第10話 決闘前夜
僕が腰の木剣を布で拭いていると、ダンがベッドから飛び起きて僕の肩を激しく揺さぶった。
「いいか、ティオ。学院の決闘ってのは、ただの喧嘩や村の腕相撲なんかじゃないんだぞ」
ダンは周囲を気にしながら、声をひそめる。
「貴族が名誉をかけてやる、公式の勝負だ。負けたほうは、最悪の場合は退学、よくてもこれから三年間ずっと学院中の笑い者になる。ヴィクトルのやつ、入学試験の時の逆恨みで、お前を徹底的に潰すつもりなんだよ」
「そうなんですか。笑い者になるのは、かわいそうですね」
僕は少しだけ心配になった。
僕は村でいちばん弱かったから、負けることには慣れている。
ブロムおじさんとの腕相撲では一瞬ももたないし、リリさんとのかくれんぼでは、夕方まで探しても見つけられない。
ゴルドじいちゃんとの薪割り競争なんて、僕が一本割る間に山ができあがっていた。
だから、勝ち負けはあまり気にしていない。
心配なのは、別のことだ。
試験ではゴーレムを壊してしまったし、ギルドではザックさんを転ばせてしまった。外の人は脆いと、母さんも言っていた。
もし決闘でヴィクトルさんに怪我をさせたら、侯爵家の人に、みんなの前で大恥をかかせてしまう。
「じゃあ、ヴィクトルさんに怪我も恥もかかせないように、気をつけないといけませんね」
僕が真剣に言うと、ダンは目を丸くし、それから大きなため息をついてベッドに突っ伏した。
「……お前、自分の心配は、これっぽっちもしてないわけね」
「えっ?だって、うんと力を抜けばいいだけですし」
試験の時は、腰を入れずに腕だけで振っても、ゴーレムが割れてしまった。
今度は、それよりもっと弱く。母さんとの約束の『百分の一』よりも、さらに力を抜く練習をしておかないと。
「お前と話してると、俺の常識が狂いそうになる……」
ダンが毛布を頭からかぶってしまった。
◇◇◇
――ヴィクトル
「手に入ったか」
日の当たらない薄暗い空き教室で、私は取り巻きの生徒を睨みつけた。
「は、はい。ヴィクトル様。仰られた通り、王都の裏通りにある闇市で……」
取り巻きが震える手で差し出したのは、黒ずんだ古びた木箱だった。
蓋を開けると、中には黒い金属で作られた不気味な腕輪が入っている。
表面には、禍々しい紋様がびっしりと刻み込まれていた。
「呪具『封魔の枷』です。金貨百枚もしましたが、身につけた者の魔力を乱し、体力を奪い続ける禁忌の品です。いくらあの平民が実技でまぐれ当たりを出したとはいえ、これをつけられれば剣を振るうことすら……」
「ご苦労」
私は木箱を受け取り、歪んだ笑みを浮かべた。
たかが平民相手に金貨百枚の出費は痛いが、安いものだ。
鑑定水晶を壊し、ゴーレムを斬ったあの平民。
なぜあんな異常なことが起きたのかはわからない。
だが、次期侯爵家当主であるこの私が、試験の場で泥を塗られた。その事実は、決して消えはしない。
「平民は平民らしく、地べたを這うのがお似合いだ。決闘の場で、貴様の全てを奪ってやろう」
黒い腕輪が、私の手の中で冷たく光る。
あの生意気な平民が、大観衆の前で無様に這いつくばり、涙を流して命乞いをする姿。
それを想像するだけで、腹の底から笑いが込み上げてきた。
◇◇◇
決闘の前の日。
僕がひとりで図書館の前の廊下を歩いていると、不意に前から声をかけられた。
古い羊皮紙の匂いが漂う静かな廊下に、澄んだ声が響く。
「シルト村のティオ」
顔を上げると、真っ白な制服を着たエルナ様が立っていた。
窓から差し込む光を受けて、美しい金髪が輝いている。
腰には見事な細工の剣を帯び、サファイアのような青い瞳で僕をまっすぐに見据えていた。
すれ違う生徒たちが、遠巻きにこちらを窺っている。
「エルナ様。こんにちは」
僕が深くお辞儀をすると、エルナ様は厳しい表情のまま距離を詰めてきた。
「聞いたの。ヴィクトルの決闘を受けたそうね」
「はい。明日、ヴィクトルさんと手合わせをします」
「ただの手合わせじゃない。断りなさい」
きっぱりとした口調だった。
エルナ様は周囲に聞こえないように、少しだけ声を落とす。
「彼はプライドが高いの。自分が一番でなければ気が済まない。あの日の試験であなたに注目が集まったことを、深く恨んでいるはずよ」
「恨む、ですか」
「ええ。勝つためなら、彼は手段を選ばない。まともな勝負になると思わないことね」
真剣な目で、僕を心配してくれているのが伝わってくる。
王女様なのに、僕みたいなただの平民を気にかけてくれるなんて、王都の人は本当に優しい。
僕は嬉しくなって、にっこりと笑い返した。
「ありがとうございます、エルナ様。僕のことを心配してくださったんですね」
「なっ……」
エルナ様が、ふいっと顔を逸らした。
耳の端が、少しだけ赤くなっている気がする。
「し、心配なんてしていないわ!私はただ、首席として学院の風紀を気にしただけで……!」
「でも、大丈夫です。ヴィクトルさんに怪我をさせないように、うんと手加減するつもりなので」
僕が正直に答えると、エルナ様は信じられないものを見るような顔になった。
「……あなた、本当に何なの?」
「シルト村のティオです」
「もういいわ。勝手にしなさい」
エルナ様は深くため息をつき、踵を返して歩き去っていった。
せっかく忠告してくれたのに、怒らせてしまったのだろうか。
王都の人の心は、なかなか難しい。
そして、決闘の当日。
放課後の第三訓練場は、異様な熱気に包まれていた。
普段は高位の魔法実習に使われるというすり鉢状の闘技場に、噂を聞きつけた数百人の生徒たちが詰めかけている。
「すげえ人の数だぞ……」
僕の隣で、ダンが青い顔をしてつぶやいた。
みんな、僕とヴィクトルさんの決闘を見に来たらしい。
「平民相手に決闘なんて、ヴィクトル様も大人気ないな」
「でも、実技試験でのまぐれ当たりを暴いてやるって息巻いてたぜ」
「スキルなしの平民なんて、炎魔法で一瞬で黒焦げだろうに」
観衆の中から、そんなひそひそ声が聞こえてくる。
訓練場の中央には、実技教官のピュータン先生が腕を組んで立っていた。
大怪我をしないように、立会人を務めてくれるそうだ。
「よく聞け、お前ら」
ピュータン先生が低くよく響く声で言った。
周囲のざわめきが、一瞬にして静まる。
「ルールは簡単だ。どちらかが降参するか、戦闘不能になるまで。俺が危険だと判断したら、その時点で止める。相手を殺すような真似をしたやつは即刻退学だ。わかったな」
「承知しています、教官。手加減はしてやるつもりですから」
ヴィクトルさんが余裕の笑みで答える。
「はい、わかりました。僕も気をつけて振ります」
僕が頷くと、ピュータン先生はなぜかひどく疲れたような顔をして、額を押さえた。
「来たか、平民」
ヴィクトルさんが優雅な足取りで、僕の前に歩み寄ってきた。
取り巻きたちを背後に従え、自信に満ちた笑みを浮かべている。
その腰には、赤い宝石が埋め込まれた立派な剣が下がっていた。
「ヴィクトルさん。今日はよろしくお願いします」
僕が丁寧に頭を下げると、ヴィクトルさんは目を細めた。
「ふん。逃げ出さなかったことだけは褒めてやろう。平民」
そう言って、ヴィクトルさんはすっと右手を差し出してきた。
「貴族の務めとして、試合前の握手くらいはしてやろう。正々堂々と戦おうではないか」
「はい。ありがとうございます」
僕は疑うこともなく、その右手を取りにいった。
ヴィクトルさんが僕の手を握る。
その瞬間だった。
彼の手の中に隠されていた冷たい金属の輪が、カチャリという音を立てて、僕の手首にはめ込まれたのだ。




