしかないな」
空を見上げたその瞳に、星は映らない。ただ、深淵の向こうから響く、不気味な鼓動のような気配が、確かに彼の耳に届いていた。
エレボスは目を細め、夜風の中に混じる異質な振動に意識を集中させた。脈動するような魔力の波──これは自然に発するものではない。人工的、かつ、極めて意図的な力。誰かがこちらの動きを読んで、罠を張っている。
「……ならば、それごと叩き潰すだけだ」
彼は躊躇なく歩を進めた。闇に染まる王都の外縁、廃区画の一つに踏み込む。かつて職人の作業場として栄えた場所だが、今では誰も近寄らぬ忘れられた路地。朽ちかけた扉を一蹴し、内部へと進む。
空間に足を踏み入れた瞬間、魔力の罠が作動した。床が波打ち、空間そのものが歪んで閉じようとする。空気が重くなり、鉄のような臭気が鼻を突いた。
「密室化……閉じ込める気か」
しかし、エレボスは一歩も退かない。重厚な肩を傾け、拳に宿る魔力を解き放った。拳が空を穿つ。魔力が空間の歪みを貫き、周囲の封印術式が軋む音を立てて砕けていく。重力のように圧し掛かっていた圧迫感が、音を立てて霧散した。
破られるとは想定されていなかったのだろう。罠の裏にいた存在が、思わず息を飲む気配が空間ににじんだ。
「来たか、仮面の騎士……いや、“地の底”の狗か」
声が、奥の暗がりから響いた。音だけで気配が鋭利だった。人間とは思えぬ何かが潜んでいる──いや、今の一言で分かる。こいつが、今まで裏で手を引いていた“主犯”だ。
影の中から現れた男は、異様な姿をしていた。背は高く、痩せこけているようでいて、皮膚の下に異常な量の魔力が蠢いている。背中からは蜘蛛の脚が六本、魔力の編み目のように伸びていた。魔法で成形された奇形。人を超えた力を欲した代償が、その背に刻まれている。
「お前が、全てを操っていたか」
エレボスの声は低く、冷たかった。
「私ではない。“声”だよ。私の背に宿ったのは、選ばれし証……地の底に生きる本当の“神性”が、私を通してこの街に戻ってくるのだ」
「神などいない」
仮面の奥の目が光る。エレボスはその場から一気に地を蹴った。石畳を砕く踏み込み。剛力の拳が魔力を纏い、鋭い音と共に男へと迫る。
だが、男の背から伸びた魔脚がそれを受け止めた。石を裂くほどの衝撃に、空間が震える。しかし、エレボスは構わず連撃を放つ。拳、肘、膝──鋼のように鍛え上げられた肉体と魔法の瞬間強化が、連続して男を圧倒していく。
「ッ……この、化け物めが!」
男は悲鳴を上げ、魔脚を蠢かせてエレボスの身体を締め上げようとした。だが、エレボスはその締め付けを力業で外すと、右腕に魔力を集中させた。
「鎧皮──破壊」
魔力が爆ぜる音と共に、彼の拳が男の胸に叩き込まれた。空気が震え、男の体が数メートル吹き飛ぶ。
だが、まだ終わらない。男は立ち上がり、血を吐きながらも笑った。
「ふふ……それでも、まだ“神の声”は止まぬ。お前には聞こえぬか、あの甘美な囁きが……!」
「聞こえない。そして、お前にも届かない」
エレボスの姿が瞬き、次の瞬間には男の背後にいた。魔脚が振り返るより速く、彼の蹴りが横腹を撃ち抜く。床が割れ、男が呻く。
戦いは、肉体と魔法の重みで地を刻み続ける。だが、どちらにも決定打は出ない。
「まだだ、仮面の者よ。お前の知らぬ深淵が、この王都には潜んでいる!」
男は血にまみれた顔で嗤い、最後の魔力を爆発させるように撒き散らす。その一瞬の隙を突いて、背後の壁を破り逃走する。
エレボスは追おうとしたが、あえて足を止めた。
「今のは、誘いか……?」
あえて決着をつけなかったのは、敵もまた時間を稼いでいたからだ。情報を封じ、逃げ道を確保しながら、“何か”を進めている。
男の残した黒い血と、砕けた蜘蛛脚の破片が床に残っている。
エレボスはそれを見下ろし、ゆっくりと拳をほどいた。
「次は逃がさない。たとえ、お前の背に何が憑いていようとも」
夜がまた、深くなる。
王都の闇は、決して一度では剥がれぬ。
だが、仮面の騎士は確かに、その中心へと歩を進め続けていた。




