第44話 王と英雄
――国王レオポルト三世
近衛に命じて張らせた幕舎は、学院の正門の脇にあった。
本来なら王が野外の閲兵で使う、厚い帆布の幕舎だ。中には折りたたみの卓と椅子が八脚。卓の上には近衛の誰かが気を利かせた茶器が並んでいるが、湯気はとうに消えていた。
七人は椅子にかけようとしない。
鎧の男は帆布の柱に背中を預け、小柄な女は卓の端に腰かけて足を揺らしている。弓を背負ったエルフは入口の脇に立ち、外の気配に耳を向けたまま動かない。十五年前と何も変わらない。この者たちは王の前でも決して座らなかった。
座っているのは私だけだ。
「あの子は」
私が口を開くより先に白い法衣の女が言う。
「友達と朝ごはんを食べに行かせたよ。中庭で、焼け残った鍋を見つけたって騒いでたからね」
マーサ殿。大聖女。十五年前の出陣の朝、私の前で一度だけ頭を下げ、それきり二度と頭を下げなかった女だ。
「あの子に聞かせたくない話なんだろ。だったら、あたしらだけで聞く」
私はうなずき、卓の上で組んだ指を一度ほどいて、また組み直した。何から話すべきか、十五年考えてきたはずだった。それなのに最初の一言がどうしても出てこない。
「……十五年前の裏庭を、覚えておいでか」
口から出てきたのはまるで関係のない話だった。白い髭の老人が片方の眉を上げる。
「出陣の前の晩だ。厨房に頼まれて、ゴルド殿が裏庭で薪を割っていた。台座の石ごと真っ二つにして、料理長に叱られていた」
「……よう覚えとるのう」
ゴルド殿が少しばつが悪そうに顎ひげをしごく。
「あの夜、私は思ったのだ。この国でいちばん強い男が、料理長に頭を掻いて謝っている。この者たちは、剣や魔法より先に、人として真っ当なのだと」
私は卓の木目に目を落とした。
「その真っ当な者たちを、我が父は兵器にしようとした」
幕舎の中の空気がわずかに冷える。誰も口を挟まない。だから私は、続けるしかなかった。
「竜を封じて凱旋した諸君に、父は褒美の代わりに命令を下そうとしていた。北の隣国へ攻め入る。その先陣に、竜を封じた力を使えと。……王太子だった私は、その計画書を父の書斎で見た」
あの夜の書斎の、蝋燭の匂いまで覚えている。羊皮紙の上に、七人の名前と、攻め落とす城の名前が並んでいた。
「諸君がそれを拒むことも、父は見越していた。拒めば、諸君の郷里に兵を送る手はずまで書かれていた」
「知っとったよ」
ゴルド殿の声は静かだった。
「リリが、その書斎に忍びこんで写しを取ってきた。だからわしらは、封印の戦いで全員死んだことにした。死人に命令は下せんからのう」
卓の端でリリ殿が小さく手を振った。悪びれた様子は少しもない。
「……やはり、そうであったか」
私は目を閉じる。
「戦死の報せを聞いた時、私はどこかで疑っていた。遺体が一つも戻らなかったからだ。だが私は何も言わなかった。調べもしなかった」
声が自分でも思っていたより低い。
「父を止めることも、諸君を探すこともせず、黙っていた。疑いを口にすれば、父が今度こそ本気で諸君を探すと思った。……それは言い訳だ。本当は、父が怖かった」
十五年、誰にも言わなかったことだった。
「三年前に父が死に、私が王になった。それでも私は諸君を探さなかった。生きているなら、静かに暮らさせておくのがせめてもの償いだと、自分に言い聞かせて」
私は椅子を引いて立ち上がり、卓の脇へ出て膝をついた。今朝、中庭でそうしたように。
「すまなかった」
頭を下げる。帆布の床の砂が膝に食いこんだ。
「我が父の罪であり、それを止められなかった私の罪だ。諸君から十五年を奪った。名も、誉れも、帰る場所も」
しばらく、幕舎の中で動く者はなかった。
最初に聞こえたのはため息だ。
「だから、謝るのはあんたじゃないだろって」
顔を上げると、マーサ殿は腕を組んで、心底あきれたような顔をしていた。
「十五年前のあんたは、ひょろっとした王子様だったじゃないか。あの親父さんに逆らえる年でも立場でもなかった。それくらい、あたしらだってわかってたよ」
「だが」
「それにね」
マーサ殿が私の言葉にかぶせるように続ける。
「奪われたなんて、あたしらは思ってない。十五年畑を耕して、牛を飼って、子どもを一人育てた。それのどこが、奪われた暮らしなんだい」
返す言葉が見つからない。
マーサ殿の後ろでハンス殿が帆布の柱から背中を離した。勇者と呼ばれた男は、十五年前と同じ無口な顔で、私を見下ろしていた。
「……立て」
その一言で膝が勝手に伸びていた。
椅子に戻り、私はようやく本題を口にする。
「せめて償わせてほしい。諸君の戦死の記録を正し、名誉を戻す。望むなら、爵位と領地も用意する。王都に屋敷を構えてもらってもいい」
七人が顔を見合わせる。真っ先に首を横に振ったのは、鎧の男、ブロム殿だった。
「いらねえよ。芋がまだ掘りかけなんだ」
「……芋」
「秋の芋は霜が降りる前に掘らねえと甘くならねえ。爵位じゃ芋は甘くならねえだろ」
小柄なリリ殿が卓の端で笑い転げた。オズ殿は咳払いを一つして、私に向き直る。
「陛下。お気持ちはありがたい。だが私たちは、もう旅団ではない。シルト村の薬師と鍛冶屋と牛飼いだ。それでいいと、十五年かけて決めたのだ」
「では」
すがるような声になった。
「何か一つ。何か一つでいい。私にできることはないか」
マーサ殿が少しだけ考える顔をする。それから、幕舎の入口のほうを見た。帆布の向こうの中庭から、子どもたちの声がかすかに聞こえてくる。鍋がどうとか、塩が足りないとか。
「じゃあ、一つだけ」
マーサ殿が私に向き直る。
「あの子を、普通の学院生でいさせてやっておくれ」
その言葉の意味を私はすぐには呑みこめなかった。
「竜を倒した英雄だの、伝説の旅団の子だの。そういうのをあの子の肩に載せないでほしいんだよ。あの子が王都に来たのは、同い年の友達を作るためなんだ。英雄になるためじゃない」
マーサ殿の声は最後だけ少し揺れている。
「それが、あたしらの頼みだよ」
私は深く息を吸う。
王としてできることとできないことがある。昨日の空を王都じゅうの民が見た。噂を止めることはできない。
それでも、王にしかできないこともある。
「約束しよう」
私は七人を見渡した。
「あの少年を王家は英雄として祭り上げない。叙勲も、肖像画も、凱旋の行列もなしだ。学院には、ただ一人の学院生として扱うよう申し伝える」
ゴルド殿がふっと笑う。
「十五年前の王子様は、ずいぶん話のわかる王様になったもんじゃのう」
「……もう一つだけ、頼みがある」
私は入口の帆布の向こうに目をやった。
「今の話を娘にも聞かせたい。あの子の祖父がしたことだ。あの子は、知っておかねばならない」
◇◇◇
焼け残った鍋は思ったより大きい。
学院祭で『村の台所』に使った、あの大鍋だ。屋台の残骸の下からダンが掘り出してきた。底が少しへこんでいるけれど、穴は開いていない。
崩れた正門の前で石を組み、火を起こす。干し肉はダンの木箱にまだ残っていた。ヴィクトルさんの炎の魔法で、火はすぐに強くなる。
「待て、火力が強すぎる!鍋の底が焦げるだろうが!」
「私の炎に文句をつけるとは、いい度胸だな平民」
「名前で呼べって言っただろ」
ヴィクトルさんは少しだけ言葉に詰まって、それから、杖の先の炎をひと回り小さくした。
「……ダン。これでいいか」
「おう。上出来だ」
二人のやり取りを聞きながら、僕は鍋をかき混ぜる。
避難していた人たちが、一人、また一人と器を持って並び始める。器が足りない人には、ダンが屋台の板を割って作った木の皿を渡していた。
列のいちばん後ろにはピュータン先生が並んでいる。
「先生、先に食べてください」
「並ぶのが筋だ。……それとな、ティオ」
先生が肩に担いだ鉄の棒をちらりと見る。
「あの鎧のおっさんに、剣を打ってやるって言われた。代金はいらねえ、あいつの面倒を見てくれた礼だとよ。……お前の村、どうなってんだ」
「ブロムおじさんの剣は、よく切れますよ。薪割りの斧も、全部おじさんが打ってくれたんです」
「……その斧も、たぶん国宝級なんだろうな」
先生は遠い目をした。
列が半分くらい進んだ頃、近衛騎士の一人がダンを呼びに来る。しばらくして戻ってきたダンの顔は、真っ白だった。
「どうしたの、ダン」
「……王室御用達」
ダンは木の皿を持ったまま立ちつくしている。
「コルト商会を、王室御用達にするって。避難路を作ったのと、霊薬を運んだ褒美だってよ」
「よかったじゃないですか」
「よくねえよ!兄貴たちに何て説明すりゃいいんだ。末っ子の俺が、王家の御用達を取ってきたなんて」
ダンは頭を抱えた。でも、口の端がどうしても上がってしまうのは止められないらしい。
ヴィクトルさんが鍋の火を見つめたまま口を開く。
「私は、父上に手紙を書く」
「手紙ですか」
「侯爵家の跡取りとして、ではない。昨日正門で子どもの前に立った時、私は家の名のことなど何も考えていなかった。考えていたのは、後ろにいる子どもと、ティオ殿のことだけだ」
ヴィクトルさんが杖を握りなおす。
「家の名を守るために強くなるのではなく、後ろにいる誰かを守るために強くなりたい。……そう書く。父上は怒るだろうが」
ダンがヴィクトルさんの肩を拳で軽く小突く。
「怒られたら、うちの商会で雇ってやるよ」
「誰が平民の店で働くか」
「ダン、だろ」
「……ダンの店で働くか」
僕は笑いながら、鍋をかき混ぜた。
◇◇◇
エルナさんが戻ってきたのは、鍋が空になった頃だった。陛下に呼ばれて幕舎へ入っていってから、ずいぶん時間がたっている。出てきたエルナさんはまっすぐ僕のところへ歩いてきた。
「ティオくん。少し、いい?」
ダンとヴィクトルさんが、何も言わずに鍋の片づけを始める。僕たちは崩れた時計台の裏手へ回った。瓦礫が日陰を作っていて、中庭の声が少し遠くなる。
エルナさんはしばらく黙ってから、僕の顔を見ずに話し始めた。
「お祖父様のこと、聞いたの」
先王陛下。エルナさんのお祖父さんで、三年前に亡くなったと、どこかで聞いたことがある。
エルナさんは、幕舎で聞いた話を、ゆっくりと話してくれた。竜を封じたみんなをお祖父様が戦争に使おうとしたこと。みんながそれを拒んで、死んだことにして山の奥に隠れたこと。陛下がそれを知っていて、十五年間何も言えなかったこと。
話し終えるとエルナさんは深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
髪が肩から前へ落ちる。結ばれていない金色の髪が、日陰の中で揺れる。
「私の家が、ティオくんの家族から十五年を奪ったの。名前も、帰る場所も。……私には、謝ることしかできない」
僕は少し考えた。エルナさんが謝っていることは、わかる。エルナさんのお祖父さんが、ひどいことをしようとしたことも。
でも、どうしても一つだけ引っかかることがあった。
「エルナさん。顔を上げてください」
エルナさんがおそるおそる顔を上げる。
「エルナさんのお祖父さんがしたことで、エルナさんが謝ることはないと思います。それに」
僕は言葉を探す。
「もしみんなが王都にいたら、僕はたぶんシルト村で育っていません。毎朝ゴルドじいちゃんと薪を割ることも、父さんと牛を追うことも、リリさんとかくれんぼすることもなかった」
山の中の小さな村。七人しかいない、僕の村。
「僕は、あの村で育ってよかったです。だから奪われたなんて思えないんです。……母さんたちも、たぶん同じことを言うと思います」
エルナさんは目を丸くして僕を見ていた。それから、ふっと力が抜けたように笑う。
「……そういうところよ」
言ってからエルナさんは自分で小さく吹き出す。
「前にも、同じことを言ったわね」
「丘の上の公園で、です」
「覚えてたの」
「はい」
エルナさんはもう一度、今度はちゃんと声を出して笑った。それから、握っていた右手を開く。手のひらの上に青い絹の髪紐が乗っている。昨日の朝からずっと、指に巻いたり握ったりしていたものだ。
エルナさんは両手を頭の後ろに回し、金色の髪をまとめて髪紐をくるりと巻きつけた。指先は一度も迷わない。きゅっと結び目を締めて、手を下ろす。
「結べた」
「手、もう震えてないんですね」
「ええ。もう平気」
青い髪紐が日陰の中で小さく揺れた。
「ティオ」
時計台の向こうから母さんの声がした。
振り返ると母さんが瓦礫の陰から顔を出している。いつの間にか白い法衣を脱いで、村で着ていた前掛け姿に戻っていた。
エルナさんが慌てて僕から一歩離れる。母さんはそれを見て何か言いたそうな顔をしたけれど、何も言わずに僕の前まで歩いてきた。
「みんなで話してね。あたしらは明日、村に帰ることにしたよ。芋がまだ掘りかけだって、ブロムがうるさいから」
「そうなんですね」
「それでね」
母さんが崩れた学院を見回す。半分になった時計台。大図書館のあった平らな地面。焦げた中庭とそこで器を片づけている人たち。
それから、僕に向き直った。
「学院がこの有様じゃ、しばらく授業どころじゃないだろ。あんたが望むなら、一緒に村に帰ってもいい。誰も文句は言わないよ」
まっすぐに僕を見る目は、いつもの台所で、今夜は何が食べたいかと聞く時と同じだった。
「で、あんたはどうするの?」




