第40話 全部使っていい
扉を開けた。
十分の一の時のように少しゆるめたのではない。胸の奥の扉を、いちばん端まで押し開けた。
最初に来たのは、重さが消える感じだった。
肩から何かがすとんと落ちる。水を満たした桶を、やっと地面に下ろした時のような軽さだ。それで初めて気がついた。僕は物心ついた時からずっと、眠っている間でさえ、何かを押さえ続けていたらしい。
次に世界が広がった。
背中の後ろで、何百人もの人が息をしている。その一つ一つが聞き分けられた。母親の腕の中で泣きやんだ子ども。杖にすがって立つヴィクトルさん。木箱を抱えたダン。僕の右手を離したばかりのエルナさん。
その向こうの家々にも、逃げ遅れた人がまだいる。屋根裏で震えているおばあさんがいて、市場の路地では荷車をひっくり返した商人が立ち往生していた。シェラ姉と森に入った時、木の葉一枚の動きまで聞こえたのと同じだ。ただ、その森が王都一つぶんの大きさになっていた。
足元の焦げた石畳から、黒い瘴気がしゅうしゅうと音を立てて消えていく。
頭の上で、鉛色の雲に丸い穴が開いた。
穴の向こうに夕方の空がのぞき、傾いた日の光が一本の柱になって正門の前に落ちてくる。焦げた石畳がそこだけ金色に光った。
空の上で、竜の喉の光がふっと消えた。
溜めていた息吹を、竜が自分で呑みこんだらしい。雲の穴から落ちてくる光の柱を、血の色の目がじっと見下ろしている。
次の瞬間、竜は翼をたたんだ。
巨体が頭から落ちてくる。息吹では足りないと思ったのかもしれない。山が一つ崩れてくるような勢いで、正門めがけてまっすぐに。前足の爪が五本、槍の穂先のように揃えて突き出されていた。
背中の後ろで、誰かが悲鳴を上げた。
殻を張れば受け止められる。でも受け止めた衝撃は、足元の石畳を通って後ろの人たちに届く。
だから殻は張らなかった。
右手の木剣を肩に担ぐ。左腕がないぶん、体の左側が頼りないほど軽い。このまま振れば、体ごと右へ持っていかれるだろう。
腰をひねった。
左足を半歩引いて、無い腕のぶんの重さを腰に乗せる。ゴルドじいちゃんが片手で斧を振る時は、いつもこうしていた。わざわざ片手で割る理由が、あの頃の僕にはわからなかった。
落ちてくる爪の先が、もう屋根の高さまで来ている。
僕は木剣を下から上へ振り上げた。
薪割りは本来、上から下へ振るものだ。でも下には王都がある。だから逆に振った。割った先が空になるように。
刃が、揃った爪の真ん中に触れる。
手ごたえは乾いた薪よりも軽かった。
五本の爪が根元から割れて、左右へはじけ飛ぶ。刃はそのまま前足の付け根まで抜けた。振り上げた勢いが風になって竜の胸を下から打ち、落ちてきた巨体が、落ちてきたのと同じ速さで空へ押し戻されていく。
風は竜を追いこして雲まで届き、鉛色の雲に二本の長い裂け目を残した。はじけた爪は二つとも、学院の運動場のほうへ回りながら落ちていく。人のいない場所だ。
地上には瓦一枚落ちてこない。
背中の後ろで、誰かが息を呑む音がした。
竜が空中で体勢を立て直す。割れた前足を胸に引き寄せたまま、血の色の目が初めて僕だけを見ていた。エルナさんの向こうではなく、僕を。
僕は息を吸った。
腹の底まで吸って、そこから声を出す。父さんに教わった牛追いだ。暴れる牛の前に立つ時、父さんは一度も大声を出さなかった。腹から出した低い声だけで、牛の足を地面に縫いつけてしまう。
「降りてこい」
それだけ言った。
竜の巨体が空中でびくりと跳ねる。
翼の打ち方が乱れ、高度がぐらりと落ちた。竜は慌てたように翼を広げ直す。首を左右に振って僕から目をそらそうとし、そらせずにいた。
怯えているのだ。終焉竜と呼ばれた竜が。
僕は地面を蹴った。
蹴った瞬間にしまったと思う。片腕の体は、思ったところへ飛ばなかった。わずかに左へ流れていく。このままでは竜の首を越えて、その先の空へ飛び出してしまう。
右手の木剣を空中で大きく振り、その重さで体を引き戻した。竜の右の翼の付け根に、どうにか足をつける。戸板のような鱗が靴の下で砕けた。
足場を確かめる暇はない。
翼の付け根に木剣を振り下ろす。今度は割るのではなく、断った。
右の翼が根元から離れる。空を覆っていた黒い翼が、ゆっくりと回りながら落ちていった。落ちる先は学院の運動場で、そこに人がいないことはわかっている。
竜が空を引き裂くような声を上げた。
片翼を失った体が大きく傾き、腹の下の瘴気の柱がうねる。柱から黒い霧が、断たれた付け根へ流れ込み始めた。肉が盛り上がり、骨がせり出して、新しい翼の形が生まれていく。
さっきまでなら、十を数える前にふさがっていた。
でも今の僕には、十は長すぎる。
竜の背を駆け上がり、生えかけた翼をもう一度断つ。背骨の上を走り抜けて、首の付け根に木剣を叩きこむ。尾が背中を薙ぎにくるのを跳んでかわし、かわしながら尾の先を落とした。
一つ斬るたびに霧が傷口へ流れ込む。でも霧が肉に変わるより先に、次の傷ができている。
竜の再生が少しずつ遅れ始めた。
落とした尾の先が、回転しながら落ちていく。
その先を感覚で追って、僕は息を止めた。
市場の屋根だ。
さっき感じた商人が、まだ路地にいる。ひっくり返った荷車を起こそうとして、何度も肩を当てていた。落ちてくる影に、まだ気づいていない。
尾の先は、荷馬車ほどの大きさがあった。
追いかければ間に合う。でもその間、竜は自由になる。
迷っている時間はなかった。
足元の鱗を右手で一枚むしり取る。戸板ほどの鱗は片手で持つには大きすぎた。それでも構わない。シェラ姉に教わった狩りの投げ方で、肘から先だけを使って鋭く放った。
鱗は回転しながら、落ちていく尾の先の横腹に当たった。
重い音が空に響く。尾の先は向きを変えて、市場の手前の誰もいない広場に突き刺さる。
路地の商人がようやく顔を上げるのがわかった。
よかったと思った時には、もう遅かった。
足の下で竜の背が大きくうねる。
斬る手を止めたのは、ほんの一瞬だった。その一瞬で、霧が傷口に追いついていた。断ったはずの翼の付け根から、短い翼が二枚生えそろっている。竜はその翼で空を打ち、背中の僕を振り落とそうと体をひねった。
鱗に足をかけて耐える。
そこで、左の肘が燃えるように痛んだ。
今まで来なかった痛みが、まとめて押し寄せてくる。焼けて閉じた傷口の奥で何かが脈打ち、そのたびに肘から肩へ熱い針が走る。無いはずの指の先までが、ずきずきと疼いた。
息が止まり、足が鱗の上で滑った。
体が竜の背から離れる。
◇◇◇
――ピュータン
竜が落ちてきたのを、俺は正門の前で見ていた。
山が崩れてくるような落ち方だ。それが片腕の子どもの一振りで、来た時と同じ速さで空へ打ち返された。雲が裂けて夕日がこぼれ、その光の真ん中に、あいつが一人で立っていた。
冒険者を二十年やってきて、Sランクの魔獣とも一度やり合ったことがある。
あんなものは見たことがない。
「……ピュータン教官」
隣で声がした。ヴィクトルだ。杖を両手で握りしめて、空の上の小さな影を目で追っている。
「ティオ殿の、左腕は」
「見りゃわかるだろ」
言ってから、きつすぎたと思った。坊主の唇が白くなっている。
「……俺にもわからねえよ。わかるのは、あいつがまだ戦ってるってことだけだ」
空の上で、竜の翼がもう一枚落ちていく。
ヴィクトルは杖を握ったまま、しばらく黙っていた。
「入学したばかりの頃、私はティオ殿に決闘を挑みました」
坊主の声がかすかに震える。
「炎の剣を砕かれて、皆の前で恥をかかされたと思っていました。でも今ならわかります。あの方はあの時も、私に怪我をさせないことばかり考えておられた」
俺は返事の代わりに、拾った鉄の棒で地面を一度だけ突いた。
あの決闘を、俺は闘技場の真ん中で見ていた。坊主の言うとおりだ。
今だってそうだった。
竜から切り離された翼も尾も、全部が人のいない場所に落ちている。運動場、大図書館の跡、市場の手前の広場。あの高さからあの速さで斬っていながら、街の屋根には瓦一枚落ちていない。さっきなど、落ちていく尾の先に向かって何かを投げて、わざわざ向きを変えさせていた。
その代わりに、あいつは竜の背から落ちた。
「ティオ殿!」
ヴィクトルが叫ぶ。
小さな影が空中で止まった。何もない空に立っている。足の裏に、薄く光る板のようなものが見えた。中庭で見たあの壁の、小さな一枚だ。
影はそこを蹴って、もう一度竜へ向かっていく。
俺は息を吐いた。いつの間にか、鉄の棒を握る手が汗で濡れている。
門番小屋の陰で、エルナ殿下が立ち上がっている。まだ足元がおぼつかず、ダンが横から肩を支えていた。殿下は空を見上げたまま、右手で何かを胸に押し当てている。指の間で、青い紐の端が風に揺れていた。
殿下は何も言わなかった。ダンも何も言わない。
二人とも、ただ空を見上げていた。
王都じゅうの屋根の上で、同じように空を見上げている人の影が、ここからでも見えた。
◇◇◇
――マーサ
山の稜線を越えた時、北の空が光った。
足は止めなかった。止めなくても何が起きたのかはわかる。
王都の方角の地平線で、雲が丸く開いていた。その真ん中から何かが空へはね上がり、雲に二本の長い裂け目が走る。
この距離から見えた。ここから王都までは、普通に歩けば五日かかる。
「……使いおったか」
先頭を走るゴルド爺が、前を向いたまま言った。
誰も答えなかった。
ブロムが鎧の腹を鳴らして走る音。リリの軽い足音と、シェラの背中で揺れる弓の音。オズの杖の先が石を打つ音。いちばん後ろを走るハンスの、重くて規則正しい足音。夕暮れの山道には、七人ぶんの音だけが続いている。
思い出さずに済んでほしかった。そのために、あたしたちは走ってきた。
でも思い出したということは、あの子にできたということだ。全部を使ってでも守りたいものが。
胸の内側にしまった手紙が、走るたびにかさりと鳴る。
『友達ができました』
あたしは何も言わずに、走る足を速めた。すぐ後ろで、ハンスの足音も速くなった。
◇◇◇
空中に張った殻を蹴って、竜の首に戻った。
左の肘の痛みは消えない。でも痛いだけだ。後ろにいる人たちは、誰も痛くない。
十二度目に竜の首を斬った時、腹の下の瘴気の柱が細くなっているのに気がついた。
霧を傷口へ送る速さに、地の底から吸い上げる速さが追いついていない。柱の黒が薄れて、ところどころ向こうの景色が透けて見えた。
竜の体も、もう元の形をしていなかった。生えかけの翼は二枚とも短く、尾は半分の長さしかない。鱗のあちこちに、ふさがりきらない傷が口を開けている。
木剣を振り上げた時に竜が動いた。
僕を振り落とすのではなく、上へ。
竜は短い翼で空を打った。残った力を全部使うような、めちゃくちゃな羽ばたきだった。巨体が垂直に昇り始める。
しがみつこうとして、僕は何もない左側に手を伸ばしかけた。
指は空をつかんだ。
竜の体が、足の下からすり抜けていく。
空中に殻を張って着地し、上を見る。竜は雲の穴を抜けて、さらに上へ昇っていく。腹の下の瘴気の柱が、それに引きずられて細く長く伸びた。
雲より高いところで竜は止まった。
その首がゆっくりと下を向く。
その喉が光り始めていた。さっきまでの赤い光でも白い光でもない。地の底の淵と同じ、紫がかった黒い光だ。
光は喉だけでは収まらなかった。胸へ、腹へ、ふさがりきらない傷の一つ一つへと広がっていく。竜の体そのものが、一つの大きな炉に変わっていくようだった。
足元で、瘴気の柱がぴんと張りつめる。
柱だけではなかった。王都じゅうの瘴気が空へ吸い上げられていく。路地の暗がりに溜まっていた黒い靄が、細い糸になって昇っていく。崩れた大図書館の裂け目から湧いていた霧も、地下牢の奥に淀んでいた冷たい空気も、全部が竜の喉へ向かっていった。
広がった感覚の中で、僕にはわかった。
あれは、さっきのように正門を狙う息吹ではない。
王都を丸ごと焼くための息吹だ。




