第39話 終焉竜ゼルグラード
竜が翼を打つたびに、空気が上から叩きつけられた。
中庭の石畳に散らばっていた屋台の板が浮き上がり、くるくる回りながら校舎の壁にぶつかって砕ける。崩れかけていた時計台の瓦礫も、斜めに滑って中庭へなだれ落ちた。僕はエルナさんを抱えたまま、その風に背中を向けて身を低くする。
腕の中のエルナさんは、さっきより冷たくなっていた。
手首の傷はふさがっている。でも地下の祭壇に流れた血は戻らない。唇の色が薄く、僕の上着の胸元をつかむ指にも力が入っていなかった。
「正門へ行きます。少しだけ我慢してください」
エルナさんは目を閉じたまま、小さくうなずいた。
正門の前は人で埋まっていた。
学院祭の客や教官や生徒、それに屋台の店主たち。ダンが倒れた屋台の板と荷車で仕切った避難路は、門の外までまだ続いている。その脇で、ヴィクトルさんが杖にすがって立っていた。上着の袖は焦げ、額には汗で前髪が貼りついている。
「ティオ殿!エルナ殿下は……」
「血をたくさん流しました。どこか寝かせられる場所はありますか」
ダンが黙って脱いだ上着を門番小屋の陰の石畳に敷き、僕はその上にエルナさんを横たえた。
ダンはエルナさんの顔をのぞきこみ、それから手首の白い傷あとを見て、唇を噛んだ。
「回復薬じゃ足りねえ。血そのものが減ってる」
ダンの視線が、寮のある学院の奥へ動いた。
「……ある。寮にあれがある」
「あれ?」
「お前の母ちゃんが送ってきた、伝説のやつだよ!」
言い終わる前に、ダンはもう走り出していた。人の流れに逆らって崩れかけた校舎のほうへ。
「ダン!そっちは危ない」
「知ってる!」
振り返りもしない背中を見送って、僕は空を見上げる。竜は学院の真上をゆっくりと回っていた。
翼の端から端までは、学院の敷地よりも広い。黒い鱗は一枚一枚が戸板ほどもあって、鉛色の雲の光を鈍く跳ね返している。腹の下からは黒い瘴気がひと筋の柱になって垂れ下がり、その根元は大図書館があった地面の裂け目につながっている。
まるで、地の底から何かを吸い上げ続けているみたいだった。
王城のほうで角笛が鳴った。
学院の塀の外に、銀色の鎧が並んでいくのが見える。王都の騎士団だ。城壁の上には大きな弩がいくつも据えられ、魔術師たちの杖の先が一斉に光った。
「放て!」
太い矢と、炎と氷と雷が、竜の腹へ向かって何十も飛んでいく。
一本も刺さらなかった。
矢は鱗に当たって折れ、魔法は鱗の表面で弾けて煙になる。竜は首を巡らせることさえしなかった。代わりに尾をひと振りする。それだけで城壁の上の弩が二つまとめて吹き飛び、石の欠片が雨のように街路へ降った。
「ティオ!」
時計台の瓦礫のほうから、剣を抜いたピュータン先生が駆けてきた。
「あいつの狙いは何だ。こっちへ来るのか」
「わかりません。でもあの瘴気の柱は地下につながってます」
先生は空を見上げて短く舌打ちした。
「俺が翼の付け根を狙う。お前は──」
言い終わらないうちに、先生は崩れた時計台の瓦礫を駆け上がっていた。いちばん高い石の上から跳ぶ。低く旋回してきた竜の翼の付け根へ、剣を両手で振り下ろした。
がきんと嫌な音がして、先生の剣が根元から折れて宙に舞う。
翼がわずかに揺れる。
それだけで先生の体は弾き飛ばされ、中庭の上を横切って落ちてきた。
僕は地面を蹴った。
十分の一の脚で中庭を突っ切り、落ちてくる先生の下に入る。受け止める瞬間に力仕事で全身を固めた。両腕に、大人一人ぶんよりずっと重い衝撃がかかる。
「……悪い」
先生は僕の腕の中で顔をしかめ、折れた剣の柄を見つめていた。
「くそ。鱗一枚割れやしねえ」
先生を地面に下ろして、僕は木剣を握り直した。
剣が届かないなら届くまで近づけばいい。
時計台の瓦礫を三歩で駆け上がり、いちばん上の石を蹴って跳ぶ。耳元で風がうなり、竜の翼が頭の上を通り過ぎていく。その付け根めがけて木剣を振り下ろした。
ここは空で、天井はない。
だから十分の一を加減せずに振り切った。
手ごたえがあった。
戸板のような鱗が三枚まとめて割れ、その下の肉に木剣が深く食い込む。黒い体液が噴き出して、竜が初めて声を上げた。
空が裂けるような声に、王都じゅうの窓が一斉に震え、正門の前の人たちが耳をふさいでうずくまる。僕は傷口を蹴って体を離し、校舎の屋根に着地した。
振り返ると、翼の付け根に大きな裂け目が開いていた。
その裂け目に、腹の下の瘴気の柱から黒い霧が流れ込んでいく。
裂けた肉がゆっくりと寄り合う。割れた鱗の下から新しい鱗がせり上がり、つなぎ目が消えていく。
十も数えないうちに、傷は跡形もなく消えていた。
今度は首を狙って、もう一度跳ぶ。
首の鱗も割れる。刃が肉に届いて竜がまた叫ぶ。それでも瘴気の柱から霧が流れ込むと、傷はふさがってしまう。尾を狙っても脇腹を狙っても同じだ。
六度目に屋根へ降りた時には、息が上がっていた。
木剣を握る手のひらが熱い。十分の一の力を何度も振り切ったせいで、腕の芯がじんじんしびれている。
それなのに、竜の鱗には傷一つ残っていなかった。
地下につながるあの柱がある限り、何度斬っても同じだ。
柱を断てばいい。でもあれは霧だ。刃を当てても素通りする。根元の裂け目ごと吹き飛ばすには、今よりずっと大きな力がいる。そんな力で地面を打てば、学院もその周りの街も無事では済まない。
どうすればいいのか、わからなかった。
◇◇◇
――ダン
寮の玄関は半分つぶれていた。
崩れた梁の下をくぐって、俺は階段を駆け上がる。踊り場の窓が割れていて、ガラスの欠片が靴の下でじゃりじゃり鳴った。二階の廊下は斜めに傾いている。俺たちの部屋の扉は、蝶番が片方外れてぶら下がっていた。
部屋の中は思ったより無事だった。
ティオの寝台は窓際で、壁に貼った時間割もそのままだ。床に散らばったあいつのノートには、几帳面な字が並んでいた。
俺は自分の寝台の前に這いつくばった。
奥に押し込んだ木箱の前に、俺の鞄が置いてある。初夏のあの晩、俺がそうした。商人の息子の隠し方だ。まさか自分で掘り出すことになるとは思わなかった。
鞄をどけて木箱を引っぱり出し、ふたを開ける。干し肉の袋の下に、金色の液体の入った小瓶が三本並んでいた。その隣の小袋には、青く光る鱗のかけらがいくつか。
一本で王都に屋敷が買える代物が、三本。
「……疲れ目用ね」
俺は木箱ごと抱えて立ち上がった。
階段を駆け下りて、つぶれた玄関から外へ転がり出る。その時、寮の前の植え込みの脇に誰かが座りこんでいるのが見えた。
ピュータン先生だった。
石の壁に背中を預けて、左の膝を両手で押さえている。手の中には根元から折れた剣の柄が残っていた。
「先生!」
「……ダンか。なんでこんな所にいる」
「先生こそ」
「寮に逃げ遅れがいねえか見に来たら、このざまだ」
「薬を取りに来たんです。先生もその膝」
ズボンの膝の布が赤黒く湿っている。
俺は木箱のふたに手をかけた。先生の大きな手が、それを上から押さえる。
「それはあいつらに取っとけ」
「でも」
「俺のはただの打ち身だ」
先生は折れた剣の柄を地面に置き、壁に手をついて立ち上がった。左の膝が一度がくりと折れかける。それでも先生は踏みとどまった。
「この膝はな、二十年治らなかったのを、あいつが一言で治しちまった膝だ」
先生は空を回る黒い影を見上げた。
「こんな所で折ってたまるか」
それから俺の背中をどんと押した。
「行くぞ。お前の足じゃ、正門まで走ってる間に日が暮れる。荷物は俺が持ってやる」
「いや。これは俺が持ちます」
「生意気言うな。……落とすなよ」
俺たちは走り出した。
先生は左足を少し引きずりながら、それでも俺の前を走る。崩れてくる瓦礫があれば先に腕で払いのけた。俺は木箱を胸に抱えたまま、その背中だけを見て走った。
◇◇◇
六度目に竜の首を斬り、屋根に降りた時だった。
竜が空中で動きを止め、長い首をゆっくりとこちらへ向けた。
違う。竜の目は僕を通り越して、正門のほうを見ている。
正門の前には何百人もの人がいる。その中の一点を、竜はじっと見つめていた。
門番小屋の陰で、ダンの上着の上に横たわっているエルナさんだ。
祭壇に流れた血の匂いを、竜は覚えている。封印を解いた鍵の匂い。まだ足りないと思っているのかもしれない。
竜の喉が内側から赤く光り始めた。
鱗と鱗のすき間から、炉の扉を少し開けた時のような光が漏れる。光は喉の奥からせり上がり、一呼吸ごとに強くなっていった。地下でマルヴィス先生が真似をした、あの息吹の本物だ。
僕は屋根を蹴った。
中庭を越え、塀を越え、人の頭の上を飛び越えて正門の前に降りる。エルナさんと、その周りの何百人もの人たちと、竜との間に。
「みんな伏せて!」
叫びながら両手を空へ向ける。
ブロムおじさんの力仕事で、正門の前を丸ごと包む十分の一の殻を張る。
中庭で張った結界とは厚みが違う。殻の内側の空気が、ぴんと張りつめた。
地下では息吹の先を足元へ逸らした。でも今、足元には何百人もの人がいて、その後ろには王都の家並みが続いている。逸らした先には必ず誰かがいる。
全部受け止めるしかない。
竜が口を開いた。
最初に光。次に熱。音はいちばん最後に来た。
殻に炎がぶつかった瞬間、両腕が肩から引き抜かれそうになる。足が石畳を割って沈んだ。殻の外側が赤く、次に白く光り、目を開けていられなくなった。
熱い。
殻の内側にいるのに、顔の皮膚がちりちり焼ける。後ろで誰かが悲鳴を上げた。子どもが泣いている。
それでも殻は持っていた。
一呼吸。二呼吸。息吹は止まらない。竜は僕がつぶれるまで吐き続けるつもりだ。
三呼吸目で、左手の先に嫌な感触が走った。
殻にひびが入っていた。
僕の左の手のひらのすぐ先だ。細い光の筋が、殻の表面を斜めに走っていく。そのすき間から、白い炎の舌がひと筋、内側へ入りこんできた。
炎の舌の先には門番小屋がある。
ダンの上着の上で、エルナさんが目を開けていた。
考えるより先に左腕が動いていた。
ひびに手を突き入れ、手のひらで縁を内側から押さえつける。
力仕事の力を左腕一本に全部集めて、殻の裂け目を閉じた。
光が左腕を包む。そこから先は、音が消えた。
熱いとも痛いとも思わなかった。ただ真っ白な光の中で、左の肘から先の感覚だけが、少しずつ遠くへ離れていく。
息吹が途切れたのは、それからどのくらいあとだったのか。
気がつくと、殻の向こうに鉛色の空が戻っていた。殻の外の石畳は真っ黒に焦げ、正門の鉄の扉が飴のように溶けて垂れている。殻の内側には焦げ跡ひとつない。
後ろを振り返る。
伏せていた人たちが、一人また一人と顔を上げていく。泣いていた子どもは、母親の腕の中で目を丸くしている。ヴィクトルさんは杖を抱えたまま尻もちをついていた。
誰も焼けていない。
よかったと息を吐いて、殻を解こうと左腕を下ろす。
左の袖がやけに軽い。
えんじ色の上着の袖が、肘のところで黒く焦げて終わっている。その先には何もなかった。焼けた布の縁が風にかすかに揺れているだけだ。
傷口は熱で焼けて閉じていた。血は一滴も出ていない。痛みもまだ来ない。
代わりに、左手の指がまだそこにあるような気がした。木剣を握る時の、指の形まで覚えている。試しにその手を握ってみる。
何もつかめなかった。
「ティオくん!」
エルナさんの声だった。
振り向くと、エルナさんが門番小屋の陰から這い出してきていた。立とうとして膝が崩れ、それでも両手で石畳をつかんで前へ進んでくる。
その目が、僕の左の袖を見て止まった。
エルナさんの顔から、残っていた血の色がすっと引いていく。
「……うそ」
唇がそう動いたけれど、声にはならない。
正門の脇から、ダンが転がりこんできた。胸に木箱を抱えている。すぐ後ろに、左足を引きずったピュータン先生が続いていた。
ダンの足が止まった。
僕の左袖を見て何か言おうとし、言葉にならずに口を閉じる。それからダンは歯を食いしばり、木箱のふたを開けた。
「ダン。それはエルナさんに」
自分の声が他人の声みたいに遠く聞こえる。
「お前、腕……」
「エルナさんが先です」
ダンは何か言いかけてやめた。金色の小瓶を一本取り出して、エルナさんのそばに膝をつく。
小瓶の口を唇に当てると、森の朝のような匂いがふわりと広がった。
エルナさんがひと口飲み込む。白かった唇に、少しずつ色が戻っていった。冷たくなっていた指先が、かすかに動く。
よかった。そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
石畳に片膝をつき、体を支えようとして思わず左手をつこうとする。そこには何もなくて、体が大きく左へ傾いた。右手でなんとか地面を押さえる。
空の上で竜がまた翼を打った。
見上げると、竜はさっきと同じ高さを、何事もなかったようにゆっくりと回っていた。首の傷も翼の付け根の傷も、もうどこにもない。腹の下の瘴気の柱が、相変わらず地の底から何かを吸い上げている。
竜の喉がまた赤く光り始めている。次の息吹が来る。
僕は立ち上がろうとした。足に力が入らない。片腕だと、体のどこに重さを置けばいいのかがわからなかった。生まれてからずっと二本の腕で釣り合いを取ってきたことを、今になって知る。
十分の一で、あれを止められなかった。
次は腕一本では済まない。
右手に何かが触れた。
エルナさんの手だ。霊薬で少しだけ戻った力で石畳を這ってきて、僕の右手を両手で包みこんでいる。
手のひらはまだ少し冷たい。それでもその奥に、ちゃんと温かさがあった。地下の祭壇で抱き上げた時よりも、ずっと温かい。
指の間から、青い絹の端がのぞいていた。返したばかりの髪紐を、エルナさんはまだ握ったままだった。
「……ここにいるから」
それだけ言って、エルナさんは僕の手を強く握る。
僕はその手を見てから、顔を上げた。
木箱を抱えたまま、肩で息をしているダン。杖にすがって立ち上がろうとするヴィクトルさん。折れた剣の代わりに、拾った鉄の棒を握っているピュータン先生。母親の腕の中から、こっちを見ている子ども。正門の前で身を寄せ合っている、何百人もの知らない人たち。
その向こうに、王都の屋根がどこまでも続いている。
半年前、僕はこの街のことを何も知らなかった。
今は知っている。エルナさんと二人で歩いた人混みの大通りも、夕暮れの丘の公園も、四人で鍋をかき混ぜた『村の台所』も。
ふいに、村を出る前の晩のことを思い出した。
台所の火の前で、母さんは僕の顔を両手で挟んで二つの約束をさせた。
一つ目は、外では力を百分の一で。二つ目は意味がよくわからなくて、わからないままうなずいた。
『本当に守りたいものができた時だけは、全部使っていい』
母さんはそう言って、少しだけ寂しそうに笑っていた。
今ならわかる。
僕の右手を包んでいる、この手の温かさが。ここにいる人たち全部が。
僕はエルナさんの手をそっと握り返した。
それから右手だけで木剣を拾い、石畳を踏みしめて立ち上がる。今度は体が傾かなかった。
空の上では、竜の喉の光が強くなっていく。
胸の奥には、まだ閉めたままの扉がある。半年のあいだ一度も開けず、地下で少しだけ開けた扉。
その扉に手をかける。
「母さん。……今、使うよ」




