第9話 普通の練習
「はあ……。もういいわ。これから同じ学院の生徒として、よろしくね」
エルナ様は踵を返し、コツコツと硬い足音を響かせて歩き去っていった。
取り残されたダンが、ずるずると壁伝いに座り込む。
「お前、本当に心臓に悪いやつだな……」
それから数日後。
王立リーフェン学院に入学して、今日から寮生活が始まった。
学院は全寮制で、王都に実家があるダンも寮に入ることになっている。
部屋は二人一部屋だ。
白木のベッドが二つと、勉強用の机が二つ並んでいる。
窓からは、王都の街並みが一望できた。
幸いなことに、僕と同室になったのはダンだった。
「ダンと同じ部屋でよかったです。実家から通うのかと思っていました」
「学院の決まりだからな。それに、お前の監視役がいないと、いつ王都が吹き飛ぶかわかったもんじゃないし」
ダンは大きなため息をつきながら、自分の荷物をベッドに放り投げた。
夕食の時間になり、僕たちは一階の大食堂へ向かった。
広いホールには長いテーブルがいくつも並び、生徒たちが楽しそうに食事をしている。
配られたのは、分厚いお肉が乗ったお皿と、温かいスープ。
僕はナイフでお肉を切り、一口食べて目を見張った。
「信じられません。お肉が柔らかすぎて、噛まなくても溶けてしまいます」
「王都の肉は普通これくらいだぞ。お前、村で何を食ってたんだよ」
「少し硬い鳥とか、猪とかです。岩みたいに硬いので、三時間くらい煮込んでから、力いっぱい噛みちぎってました。あと、すごく大きな鳥がたまに来るんですけど、あれは硬すぎて犬の餌でした」
ダンが顔を引きつらせた。
「それ、たぶん魔物だぞ……。普通は食わないやつだ」
やっぱり、王都の料理はすごく美味しい。
食後、少し体を動かしたくなって、僕たちは夕暮れの訓練場へ向かった。
広い訓練場の隅に、大きな鉄の塊がいくつも転がっている。
持ち手がついているので、きっと鍛錬用の重りなのだろう。
僕はそのうちの最も大きなものを一つ選び、片手でひょいと持ち上げた。
「ダン。この重り、軽すぎて練習になりませんね。中身が空っぽみたいです」
僕は手首を返し、上下に軽く振ってみせた。
「ばっ、馬鹿野郎!それは特注品の重りだ!普通の大人が三人がかりで、やっと運ぶやつだぞ!」
ダンが慌てて後ずさりする。
「えっ、そうだったんですか」
僕はそっと重りを地面に下ろした。
ズンッ、と重たい音がして地面が少しへこむ。
王都の人は、こんなに軽いもので練習しているらしい。
やはり外の人たちは脆い。
母さんとの約束通り、百分の一の力をしっかり守らないと、うっかり誰かに怪我をさせてしまうかもしれない。
僕は重りを使うのを諦め、腰の木剣で、ゆっくりと素振りをすることにした。
素振りに夢中になっているうちに、すっかり日が暮れている。
「まずい、門限だ!」
ダンが青ざめて叫んだ。
慌てて寮に戻ってみると、正門はすでに固く閉ざされている。
「どうしよう。初日から門限破りなんて、教官に目をつけられるぞ……」
ダンが頭を抱えてしゃがみ込む。
僕は首を傾げた。
「村では、日が沈んだら屋根の上を走って帰ってました。ここからなら、あの塀を跳び越えればすぐですね」
僕が寮の高い石塀を見上げて、足に力を込めた時だった。
「馬鹿野郎、やめろ!そんなことをしたら絶対に見つかって大騒ぎになるだろ!」
ダンが必死の形相で僕の腕にすがりついてきた。
そのまま引きずられるようにして、僕たちは寮の裏手へと回る。
なんとか見張りの目を盗み、二人でこっそりと裏口から建物の中へ戻った。
誰にも見つからずに済んで、僕はほっと胸を撫で下ろす。
夜。
ダンが寝静まった後、僕はベッドの中で不思議な夢を見た。
赤い炎が、視界を埋め尽くしている。
夜空を覆うほどの、真っ黒で巨大な影。
世界が終わるような、途方もなく大きな竜の姿だ。
頬を撫でる熱気と、何かが焦げた匂い。
誰かの悲鳴が聞こえる。
『ティオ』
誰かが、僕を呼ぶ声がした。
ハッと息を呑んで目を覚ます。
窓の外からは、鳥のさえずりと朝の光が差し込んでいた。
(なんだったかな。嫌な夢を見た気がするけれど)
起き上がって顔を洗うと、夢の内容はもうすっかり頭から抜け落ちていた。
◇◇◇
――シルト村
あの子が村を出て、もうすぐ一ヶ月になる。
「百分の一、ちゃんと守れてるかしら」
あたしが台所でため息をつくと、裏口で薪を担いだゴルド爺が鼻を鳴らした。
「守っとるじゃろ。あの子は素直じゃからな」
「……守ってるから、まずいんだよなあ」
テーブルの席で、ブロムが髭についた麦酒の泡をぬぐいながら言う。
「おれたちの百分の一だぞ。王都の騎士団長あたりと、だいたい同じだ」
「同じかな。もう少し上じゃない?」
リリが台所の作業台に腰かけて、楽しそうに足をぶらぶらさせる。
あたしは額に手を当てる。
元・剣聖のじいさんが薪割りと称して剣を教え、元・大賢者が読み書きと称して古代語を叩き込み、元・大聖女のあたしが、手当てと称して治癒魔法を教えた。
普通の子に育てるつもりだった。本当に。
王都で目立たず、普通の友達を作って、のんびりと過ごしてほしかったのだ。
「……手紙、来ないね」
シェラがぽつりと言うと、部屋の中の全員が黙り込んだ。
戸口の外で、牛の世話を終えたハンスが、王都の方角をじっと見つめていた。
◇◇◇
「ふあぁ……よく寝た」
背後のベッドで、ダンが大きなあくびをしながら起き上がってきた。
「おはようございます、ダン。朝ごはんに行きましょう」
「おう。腹減ったな」
僕が先に立って、部屋の木の扉を開けた時のことだ。
扉の外側で、銀色の刃がきらりと光った。
「わっ」
見事な細工が施された短剣が、扉の外側に深々と突き立てられている。
刃には、分厚い羊皮紙が乱暴に突き刺さっている。
背後でダンが短い悲鳴を上げた。
「なんだそれ!嫌がらせか!?それとも暗殺者!?」
「手紙が刺さってますね」
僕は短剣を引き抜き、羊皮紙を広げた。
そこには、流れるような美しい文字でこう書かれていた。
『平民の貴様が、偶然にも入学を許されたと聞いた。あの日の屈辱を晴らすため、決着をつける。三日後の放課後、第三訓練場へ来い。ヴィクトル・ベルンハイム』
読み終えたダンが、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「決闘状だ!あのヴィクトルからだぞ!」
「決闘、ですか」
僕は首を傾げた。
「決闘って、村の腕相撲みたいなものでしょうか。ヴィクトルさん、わざわざ手紙をくれるなんて、意外と親しみやすい人ですね」
ダンが、僕の肩を激しく揺さぶる。
「お前、本当に何もわかってないな!」




