第43話 暁の旅団
誰も答えなかった。
国王陛下は焦げた石畳に膝をついたまま動かない。近衛騎士たちも、正門の騎士たちも、中庭で目を覚ました人たちも、息をひそめてこちらを見ていた。
やがてゴルドじいちゃんが、陛下の前に進み出た。
腰をかがめて陛下の腕を取る。剣を握る時と同じ、ためらいのない手つきだった。
「陛下。積もる話は、あとにしなされ」
陛下がようやく顔を上げる。その目は赤かった。
「わしらは先にこの子に話さねばならんことがある。十五年、ずっと話さずにきたことじゃ」
陛下はゴルドじいちゃんの顔を見て、それから僕を見た。長いあいだ、何かを言おうとして言えずにいるような顔だった。
「……わかった」
陛下はゆっくりと立ち上がり、近衛騎士たちに手を上げた。
「人払いを。……いや、そこの四人はよい。娘と、娘の学友たちだ。それから、ピュータン教官も」
近衛騎士たちが、中庭の人たちを正門のほうへ静かに導いていく。陛下自身も少し離れた時計台の瓦礫のそばまで下がった。
中庭の隅に、崩れた石壁が低く残っている。七人はその前に思い思いに腰を下ろした。ブロムおじさんは鎧ごと地面にあぐらをかき、リリさんは石壁の上にひょいと飛び乗る。シェラ姉は立ったまま壁に背中を預け、僕はみんなの前に座る。
村の広場で、夕飯のあとにみんなが集まる時と同じ並び方だった。少し離れた瓦礫の上に、エルナさんとダンとヴィクトルさんが並んで座っている。その後ろでは、ピュータン先生が腕を組んで立っている。
朝の光が、七人の古い装いを照らし出していた。
みんなが父さんを見る。父さんは少しだけ眉を寄せた。
「……ゴルド」
「わしに振るか」
「……話すのは、苦手だ」
「知っとるわい。十五年前から知っとる」
ゴルドじいちゃんはため息をついて顎ひげをしごき、それから僕の目をまっすぐに見た。
「ティオ。わしらは十五年前まで、『暁の旅団』と呼ばれておった」
暁の旅団。
夏の初めに、王城で陛下から聞いた名前だ。十五年前に終焉竜を封じて、全員が死んだという英雄たち。剣聖、大賢者、大聖女……。
「でも陛下は、みんな亡くなったって」
「死んだことにしたんじゃ」
ゴルドじいちゃんが時計台のそばに立つ陛下のほうを一度だけ見る。
「なぜそうしたのかは、あとで陛下とも話さねばならん。今は、わしらが何者だったかだけを話そう」
そう言ってじいちゃんは腰の剣の柄に手を置いた。
「わしは、剣聖と呼ばれておった」
瓦礫の上でエルナさんが小さく息を呑む。じいちゃんがそちらへ顔を向けた。
「ほう。お嬢さんは、気づいておったか」
「……迷宮で、ティオくんの薪割りを初めて見た時に」
エルナさんの声は少しかすれている。
「王家の書庫で読んだ、剣聖流の型と同じでした。でも、まさかと思って、自分で打ち消しました」
「打ち消すのが普通じゃ。この子の振る薪割りを見て、剣聖流の名が浮かぶ者のほうがおかしい」
じいちゃんがふぉっふぉと笑う。
「王都でそれを見抜いたのは、お嬢さんだけじゃよ」
エルナさんは何か言いかけて、膝の上で両手を握りしめた。指に巻いた青い髪紐が朝の光に小さく光る。
僕は昨日の空を思い出していた。
「じいちゃん。竜の胸に、古い傷がありました。上から下へ、まっすぐな」
じいちゃんの手が剣の柄の上で止まる。
「あれは、わしの一撃じゃ」
静かな声だ。
「十五年前、旧王城の地下で、わしはあれを割りに行った。あと指一本ぶんじゃった。指一本ぶん届かんで、割りきれなんだ。だからオズが封じるしかなかった」
じいちゃんはしわだらけの手のひらを見下ろす。
「……お前が、割ってくれたんじゃな」
僕はうなずくことしかできなかった。昨日、木剣があの傷を抜けていった時の、割れかけていた薪がようやく自分から割れたような手ごたえ。あの傷は、十五年かけてあそこまで割れかけていた。
「私の番だね」
オズ先生が杖を膝の上に横たえる。
「私は大賢者と呼ばれていた。十五年前、ゴルドが割りきれなかった竜を、旧王城の地下に封じたのは私の術式だ」
「じゃあ、あの柱の文字は」
「私の書いた封印を、誰かが裏返して編み直したものだろう。昨日の朝、地面に円を描きながら確かめた。……正直に言えば、少し腹が立ったね。人の書いた文字を、あんな雑に裏返すとは」
オズ先生は珍しく本気で不満そうな顔をしている。ふと思い出したように、その目が僕に向いた。
「そうだ。入学の時、鑑定水晶が割れたそうだね。手紙に書いてあった」
「はい。故障だって言われました」
「故障ではないよ。つまりだね」
オズ先生は少しだけ考えてから続ける。
「あふれたのだ。器より、水のほうが多かった。それだけのことだ」
一瞬、間があいた。
石壁の上でリリさんが足をばたつかせる。
「オズが一行で終わらせた!」
「私だって、短く話そうと思えば話せる」
「十五年で初めて聞いたよ、うち」
ブロムおじさんは膝を叩いて笑い、その笑い声のまま、どんと自分の鎧の胸を叩いた。
「がっはっは!おれは鉄壁のブロム様よ。旅団の盾だ」
「鍛冶屋さんじゃなかったんですか」
「鍛冶屋もやってる!盾は自分で打つもんだ」
ブロムおじさんが急に声を落とす。
「……それとな、ティオ。お前が寮の箱に放りこんでた、あの青い石な」
「樽の重しですか」
「あれ、ゼルグラードの鱗だ。十五年前に、おれがこの手で剝がしてきたやつ」
瓦礫の上でダンがゆっくりと顔を覆う。
「終焉竜の鱗を……樽の重しに……」
ほとんど聞き取れないくらい小さな声だ。
「うちは、影」
石壁の上からリリさんが足をぶらぶらさせたまま言った。いつもの調子だった。
「名前のとおり、表に出ない仕事。罠を見つけたり、仕掛けたり、誰にも見つからないところで、誰かが見つかる前に片づけたり」
リリさんがにやりと笑う。
「だからティオくんがかくれんぼでうちを一回も見つけられなかったのは、当たり前なんだよ。気にしなくていいからね」
「十年くらい気にしてました」
「知ってる」
シェラ姉が壁に背中を預けたまま口を開いた。
「……弓聖」
それだけだ。みんなが続きを待っても、シェラ姉はもう口を閉じている。少しして、もう一言だけ足した。
「……霊薬は、私の里の薬」
そして、ちらりとオズ先生を見る。オズ先生が咳払いをした。
最後にみんなの視線が父さんに戻る。父さんは膝の上で組んでいた手をほどいた。
「……勇者、と呼ばれていた」
いつもの、牛を呼ぶ時と同じ低い声。
瓦礫の上で、ヴィクトルさんが「ゆ、勇者殿……」とつぶやいて、そのまま固まった。
父さんはそれ以上何も言わない。言わなくてもわかる。牛の前に立つだけで牛を止めてしまう人だ。竜の前に立っても、きっと同じだったのだろう。
僕は残った一人を見た。母さんは白い法衣の膝の上で手を重ねている。
「あたしは、大聖女って呼ばれてた」
母さんの声はいつもより静かだ。
「怪我を治すのが仕事。だから、あんたに手当てを教えた」
母さんは、少しのあいだ黙っていた。
朝の風が白い法衣の袖を揺らす。
僕はその袖を見ていた。昨日、竜が消える時に見た景色の中で、燃える村から赤ん坊を抱き上げた白い袖。今朝、母さんがこの服で中庭に降り立った時、胸のどこかが小さく鳴った理由。
「母さん」
自分の声が少し震えている。
「僕、昨日竜の中で見ました。燃えている村と、泣いている赤ん坊と。……白い袖の手が、その子を抱き上げるところを」
母さんの肩がぴくりと動く。
「あれは、母さんですか」
母さんはすぐには答えずに、ゆっくりと息を吸ってから、僕の目をまっすぐに見る。
「そうだよ」
それだけ言って、母さんは続けた。
「十五年前、竜は旧王城へ来る途中で、山あいの村を一つ焼いた。エルデって村さ。あたしらが追いついた時には、もう村は火の海だった」
母さんの指が法衣の膝をぎゅっとつかむ。
「あたしは生きてる人を探して走った。……一人しか、見つからなかった」
一人。
「炎の向こうで女の人が赤ん坊を呼んでた。何度も、何度も。あたしがそこへ着いた時には、もうその人は……」
母さんはその先を言わない。
「その人がずっと呼んでた名前がね、ティオだった」
息が止まる。
寮のベッドで見た夢。炎の向こうから僕を呼んだ声。マルヴィス先生が竜の記憶の中で聞いたという声。
あれは僕を産んだ人の声だ。
「だからあんたの名前は、あたしがつけたんじゃない。あんたの本当のお母さんが、最後まで呼び続けた名前だよ」
母さんの声がそこで揺れた。
「ごめんね。ずっと、言えなくて」
中庭が静かになる。
風が、焦げた石畳の上の灰をかすかに転がしていく。エルナさんもダンもヴィクトルさんも、ピュータン先生も、少し離れたところに立つ陛下も、こちらを見たまま身じろぎしなかった。
僕は自分の名前を胸の中で一度だけ呼んでみた。
ティオ。
炎の中で最後まで呼ばれ続けた名前。十五年、母さんたちが毎日呼んでくれた名前。
同じ名前だ。
「……じゃあ」
声を出すと、喉の奥が熱い。
「僕には、母さんが二人いたんですね」
母さんの顔がくしゃりと歪む。
大聖女と呼ばれた人の顔ではなかった。僕が熱を出した夜、枕元で僕よりつらそうにしていた、いつもの母さんの顔だった。
「……ばか。そういうことを、さらっと言うんじゃないよ」
母さんは手の甲で目元を乱暴にぬぐった。
少しだけ笑ったところで、ずっと気になっていたことを思い出した。
「母さん。手紙に、王都の地下には気をつけなさいって書いてくれましたよね。湿っぽいからって」
「……書いたね」
「あれも、知ってたからですか」
「知ってたさ。あそこに何が眠ってるか、あたしらがいちばんよく知ってた」
母さんは赤い目のまま苦笑いした。
「でも、本当のことは書けなかった。だから湿っぽいなんて、ばかみたいな書き方になったんだよ」
「僕、ネズミが出るのかと思ってました」
「……あんたって子は」
ブロムおじさんがまた膝を叩いて笑い出した。リリさんも石壁の上で腹を抱えている。
みんなが笑っているのを見ながら、僕はもう一つのことに気がついた。
村のみんなは、伝説の英雄だったのだ。十五年前に竜を封じて、王都の人たちが今でも名前を聞いただけで背筋を伸ばす七人。
そのみんなに囲まれて、僕は育った。毎朝薪を割って、牛を追って、かくれんぼをして、一度もみんなに勝てなかった。
「……じゃあ、僕」
みんなの顔を見回す。
「村では、本当にいちばん弱かったんですね」
ずっと言ってきたことだった。入学試験の日も、決闘の日も、ダンジョンの中でも。みんなに不思議な顔をされるたびに、本当のことなのにと思っていた。
本当のことだった。ちゃんと、本当のこと。なんだかそれがおかしくて、僕は笑った。
七人が顔を見合わせる。誰が答えるのかと思ったら、父さんが口を開いた。
「……いや」
いつもなら、そこで終わる。父さんの言葉はいつも一言か二言だ。
でも、父さんはその先を続けた。
「俺たちは十五年前、あれを倒しきれなかった。七人がかりで、封じるのが精一杯だった。ゴルドの剣も、指一本ぶん届かなかった」
低くて、ゆっくりとした声だった。一つずつ言葉を選んで、置いていくような話し方。
「お前は一人で行った。腕を一本なくしても、下がらなかった。王都の誰一人、死なせなかった」
ブロムおじさんの笑い声が、いつの間にか止まっている。
「……だから」
父さんは、大きな手を僕の頭に置いた。
「今日から、お前が一番だ」
頭の上の手が、ずしりと重い。
「……ハンスが、こんなにしゃべった」
石壁の上でリリさんがぽつりとつぶやく。その声も少し湿っていた。
僕は何か言おうとした。
ありがとうございます、とか。そんなことないです、とか。いつもの僕なら、きっとそう言っていた。
でも、口から出てきたのは、言葉ではなかった。
笑っているのに、目の前がにじんでいく。頬を伝ったものが顎の先から落ちて、肘の内側の白い輪の傷あとに当たった。
僕は泣きながら笑って、父さんの手の下で、何度もうなずいた。




