第42話 遅れてきた英雄たち
朝日がすっかり昇りきった頃、正門のほうで角笛が鳴った。
中庭で眠っていた人たちが、びくりと跳ね起きる。毛布代わりの天幕の布をはねのけて、子どもを抱えた母親が空を見上げた。昨日のことを思えば無理もない。
「まだ何か来るのか!」
正門の外を固めていた騎士の一人が叫んだ。
崩れた正門の向こうには、王城へまっすぐ続く大通りがある。その大通りの遠い端に土煙が上がっていた。
土煙はとんでもない速さでこちらへ近づいてくる。馬ではない。馬なら蹄の音がするはずだ。
聞こえてくるのは、もっと重くて、もっと騒がしい音だった。鉄の板がこすれ合う音と、石畳を踏み砕く足音。それに、やたらと大きな男の声。
「どけどけどけぇっ!」
騎士たちが槍を構えて大通りに並んだ。
土煙の先頭が見えてくる。鎧を着た大男だった。胸当ても肩当ても、昔の絵物語に出てくるような分厚い鋼で、その腹の留め金だけが今にも弾け飛びそうになっている。
大男は槍の列の前で止まらなかった。止まらないまま両腕を広げて、槍の列ごと騎士たちを左右へ押しのける。誰も倒れていないのに、気がついたら道ができていた。
その道を七つの影が駆け抜けてくる。
剣を差した白い髭の老人がいる。杖を抱えた男と、長弓を背負った女の人がいる。誰も彼もが、使いこまれた古い武具を身につけていた。
そして真ん中に、白い法衣の女の人がいる。
七人は崩れた正門をひと跳びで越え、中庭のど真ん中に降り立った。それぞれが武器を構え、背中合わせに円を描いて四方の空をにらみつける。
「竜はどこじゃ!」
白い髭の老人の声が響き渡った。
返事はない。朝の中庭は静かだった。焦げた石畳の上で、毛布にくるまった人たちがぽかんと口を開けている。崩れた時計台の上では、鳩が一羽のんびりと羽づくろいをしている。
七人はしばらくそのまま空をにらんでいた。空には雲一つない。
「……ねえ」
小柄な女の人が、構えていた細い刃を下ろす。
「竜、いなくない?」
杖の男が足元に膝をつき、大図書館の跡の、平らにならされた土に手のひらを当てる。
「封印の痕跡が……ない。完全に消えている。それどころか、この土は十五年ぶんの傷がきれいにふさがっている。つまりだね、誰かが術式の結び目をほどいたうえで、地脈そのものに手当てを施したということになる。理論上は可能だが、それをやるには少なくとも……」
「オズ。長い」
白い法衣の女の人が遮る。耳の尖った女の人は、空を見上げたままぽつりと言った。
「……いない。どこにも」
白い髭の老人が、剣の柄から手を離す。
「終わっとるのう」
鎧の大男は、がしゃんと音を立てて石畳に座りこんだ。
「おいおいおい。おれたち、夜通し山を三つ越えてきたんだぞ。こっちは鎧の腹がずっと苦しいのを我慢して……」
「ねえ、マーサ」
小柄な女の人が、白い法衣の女の人を振り返る。
「あの子さ、手加減って言葉知ってた?」
「あんたらが教えたんだろ」
「百分の一って言ったのはマーサじゃん」
「あたしのせいかい!」
僕は瓦礫に背中を預けたまま、その光景を見ていた。
見間違いではない。何度まばたきしても、そこにいるのは山の向こうの村にいるはずのみんなだ。
ただ、着ているものが全然違う。
鎧も剣も杖も、村では一度も見たことのないものばかりだ。父さんが担いでいる大剣は、納屋の奥で布をかぶっていたあれだろうか。
母さんは真っ白な服を着ていた。その白い袖を見た時、胸のどこかで何かが小さく鳴った気がする。どこかで見たことがあるような、ないような。けれど、すぐにわからなくなった。
僕は立ち上がった。
「みんな」
七人の頭が、いっせいにこちらを向いた。
「どうして、ここに?畑は?」
一瞬、中庭が静まり返る。父さんが大剣を肩から下ろした。
「……牛に、頼んだ」
それだけだ。隣でエルナさんが小さく息を呑む。牛に何を頼んだのか聞こうとして、僕もやめた。父さんがそう言うなら、たぶん牛はちゃんと留守を守っている。
◇◇◇
――ダン
目が覚めたら、中庭に化け物みたいな七人組が立っていた。
いや、化け物じゃない。全員ちゃんと人間だ。ただ、立っているだけで空気が違う。昨日の竜とは別の意味で、近寄ったら死ぬ気がした。
「おい、ヴィクトル。起きろ」
隣で杖を抱いて寝ていた坊ちゃんの脇腹を、肘でつつく。
「……何だ平民。私は今、ティオ殿が竜の首を……」
「寝言はいい。あれ見ろ」
ヴィクトルは目をこすり、中庭の真ん中を見て、固まった。
「あれは、何者だ。あの鎧、あの剣……どれも国宝級の業物ではないか」
「たぶん、ティオの村の連中だ」
「……あれが?」
「ティオが今『みんな』って呼んだ。それに見ろよ、あの杖の先。昨日俺が寮から持ってきた木箱の、霊薬の瓶とおんなじ光り方してやがる」
あいつの物置の樽の重しは竜の鱗で、あいつの先生の疲れ目の薬はエルフの霊薬。その時点でまともな村じゃないことはわかっていた。わかっていたつもりだった。
「……ダン」
ヴィクトルが、珍しく俺を名前で呼んだ。
「私は今、自分がとても小さな村の、とても小さな屋台の前に並んでいるような気がする」
「奇遇だな。俺もだ」
正門のほうで、誰かが槍を取り落とす音がした。
振り返ると、さっき道を押しあけられた騎士たちの中で、白髪まじりの年かさの騎士が一人、真っ青な顔で立ちつくしている。鎧の大男の顔を見て、それから白い髭の爺さんの顔を見て、その騎士は震える声でつぶやいた。
「……生きて、おられたのか」
隣の若い騎士が、何のことかわからずに年かさの騎士を見ている。
年かさの騎士が、もう一度だけ口を開く。
「暁の……」
そこで言葉が途切れた。
◇◇◇
「暁?」
正門のほうから聞こえてきた言葉に、僕は首を傾げた。
確かに今は夜が明けたばかりだ。騎士の人たちも、一晩じゅう見張りをして疲れているのかもしれない。
母さんがこちらへ歩いてきた。畑から帰ってくる時と同じ、いつもの歩き方だった。白い法衣の裾をさばいて、瓦礫をよけて、まっすぐ僕のほうへ。
「ティオ」
母さんの声は、村を出る時と同じだ。
「あんた、百分の一の約束は……」
そこで、母さんの足が止まった。
その目が僕の顔から肩へ、肩から左の袖へ下りていく。えんじ色の袖は、肘のところで黒く焦げて終わっている。
母さんは何も言わなかった。
中庭から音が消えた。母さんの後ろで、六人が同時に息を止めたのがわかる。
「あ、これ」
僕は慌てて、焦げた袖の縁を右手で押さえた。
「すみません。袖、だめにしちゃいました。エルナさんが選んでくれた上着だったのに」
隣でエルナさんが小さく声を漏らす。母さんは答えずに、ゆっくりと僕の前に膝をついた。白い法衣の膝が、焦げた石畳について黒く汚れる。それを気にもせずに、両手で僕の左の肘を包んだ。
焼けて閉じた傷口に、母さんの手のひらが重なる。台所で、僕の擦りむいた膝に当ててくれた時と同じ重さだった。
「……痛いかい」
「少しだけ」
「そう」
母さんはそれだけ言って、目を閉じる。
肘の奥で鈍く続いていた熱が、すうっと引いていく。痛みが消えたわけではない。ただ、痛いところに誰かが手を当ててくれている。それだけで痛みの形が変わった。
目を開けると、母さんは振り返りもせずに言った。
「オズ。全部、出すよ」
オズ先生がうなずく。もう話は長くならなかった。杖の先で地面に円を描き、その内側に細かい文字を一つずつ刻んでいく。古い形をした、角ばった文字だ。
その文字を見て、僕は瞬きをした。昨日、空の上で見た柱の文字に似ている。でもあれは全部、鏡に映したように裏返しだった。オズ先生が今書いている文字は、まっすぐな正しい向きをしている。
どうしてそんなことが気になったのか、自分でもよくわからなかった。
「霊薬と鱗」
母さんの短い声に、ダンが木箱を抱えて転がるように駆けてきた。顔が真っ青だ。
「こ、これです!霊薬は残り二本で、昨日一本、王女殿下に……」
そこから先は、誰も口をきかなかった。
シェラ姉が金色の小瓶を二本とも開け、ゴルドじいちゃんが青い鱗のかけらを手の中で握って砂にする。その粉の上に、霊薬が垂らされた。森の朝のような匂いが中庭に広がる。背中にはいつの間にかブロムおじさんがいて、鎧の腕で僕の体を抱えこんでいた。リリさんの姿はにじむようにぼやけて、中庭の人たちの視線から、僕たちの円をそっと隠している。
父さんだけは、何もしなかった。
母さんのすぐ後ろに立って、黙って母さんの背中を見ている。
「いくよ」
母さんの手のひらが光り始めた。
最初はろうそくの火くらいの光だった。それがオズ先生の円の文字に沿って広がり、霊薬に濡れた青い粉を巻き上げて、母さんの手の中へ集まっていく。光は強さを増し、母さんの手のひらが白く透けて見えるほどになった。
僕の左の肘の先で、何かが生まれ始めた。最初に戻ってきたのは重さだ。
空っぽだった袖の中に、温かいものが満ちていく。光が腕の形をなぞるように伸びていく。手首。手のひら。指が一本ずつ。
痛くはない。ただ、ひどくくすぐったくて、ひどく熱い。骨の奥で何かがかちりと噛み合うたびに、背中のブロムおじさんの腕に力がこもった。
母さんの額に汗が浮いていた。光を支える指先が細かくぶれ始め、唇から色が引いていく。それでも母さんは手を離さない。
その肩に、父さんが後ろから手を置いた。
それだけだった。それだけで、母さんの指先のぶれがぴたりと止まる。十五年前も、きっとこうだったのだろうと思った。
光がゆっくりと収まっていく。
光が消えたあとには、えんじ色の袖の焦げた縁があった。その縁の先から、僕の左手が出ている。
指を一本ずつ動かしてみる。親指。人さし指。中指。全部、ちゃんと動く。
握ってみると、指先が手のひらに触れた。
握れる。昨日、何もつかめなかった手で、ちゃんと自分の手のひらを握れた。
「……あ」
声が出たけれど、それ以上は何も出てこない。
母さんが僕の左手を両手で取り、手首を返して肘の内側を見た。
肘のところに、細い線が一本、輪のようにぐるりと残っている。白くて、わずかに盛り上がった線。
「……これだけは、消せなかったね」
僕はその輪の線を右手の指でなぞった。痛くはない。ただ、まわりの肌よりほんの少し冷たかった。
「いいです」
自然に、そう言っていた。
「これは、残っててほしいです」
母さんは僕の目をじっと見た。それから、僕の頭をぱしんと叩いた。
「このばか」
少しも痛くない。
叩いた手をそのまま頭の後ろに回して、母さんは僕をぐいと引き寄せた。白い法衣の胸に顔が押しつけられる。虫よけの草の匂いがかすかにした。
「……よく、がんばったね」
母さんの声は、少しも揺れていなかった。
揺れていたのは、背中のブロムおじさんのほうだ。
「がっはっは……がっはっは……」
笑い声が、途中から鼻をすする音に変わっていく。
「ブロム、泣いてんじゃん」
「泣いてねえ!鎧の中が蒸れてんだよ!」
ぼやけていたリリさんの姿が、もうはっきり見えていた。
その時、大通りの向こうから、今度は本物の蹄の音が聞こえてきた。
白い馬が何頭も、正門の前で止まる。銀色の鎧の近衛騎士たちが、さっと左右に分かれた。その間から一人の男の人が馬を降りてくる。
白いものの混じった髭に、まっすぐな背筋。王城の玉座の前で一度だけ会った人。
国王陛下だ。
陛下は正門の瓦礫を越えて中庭に入ってきた。近衛騎士たちが慌てて後を追う。中庭じゅうを探すように動いていた陛下の目が、僕の後ろで止まった。
「エルナ」
その声は、玉座の前で聞いた時とまったく違う。
エルナさんが立ち上がる。陛下は駆け寄って両腕でエルナさんを抱きしめた。近衛騎士たちが目のやり場に困って、空を見上げた。
「無事か。怪我は」
「……平気。ティオくんが、来てくれたから」
エルナさんの声が、陛下の胸の中でくぐもる。陛下はしばらく、そのまま動かなかった。それからエルナさんの肩に手を置いて、その顔をもう一度確かめるように見た。手首の薄い傷あとに目を落として、唇を引き結ぶ。
そして、顔を上げた。
陛下の目が僕を見て、それから僕の隣に立つ母さんを見た。
その目が、大きく見開かれる。
陛下はゆっくりと中庭を見回した。母さんの隣に並ぶ六人の顔を、確かめるように。
陛下の唇がかすかに震える。
「やはり……」
それ以上は声にならない。陛下はまっすぐ七人の前へ歩き出した。近衛騎士たちがざわめいて、誰かが「陛下!」と呼んだ。陛下は振り返らなかった。
七人の前で立ち止まり、焦げた石畳の上に膝をつく。
この国でいちばん偉い人が。王冠こそかぶっていなかったけれど、その人が、山奥の村から来た僕の家族の前で、深く頭を垂れていた。
近衛騎士たちは凍りついたまま、身じろぎ一つしない。
ゴルドじいちゃんの静かな声がする。
「……顔を上げなされ、陛下」
陛下は顔を上げない。
僕は母さんを見て、父さんを見た。ゴルドじいちゃんも、オズ先生もシェラ姉も、ブロムおじさんもリリさんも、誰も僕のほうを見ようとしない。
握ったばかりの左手が、少しだけ汗ばんでいる。
「父さんたち……」
声が、思ったより小さく出た。
「父さんたち、何者なんですか?」




