最終話 普通の学院生
「僕、学院に残ります」
考えるより先に口が答えていた。
母さんは眉ひとつ動かさない。前掛けの紐を結び直しながら、続きを待っている。
「学院は半分崩れちゃいましたけど、授業はまたどこかで始まると思います。それに僕、まだ普通の友達と、普通に卒業していないので」
言ってから、少し恥ずかしくなった。隣でエルナさんが髪紐の結び目にそっと指で触れている。
母さんはふんと鼻を鳴らした。
「そう言うと思ったよ」
「わかってたんですか」
「何年あんたの母親やってると思ってるんだい」
母さんはそれだけ言うと、くるりと背を向けて中庭のほうへ歩いていく。数歩行ったところで振り返らずに手を上げた。
「芋は送ってやるからね。寮の部屋が狭くなるくらい」
◇◇◇
七人が村へ帰ったのは、翌朝のことだった。見送りに行くつもりで、僕は早起きをした。寮の前で待っていたダンとヴィクトルさんとエルナさんと一緒に、正門へ向かう。
正門の前には、もう人だかりができていた。暁の旅団が生きていたという噂は、一晩で王都じゅうに広まったらしい。大通りの両側に、伝説の英雄をひと目見ようという人たちがぎっしりと並んでいる。屋根の上にまで人が登っていた。
その真ん中を七人が歩いてくるはずだった。
「……いないな」
ダンが背伸びをして大通りを見渡す。
人だかりもざわつき始めた。もう出発したのか、まだ来ていないのか。誰かが「英雄様はどこだ」と叫び、何人かが学院のほうを振り返る。
僕はなんとなくわかった気がした。
「たぶん、もう行っちゃいました」
「は?この人ごみの中をか?」
「リリさんがいるので」
ダンは口を開けたまま、何か言おうとしてやめた。
門柱の陰に、布にくるまれた細長い包みが一つ立てかけてあった。それから、折りたたんだ紙が一枚、門柱の石の隙間に差しこまれている。
包みにはブロムおじさんのがさつな字で札がついていた。『教官どのへ。膝を大事にな』
ヴィクトルさんが包みを持ち上げようとして、その重さによろめいた。
「こ、これは……」
「ピュータン先生の剣ですね」
布の隙間から鈍い銀色の刃がのぞいている。飾りは何もない。ただ、朝の光を受けた刃の縁が、見ているだけで指が切れそうなほど細く澄んでいた。
紙のほうには、母さんの丸い字で僕の名前が書いてある。
『ティオへ
見送りなんて柄じゃないから、先に帰るよ。人が多いのは苦手でね。
ひとつだけ言っておく。
百分の一の約束は、今日でおしまい。これからは、どれだけ使うかを自分で決めな。あんたはもう、それができる子だよ。
ちゃんとご飯を食べること。友達を大事にすること。芋はちゃんと送るから、寮のみんなで分けな。
それから、腕の傷は勲章じゃないからね。見せびらかすんじゃないよ。
母より
追伸 エルナちゃんによろしく。今度は村に連れておいで』
最後の一行を読んだところで、僕は手紙を半分に折った。
「何て書いてあったの?」
エルナさんが横からのぞきこもうとする。
「芋を送ってくれるそうです」
「それだけ?」
「それだけです」
ダンがなぜかにやにやしながら僕を見ていた。
◇◇◇
学院の授業が再開したのは、それから半月ほどたってからだった。
崩れた校舎はまだ足場に囲まれている。授業は無事だった旧校舎と、中庭に張られた大きな天幕で行われることになった。天幕の中は風が吹きこんで寒いけれど、文句を言う人はいない。
国王陛下の約束は、ちゃんと守られている。叙勲の式もなければ、肖像画を描く画家も来ない。教官たちは、僕をほかの学院生と同じように名前で呼び、同じように課題を出した。
ただ、噂だけは止まらなかった。
廊下ですれ違う一年生が、僕を見るなり壁に背中をつけて道をあける。食堂では、僕の座る席の周りだけがなぜかいつも空いている。夏の前と同じだった。
違うのは、空いた席に、当たり前のように三人が座ることだった。
「気にすんなって。そのうち飽きるさ」
ダンがパンをちぎりながら言った。
「王都の連中ってのは、新しい噂が出たらすぐそっちに飛びつく。来月には、どっかの貴族の駆け落ちの話で持ちきりだよ」
「その貴族が私の家でないことを祈る」
ヴィクトルさんが真顔でスープをすすった。
「父上から返事が来た」
「お、どうだった」
「怒っていた。便箋三枚にわたって怒っていた」
ヴィクトルさんは少しだけ口の端を上げた。
「四枚目に、一行だけ書いてあった。『好きにしろ。ただし、やるなら侯爵家の名に恥じぬようにやれ』と」
「……いい親父さんじゃねえか」
「平民に言われるまでもない」
「ダン、だろ」
「……ダンに言われるまでもない」
エルナさんが小さく吹き出した。
午後はピュータン先生の実技の授業だった。
天幕の外の、まだ焦げ跡の残る中庭に整列する。先生の腰にはブロムおじさんの剣が下がっていた。
「いいか、今日は打ちこみの基本をやる。木剣を使え。……俺のこれは抜かねえからな」
先生は腰の剣の柄をぽんと叩いた。
「試しに薪を一本割ってみたら、薪台と、その下の石畳と、その下の地面まで割れた。あれは授業で抜いていい代物じゃねえ」
列の後ろのほうで誰かがごくりと喉を鳴らした。
「ティオ。お前は最後だ」
「はい」
「それと、今日は何分の一で振るつもりだ」
先生が僕だけに聞こえる声で言った。
僕は少し考えた。
母さんの手紙が上着の内側に入っている。百分の一の約束はもうおしまい。これからは自分で決める。
目の前の打ちこみ台は学院の備品だ。古くてあちこちにひびが入っている。
「千分の一くらいにしておきます。台が壊れると困るので」
先生は長いため息をついた。
「……それで頼む」
結局、千分の一でも打ちこみ台はまっぷたつになった。
先生は何も言わずに、新しい打ちこみ台の請求書を学院長室へ出しに行った。
◇◇◇
時計台の修理が終わったのは、冬の初めのことだった。
崩れた上半分は石を積み直して元の形に戻され、止まっていた針も動き出す。その日の夕方、中庭に集まった学院生たちの前で、時計台の鐘があの日以来はじめて鳴った。
鐘の音が、まだ足場の残る校舎の壁に跳ね返って、王都の空へ抜けていく。
あちこちで拍手が起こった。
その夜、僕は時計台の裏手の、あの日陰の場所にいた。
夜になるともう息が白い。見上げると、直ったばかりの文字盤に、月の光が薄く当たっていた。
「ティオくん」
エルナさんが包みを一つ抱えてやってきた。
学院の制服の上に厚手の外套を羽織っている。髪にはあの青い髪紐が結ばれていた。
「これ。返すわ」
差し出された包みを開けると、えんじ色の上着が出てきた。
僕の上着だ。あの日、左の袖が肘のところで焼けて終わっていた上着。
その袖が元の長さに戻っていた。
焼けた縁から先に同じえんじ色の布が継ぎ足してある。ただ、縫い目はひどく曲がっていた。ところどころ糸が二重になり、一か所だけ、明らかに縫い直した跡がある。
「侍女に頼めばよかったんだけど」
エルナさんはそっぽを向いたまま言った。
「自分でやりたかったの。……王家の娘は、針なんて持たないのよ。三回、指を刺したわ」
僕は曲がった縫い目を指でなぞった。
それから上着に袖を通した。左腕がするりと袖の中を抜けていく。継ぎ足した布は少しだけ色が新しくて、肘のところで、そこだけ明るいえんじ色になっていた。
「ぴったりです」
「縫い目、曲がってるでしょ」
「曲がってます」
「……正直すぎ」
エルナさんが外套の襟に顔をうずめた。
僕は、継ぎ足された袖の上から左の肘に触れた。
「大事にします」
エルナさんは襟に顔をうずめたまま小さくうなずいた。
しばらく、二人で文字盤を見上げていた。
針がかちりと一つ進む。
僕はずっと考えていたことを口に出した。
「エルナさん。僕、母さんに言われて王都に来たんです。同い年の友達を作りなさいって」
「知ってる。前に聞いた」
「友達は、できました。ダンも、ヴィクトルさんも。たぶんピュータン先生も、少しだけ」
エルナさんがくすりと笑う。
「でも、エルナさんは」
僕は言葉を探した。
村ではこういう時の言葉を誰も教えてくれなかった。薪の割り方も、牛の追い方も、怪我の手当ても教わったのに。
「エルナさんは、友達とは少し違う気がするんです」
エルナさんの笑い声が止まった。
外套の襟からゆっくりと顔が上がる。月の光の中で青い目が僕をまっすぐに見ていた。
「……どう、違うの」
「それが、よくわからないんです」
僕は正直に言った。
「エルナさんが攫われた時、走れば追いつけるのに、走れなかった。あの時、胸のどこかが焼けるみたいに痛かったです。竜の息吹より、ずっと痛かった。腕を失くした時より、もっと」
エルナさんが息を呑んだ。
「だから、どう違うのか、ちゃんと考えたいんです。答えが出るまで、エルナさんの隣で考えていてもいいですか」
しばらく、何も聞こえなかった。
時計台の針の音だけが、かちり、かちりと鳴っている。
やがてエルナさんは外套の中から手を出した。そして僕の左手を取った。
「……ずるい言い方」
その声は少し震えていた。
「そんなの、だめって言えるわけないじゃない」
エルナさんの指が僕の左の袖を少しだけまくった。肘の内側の、白い輪の傷あとが月の光に浮かぶ。エルナさんはその線を指先でそっとなぞった。
「答えなら、私はもう出てるの。……でも、教えてあげない。ティオくんが自分で見つけるまで」
「それは、ずるくないですか」
「おあいこよ」
エルナさんは僕の手を握ったまま笑った。
月の光の中で青い髪紐の端が揺れていた。
◇◇◇
翌朝、時計台の鐘で目を覚ました。
窓の外はうっすらと白くなっていた。夜のうちに今年最初の雪が降ったらしい。
隣の寝台でダンが毛布を頭までかぶったまま唸っている。
「……あと五分」
「一限目、ピュータン先生ですよ」
「……起きる」
ダンは毛布をはねのけて飛び起きた。
身支度をして寮の扉を開ける。廊下の窓から白くなった中庭が見えた。足場に囲まれた校舎の屋根にも、直ったばかりの時計台の上にも、雪がうっすらと積もっている。
寮の前でヴィクトルさんが待っていた。
「おはようございます、ティオ殿!見てください、この雪を。まるでティオ殿の偉業を王都の空が祝福しているかのような」
「ただの初雪だろ」
「平民は黙っていろ」
「ダン、だろ」
「……ダンは黙っていろ」
二人の言い合いを聞きながら、雪を踏んで中庭を歩く。足の裏で新しい雪がきゅっと鳴った。
旧校舎の前でエルナさんが手を振っていた。外套の肩に雪のかけらがいくつか乗っている。髪には青い髪紐。
「おはよう。遅いわよ」
「ダンが起きなかったので」
「おい、言うなよ」
四人で並んで天幕の教室へ向かう。
すれ違った一年生がまた壁に背中をつけて道をあけた。ダンがため息をつき、ヴィクトルさんが胸を張り、エルナさんが小さく笑う。
僕は左の肘にそっと触れた。
えんじ色の袖の、そこだけ少し明るい布。その下の、細い輪の線。
母さんの手紙は今日も上着の内側に入っている。
百分の一の約束はもうない。これからどれだけ使うかは、自分で決める。
それでもたぶん、僕はこれからも、百分の一くらいで暮らしていくのだと思う。
打ちこみ台を壊すとピュータン先生がため息をつくから。
食堂で隣に座る三人と普通に笑っていたいから。
時計台の鐘がもう一度鳴った。
一限目が始まる。
村でいちばん弱かった僕は、今日から村でいちばん強いらしい。
それでも王都では、百分の一の力で、普通の学院生をやっている。




