第9話
王都の地下。
それは、表に見える整然とした街並みの、真逆の姿を抱えていた。
エレボスが足を踏み入れた封印扉の奥。
そこに広がっていたのは、もはやただの秘密研究所ではなかった。
かつて王都が表向きには“存在しない”と記録から抹消した、地下儀式群の一角。
それが再び、誰かの手によって“再起動”されている。
彼が手にした封印文書の一つに、古い記述があった。
――「螺旋にして脚を生やすもの、器を借りて這いずることを望む」。
まるで預言のような詩的記録。だが、祭壇の周囲に散らばる蜘蛛の脚を模した魔具を見れば、単なる妄言ではないと分かる。
「脚を生やす、か……」
エレボスはかすかに目を細めた。
魔力に反応する僅かな揺らぎが、空気に混じっている。
それはまるで、誰かが今もなおこの空間の“先”で実験を続けているかのような、不気味な生気だった。
彼はそっと階段を下りる。
音を殺した足取り。
だが、石造りの廊下は既に何者かによって踏み荒らされた跡があった。
靴跡ではない。――何かが這ったような擦過痕。しかも、それは人間のものではない。
「人ではない“何か”が……通っている」
この時点で、既に異常は確定していた。
だが異常は、そこに留まってはいなかった。
階段を下りた先は、狭い回廊になっていた。
湿気と血の腐臭が混ざり合い、鼻腔を刺す。
灯りは一切ない。
エレボスは右手を掲げ、小さな魔力の灯火を灯す。
その灯に照らされた壁面には、びっしりと“人間の手”のような痕跡があった。
だが、数が異常だった。
無数の手が壁に押しつけられたように、そこかしこに染みついていた。
何かが……ここで“祈っていた”かのように。
あるいは、“助けを求めていた”かのように。
「……記録にない儀式が進んでいる」
彼は振り返らない。
恐怖や嫌悪ではなく、冷徹な意思がその足を前へと進ませる。
そして回廊の先に、小さな扉があった。
エレボスが手をかけた瞬間、扉の向こうで“気配”が動いた。
獣のように荒々しく、だが魔力を帯びた異様な存在。
その直後、扉が弾けるように内側から破れ、何かが飛び出した。
背から、蜘蛛のような脚を生やした人型の何か。
だがその姿は、既に“人”とは呼べない代物だった。
顔は仮面のように硬質化し、瞳孔は複数。
腕の代わりに変質した触手が揺れている。
エレボスは即座に対応した。
脚に宿した魔力を地に叩きつけ、衝撃波で距離を取る。
同時に手のひらに青白い魔力を収束させ、敵の胴を正確に撃ち抜いた。
「喋れ。お前は何を知っている」
しかし、異形は言葉を返さなかった。
代わりに、喉の奥から異常な魔力波を放出する。
──自壊呪術。
自らを“鍵”にして、封印を解除するために仕込まれた術式だった。
エレボスが咄嗟に防御魔法を肩に纏い、地に伏せる。
爆発は大きくはなかったが、内部の魔力に干渉し、空間の結界が一部崩壊する。
同時に、隠されていた扉が姿を現した。
「また……奥があるのか」
戦いは既に終わっていた。だが、事件はむしろここからが本番だった。
回収された文書からは、王都の一部役人との金銭のやり取りが記されていた。
だが、それ以上の決定的な手がかりはない。
誰がこの地下儀式の再建を主導しているのか。
異形の存在はどこから来て、何を目的としているのか。
一切が、霧に包まれている。
唯一明らかなのは、“蜘蛛の脚”を持つ者が、これで終わりではないという事実。
──そしてその背後に、“神”と呼ばれた何者かを信仰する、狂気の群れがあるという予感。
その夜、エレボスはひとり、崩れた回廊の奥に腰を下ろし、瓦礫の上に仮面を伏せた。
目を閉じ、記憶の中の光景を整理する。
次にどこを探るべきか。
誰を、信じるべきか。
その問いに明確な答えはなかったが、エレボスの足は自然と街の境界線へと向かっていた。
王都の東端──表向きには廃棄区域とされ、人の出入りが制限された区画。
だが、最近になってここにわずかな魔力の揺らぎと、人為的な隠蔽の痕跡が確認されていた。
月が雲間に隠れ、街が闇に沈む頃。
エレボスはその区域の巡回を開始した。
表通りを避け、裏路地から回り込むように足を進める。足音は地に吸われ、風の音すら遠ざかるような静寂が周囲を覆っていた。
建物はどれも朽ちかけ、外壁のレンガは崩れ落ちている。
だが、妙な点がいくつもあった。
割れた窓があるにもかかわらず、内部にはまるで人が生活しているかのような痕跡。
床には新しい足跡。
そして、僅かだが“焼けた香”のような匂い──魔術で用いられる儀式香の残り香が漂っていた。
エレボスは立ち止まり、目を細めた。
その視線の先、半壊した二階建ての家屋の裏手。
そこに、土を不自然に掘り返した跡があった。
慎重に接近し、地面に手を当てる。
魔力を流し込み、残留している気配を探る。
──何かが、確かに“埋められて”いる。
エレボスは腰の刃を抜いた。
それは剣であり、魔力の触媒でもある。
地面を穿ち、指先ほどの深さに刃が到達した瞬間、魔力の反発が走った。
瞬時に距離を取る。
次の瞬間、そこから小さな閃光とともに、保護結界が破れる音が鳴った。
「……結界付きの隠蔽物か」
土の中から現れたのは、金属製の小箱だった。
封印術式が施され、蓋には古代語で「還らずの門」と刻まれている。
蓋を開けると、中には三つの物が入っていた。
一つは、使用済みの儀式用魔石。
もう一つは、皮膚のような感触を持つ異質な紙に書かれたメモ。
そして最後に、まだ生々しい人間の髪の束。
メモの文字は不鮮明で、ところどころ焼け焦げていたが、一部は読み取れた。
『……次は、北区画。門はすでに“開き始めている”。……“脚”が足りない……』
「脚……またそれか」
エレボスは眉をひそめた。
先の地下で見た異形たちと、この記録にある“脚”──偶然の一致とは思えない。
すでに、事件はこの区域だけのものではなく、街の別の場所にまで拡がろうとしている。
その時、背後でかすかな音がした。
振り返る。誰もいない。
だが、風もなく、動物の気配もないこの場所で、音が鳴るはずがない。
直感が告げていた。誰かが、自分の動きを監視している。
仮面の下で、エレボスの目が細くなる。
ゆっくりと、手に魔力を集める。
次の一手は、もはや“追跡”ではなく、“狩り”に移行すべき段階にある。
敵の姿は未だ見えぬまま。
だが、確実にこちらの動きを“観測している”という事実が、何よりの警鐘だった。
「……始まっているのは、こちらだけではないということか」
彼は金属箱を懐に収め、再び足を踏み出した。
もはや“災厄”と呼ぶべきものが、扉の向こうに爪を立てている。
王都の闇は、見えぬ“何か”によって、静かに塗り替えられつつある。
それは、ただの狂信者の手に余る力。
そしてそれは、エレボスの追っている“殺人鬼”とは別の流れ──だが、同じ地脈の底で蠢く、より深い悪意と繋がっている気配をまとっていた。
数日後、情報が一つの点で結びついた。
それはヴァルスからの密告だった。王城の情報部に籍を置く彼が、ひどく疲れた声で渡してきたのは、ある荷の記録と、ある商人の不審な動きの報告だった。
「“脚”って言葉、あんたが気にしてたろ。北区画の市で、“蜘蛛脚の護符”ってやつが極秘で出回ってるって情報を拾った。しかもそれを運び込んだのが──《黒桟》って商会だ」
黒桟。表向きは穀物と香料を扱う交易商。だが裏では、魔術器具や禁書、果ては死体の密売までも取り扱う、王都でも特に監視対象に置かれていた闇商の一派だった。
エレボスは頷いた。その名は以前から耳にしていた。だが、表の顔が強固すぎて、手出しの隙がなかった。
「奴らが“脚”を運び入れた……何に使う気だ?」
その夜、エレボスは北区画の旧倉庫群へ向かった。かつて物流の中心だったその一帯は、今ではほとんどが閉鎖され、表向きの利用はされていない。だが、裏での取引にはもってこいの構造をしていた。
彼は音もなく屋根から屋根へと渡り、風を裂いて進む。巨躯にもかかわらず、その動きは影のようにしなやかだった。
目的の倉庫には、既に人の気配があった。
灯りもなく、外から見れば廃屋にしか見えないその建物の一角──扉が、わずかに開いていた。
耳を澄ます。微かに聞こえる呪文の詠唱。
──禁術、それも召喚に近い響きだ。だが“呼び寄せる”のではなく、“再構築する”何か。
エレボスは仮面を撫で、意識を切り替えた。戦闘への移行。それは即ち、覚悟の発動でもあった。
室内に侵入した瞬間、鼻を突く血と焼けた薬品の臭い。
室内の中央、奇怪な儀式陣が描かれており、その周囲には三人の魔術師が立っていた。
全身に黒い布をまとい、背には──確かに“脚”が生えていた。蜘蛛のように蠢くそれは、肉体と融合している。人工的に魔術で生やされた“脚”。
「もう一歩遅ければ、門は開かれていたぞ、仮面の男」
一人が言った。その顔は見えない。だが声には狂気がにじんでいた。
エレボスは一切言葉を返さず、手をかざす。
瞬間、空気が軋み、彼の腕に魔力が集束する。
体に宿した魔力を、骨と筋肉に流し込む。血管が浮き、仮面の奥の瞳が光を増した。
突進──その速度は、目で追うことすらできなかった。
最初の一人を殴り飛ばし、その身を壁に叩きつける。
衝撃と共に破裂した魔術陣が暴走し、周囲に赤い稲妻のような魔力の破片が飛び散った。
だが、エレボスはそれらを全て肉体の魔防で弾き、突き進む。
「“門”など開かせはしない」
二人目の術者が叫びながら詠唱を始める。だがその声は、エレボスの拳によって掻き消された。骨が砕け、血が飛ぶ。
最後の一人は、“脚”を地面に突き立てて跳躍し、天井から仕掛けを解放しようとした──
だが、その瞬間、エレボスの掌が地に触れた。
重力魔法。極地限定の密度操作により、術者の身体をその場に叩きつける。
ズン、と地響きと共に男は床にめり込んだ。
それで終わりだった。
三人の魔術師は即死こそ免れたものの、再起不能な状態で拘束された。
儀式陣の中心には、乾ききった心臓のようなものが鎮座していた。
脈打つ気配はない。だが、魔力の残滓が纏わりつき、まるで“器”のように誰かを待っているようだった。
「これが、“脚”の核……か。誰かがこれを使って、何かを造ろうとしている」
黒桟商会。蜘蛛の脚。儀式。再構築される身体。そして“門”。
まだすべては繋がらない。だが、確実に連なる鎖の一部を、エレボスは掴みつつあった。
この夜、王都の闇に潜んでいた一つの火種は消えた。
だが、より巨大な“本流”が、この下で蠢いている。
エレボスは再び仮面を撫でた。
「終わりではない。ここもまた、ただの“入口”に過ぎない」




