第41話 七つの基礎
雲の上の光は、ひと呼吸ごとに大きくなっていった。
紫がかった黒い光が、竜の喉から胸へ、胸から翼の先へと広がっていく。夕焼けの空の真ん中に、もう一つ黒い夕日が昇ったようだった。
王都じゅうの瘴気が、細い糸になってそこへ吸い上げられていく。路地の暗がりからも、崩れた大図書館の裂け目からも、地下牢の奥からも。
あれが落ちてきたら、王都は残らない。
僕は空中に張った殻の上で、木剣を握りしめた。
左の肘が脈を打つたびに痛む。右手には十二度斬っても倒しきれなかった手ごたえが残っている。斬っても斬ってもふさがる竜に、王都を丸ごと焼く息吹。その二つを一振りでどうにかしなければならない。
どこから手をつければいいのか、わからなかった。
息が浅くなる。光がまた一回り大きくなった。
『……焦るな』
耳の奥で短い声がした。
『焦ったら獲物は逃げる。まず聞け』
シェラ姉の声だ。
初めて森へ連れていってもらった日、僕は兎を追いかけて走り回り、一匹も捕まえられなかった。シェラ姉は木の根元に座ったまま、それを黙って見ている。日が傾いた頃にやっと口を開いて、言ったのはそれだけ。
僕は目を閉じた。
風の音。遠くの悲鳴。王都じゅうの人の息。その全部の向こうに竜の音がある。
翼が空気を打つ音の奥で、鼓動が鳴っていた。地下の空洞で何度も聞いた、あの鼓動だ。
それがどこから鳴っているのか、目を閉じたままでわかった。
胸の真ん中だ。
目を開けて竜の胸を見る。黒い光に包まれた鱗の中に、一本の線があった。
古い傷だった。
鱗が途切れ、その下の肉が白く引きつれている。十二度斬った時には光と鱗に紛れて気づかなかった。上から下へまっすぐに走る一本の線。斜めでもなく、曲がってもいない。
毎朝薪を割ってきた僕には、それがどういう振り方でついた傷なのか、なんとなくわかった。
ずっと昔に誰かがあそこを割ろうとしたのだ。そしてあと少しのところで、割りきれなかった。
鼓動はその古い傷の奥から鳴っていた。
狙うのは、あそこだ。
でもまだ足りない。いくら胸を割っても、腹の下の瘴気の柱がつながっている限り、竜はまた霧を吸ってふさいでしまうだろう。
僕は柱を見下ろした。
さっきまでただの黒い霧だと思っていた。でも目を凝らすと霧の流れには筋がある。細い糸が何本も絡みあい、ねじれ、編まれている。
その編み目に見覚えがあった。
文字だ。
ずっと古い形をした、角ばった文字。ただし、全部が裏返しになっている。鏡に映したように、左右があべこべの文字が、柱の中をぐるぐると巡っていた。
『よいか、ティオ。術式というのはだな、編み物のようなものなのだ。一つ一つの文字が隣の文字と手をつなぎ、その手のつなぎ方によって意味が変わる。たとえばこの一文字目と二文字目の結び方は、古代の書式では……』
オズ先生の話は、そこからが長い。
あの日、僕は机に突っ伏して寝てしまった。目が覚めた時もオズ先生はまだ話していた。
『……ティオ、聞いておるか』
『寝てました』
『……まあよい。これだけは覚えておけ。どんなに大きな編み物も、結び目を一つほどけば、全部ほどける』
柱の文字を下へたどっていく。
裏返しの文字は地上に近づくほど密になっていた。そして大図書館の跡の、地面の裂け目のいちばん深いところで、全部の糸が一つに束ねられている。
結び目はあそこだ。
光がまた大きくなった。竜の喉の奥で何かが低く唸り始めている。
時間はない。
僕が動けば竜は気づく。さっき急降下を空へ打ち返されたことを、竜はもう知っている。僕が下へ向かったと見れば、溜めきる前でも吐いてしまうかもしれない。
『ほらほらティオくん。息を殺すだけじゃ、すぐ見つかっちゃうよー』
リリさんの声はいつも笑っていた。
『自分のことをそこらへんの石ころだと思うの。石ころは隠れないでしょ?だから誰にも見つからないんだよ』
僕は自分を空に浮かんだ埃の一つだと思った。
殻を蹴る。音はたてない。風にも逆らわない。雲の穴から落ちてくる夕日の光にまぎれて、まっすぐ下へ降りていく。
竜の血の色の目は、さっきまで僕がいた場所を見つめていた。
大図書館の跡は大きな傷口のようだった。
石畳がめくれ上がり、崩れた本棚や焦げた紙が、裂け目のまわりに散らばっている。裂け目の底から黒い糸が束になって空へ昇っていく。触れるほど近くに立つと、糸の一本一本が細かく震えているのがわかった。
痛がっていると思った。
地面が。十五年前からずっとこの傷を抱えてきた土が。
『痛いところにはね、手を当てるんだよ』
母さんの声だ。
台所で指を切って泣いていた僕の手を取って、母さんは自分の手のひらを重ねた。あったかい手だった。
『痛いのを取ってやろうなんて思わなくていいの。ここにいるよって、教えてやればいいんだよ』
僕は膝をつき、右の手のひらを裂け目の縁に当てた。
左手はない。だから右手一つで全部を流した。
土の下で何かがびくりと震える。それからゆっくりと静まっていった。裂け目の縁が少しずつ寄り合っていく。めくれ上がった石畳が元の場所へ沈んでいく。
束ねられていた黒い糸が、結び目のところからほどけ始めた。
一本ほどけると隣の一本がほどけた。その隣もまたその隣も。裏返しの文字がばらばらになって、空へ昇る途中で霧のように消えていく。
腹の下の柱が竜から離れた。
空の上で竜が叫んだ。
それはもう怒りの声ではなかった。追い詰められた獣の声だった。
竜の喉が開く。
溜めきっていない。それでも竜は吐いた。王都じゅうの瘴気を集めた、紫がかった黒い息吹を。
空が暗くなる。
夕焼けも雲の穴も全部が黒い光に塗りつぶされた。息吹は一本の柱ではなく、天井そのものが落ちてくるように、王都の空いっぱいに広がりながら降りてくる。
僕は立ち上がった。
広がった感覚の中に王都じゅうの人がいる。正門の前の何百人も屋根裏のおばあさんも、市場の商人も城壁の上の騎士たちも、王城の窓辺に立つ誰かも。
全部守る。
『がっはっは!いいかティオ、盾ってのはな、腕で持つもんじゃねえ』
ブロムおじさんの笑い声が、頭の中いっぱいに響いた。
『足で持つんだ。大地に根を張って、背中に誰がいるかだけ考えろ。そしたら盾は勝手に重くなる』
両足を開いて石畳を踏みしめる。
足の裏から地面の下へ。地面の下から王都の端から端まで。力仕事の殻を張った。
一つの家を包むのではない。正門を包むのでもない。王都の空そのものに透き通った屋根を一枚かける。
黒い息吹がその屋根に落ちた。
◇◇◇
――エルナ
空が黒く落ちてきた。
そう見えた瞬間、私は髪紐を握った手を胸に押し当てていた。
黒い光は王都の屋根に触れる寸前で止まり、止まったまま横へ広がっていく。見えない天井に、黒い水をぶちまけたようだった。光は天井の上を流れて王都の端の端まで行き渡り、そこで行き場をなくして渦を巻いている。
その天井が、かすかに光っていた。
私はその光を知っている。学院祭の中庭で、逃げ遅れた人たちの前に張られた半透明の壁。崩れ落ちてくる時計台を受け止め続けた、あの壁と同じ光だ。
「……あいつ、王都ごと抱えてやがる」
私の肩を支えたまま、ダンがかすれた声で言った。
その声をかき消すように、正門の前で悲鳴が上がった。
誰かが門の外へ走り出す。一人が走ると、十人がつられた。抱えていた荷物を投げ出して、人の波が崩れた正門へ押し寄せていく。門の外の大通りは、あの黒い天井の真下だ。押し合いの中で、子どもを抱えた母親が膝をついた。
ティオくんは今、あの天井を一人で支えている。その下で人が逃げまどえば、あの人はきっと、それも全部守ろうとする。
「王女殿下、座っててください。まだ立てる体じゃないでしょう」
「座ってなんかいられない」
ダンの腕を振りほどいて、門番小屋の石段に足をかける。膝が笑った。霊薬で戻った血は、まだ体の半分くらいにしか行き渡っていない気がする。
それでも石段の上に立って、息を吸った。
「止まりなさい!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
走りかけていた人たちの足が、ばらばらと止まる。何百もの顔がこちらを向いた。
「私は第二王女、エルナ・リーフェンです」
王城の露台から民に手を振る時の声ではなかった。剣の稽古で、腹の底から出す声だ。
「あの光の天井は、私の学友が張っているものです。あれが割れない限り、ここが王都でいちばん安全な場所です。だから走らないで。転んだ人を起こして、その場にしゃがんで」
誰も動かなかった。
一人の老人が、ゆっくりとその場に腰を下ろした。それを見た隣の女の人が、膝をついていた母親の腕を引いて起こす。波が引くように、人の群れが一人ずつしゃがんでいった。
石段の下で、ダンが目を丸くしてこっちを見上げていた。
「……王女殿下って、そういう声も出るんですね」
「出るわよ。必要な時だけ」
答えてから、石段の上で膝が折れそうになる。ダンが下から黙って腕を差し出した。私はそれにつかまって、もう一度空を見上げた。
天井の上で、黒い光がうねっている。そのたびに、透き通った天井がきしむように鳴った。
あの下のどこかに、ティオくんが一人で立っている。片方の腕で、王都の空を。
手の中の絹の髪紐が、しわになっていた。
◇◇◇
息吹が殻の屋根を叩き続けていた。
重い。
足の裏から背骨を通って、無いはずの左腕の先まで、王都一つぶんの重さがのしかかってくる。踏みしめた石畳が足首まで沈んだ。
それでも殻は割れない。
ブロムおじさんの言ったとおりだった。背中に誰がいるかを考えるたびに、殻は勝手に重く、硬くなっていく。
腕が空いていた。
右手はまだ木剣を握っている。殻を支えているのは足だけだ。
黒い光の勢いが少しずつ弱まっていく。
柱を失った竜にはもう吸い上げる瘴気がない。王都じゅうから集めた分を吐ききってしまえば、それで終わりだ。
最後のひと筋が屋根の上で散った。
空の上で竜が首を引いた。
翼は短く、尾は半分しかない。体じゅうの傷はもうふさがらない。血の色の目が、雲の穴の向こうの北の空へ向く。
逃げるつもりだ。
『……逃げる牛は追うな』
父さんの声だった。いつもと同じ低くて短い声。
『前に立て』
殻の屋根に穴を一つだけ開ける。
僕はそこから跳んだ。
竜の背を追うのではない。竜が向かう先の北の空へ回りこみ、夕日を背にして竜の顔の真正面に出る。
何もない空中に殻を一枚張って、そこに立った。
竜が止まった。
血の色の目が僕を見る。逃げ道をふさがれた獣の目だった。それでも竜は首を振ろうとしない。体当たりもしてこない。父さんが牛の前に立った時、どんなに暴れていた牛も、そうやって動けなくなった。
竜の胸の古い傷が目の前にある。
上から下へまっすぐな線。
僕は木剣を右肩に担いだ。
左足を半歩引く。無い腕のぶんの重さを腰に乗せる。
『ティオ』
ゴルドじいちゃんの声がした。
『斧は片手でも振れる。腰で振れ』
小さい頃、斧が重くて持ち上がらなかった僕に、じいちゃんはそう言って片手で薪を割ってみせた。どうしてわざわざ片手なのかと聞いたら、じいちゃんは笑って答えなかった。
『腕はいつか一本になるかもしれん。じゃが腰は最後まで残る』
その声に別の声が重なった。
『まず聞け』
『結び目を一つほどけば』
『石ころは隠れないでしょ?』
『ここにいるよって、教えてやればいいんだよ』
『背中に誰がいるかだけ考えろ』
『前に立て』
七人の声が一つに重なって聞こえた。
それぞれ違う声なのに、不思議と少しもぶつからない。夕飯の前の村の広場で、みんなが好き勝手にしゃべっている時のにぎやかさに似ていた。
僕は木剣を振り下ろした。
音はしない。
木剣が古い傷に触れてそのまま下まで抜けていく。手ごたえさえ、ほとんどない。薪を割ったのではなく、割れかけていた薪が、ようやく自分から割れたような感じだった。
竜の胸の線から光がこぼれた。
紫でも黒でもない。夕日と同じ色の光だ。光は線から鱗へ、鱗から翼へと広がり、竜の体を内側から透かしていく。
竜はもう声を上げなかった。
血の色の目から少しずつ色が抜けていく。その目が最後に僕を見た時、僕の頭の中に、知らない景色が流れこんできた。
燃えている村だった。
夜空が赤い。家々の屋根が崩れ、畑が燃えている。誰かの悲鳴が炎の音にかき消されていく。
その炎の中で赤ん坊が泣いていた。
小さな手が空をつかむように動いている。
そこへ誰かの手が伸びてきた。
白い袖だった。煤で汚れた白い法衣の袖。その袖から伸びた手が、泣いている赤ん坊を炎の中から抱き上げる。
あったかい手だった。
『もう大丈夫だよ』
誰の声かはわからなかった。
景色が光の中にほどけて消えた。
目の前で竜の体が崩れていく。鱗の一枚一枚が光の粒になり、夕焼けの空へ散っていく。黒い翼も半分の尾も、血の色の目も。最後に胸の古い傷が光って、それきり、空には何も残らなかった。
雲の穴から、夕日の最後のひと筋が差しこんでいる。
足元の殻が薄くなっていくのがわかった。
体の中にも、もう何も残っていない。
◇◇◇
目を開けると空が白み始めていた。
最初に見えたのは、崩れた時計台の、半分だけ残った文字盤だった。針は止まっている。その向こうの空の端が少しずつ薄い金色に変わっていく。
僕は瓦礫に背中を預けて座っていた。
いつここまで降りてきたのか、覚えていない。体じゅうが重くて指一本動かすのもおっくうだった。左の肘の痛みは鈍い熱に変わっている。
肩に上着がかけてあった。
ダンの上着だ。ところどころ焦げていて、裾に門番小屋の煤がついている。
中庭のあちこちで人が眠っていた。避難していた客や生徒たちが、天幕の布や屋台の板を敷いて、身を寄せ合っている。少し離れたところで、ダンが木箱を抱えたままいびきをかいていた。その隣でヴィクトルさんが、杖を抱いて座ったまま眠っている。
ピュータン先生だけが起きていた。崩れた正門のそばで鉄の棒を地面に突き、黙って王都の通りのほうを見ている。
右側に、誰かの肩が触れていた。
エルナさんだった。膝を抱えて、僕と同じように瓦礫に背中を預けている。眠ってはいなかった。
「……おはようございます」
声を出すと、喉がかすれていた。
エルナさんがゆっくりとこちらを向く。目のまわりが赤い。何か言おうとして、結局何も言わずに、また前を向いた。
その指に、青い髪紐が巻きついていた。
「結ばないんですか」
「……手が言うことを聞かなくて、うまく結べないの」
エルナさんは少しだけ笑って、指に巻いた髪紐をほどいたり巻いたりしている。
「一晩じゅう起きてたんですか」
「ピュータン先生と交代で。……ティオくんが、ちゃんと息をしてるか見てた」
東の空から、最初の光が差してくる。
光は崩れた時計台を越え、大図書館のあった平らな地面を照らして、焦げた中庭の石畳に届く。眠っている人たちの顔に、一人ずつ朝日が落ちていく。
光は最後に、僕の左の袖に届いた。
肘のところで終わっている、えんじ色の袖。その焼けた縁が、朝の風にかすかに揺れている。
右の肩が、ふいに重くなった。
見ると、エルナさんの頭が僕の肩に乗っていた。髪紐を指に巻いたまま、小さな寝息を立てている。一晩分の眠気が、朝日と一緒にいっぺんに来たらしい。
起こさないように、僕はそのまま動かずにいる。
学院は半分崩れて、僕の腕は一本になった。
それでも、朝は来た。




