第38話 十分の一
爪が来た。
五本の黒い爪が、斜め上から僕の頭を狙って振り下ろされる。僕は木剣を頭上に掲げて、それを受けた。
重い。
腕の骨を伝って、肩へ、背骨へ、重さがまっすぐ落ちてくる。足の下で石の床がみしりと鳴り、靴の踵が指一本ぶん沈んだ。百分の一の薪割りの構えで受けて、押し返せない。村を出てから初めてのことだった。
「おや」
爪の向こうで血の色の目が細くなる。
「受け止めますか。さすがですね、ティオさん」
声だけは授業の時と変わらない。
先生が爪を引いた。その引き際に視界の端で黒いものがしなる。尾だ。
僕は床を蹴って跳んだ。足の下を、丸太より太い尾が唸りを上げて通り過ぎ、そのまま背後の石の柱を打つ。
柱が真ん中から砕けた。
天井からぱらぱらと砂が降ってくる。見上げると、赤黒く光る石の間に、さっきまでなかった細いひびが一本走っていた。
ひびの真下には祭壇がある。エルナさんがいる。
着地しながら、木剣を握る指に力がこもった。
「気づかれましたか」
先生は追ってこなかった。祭壇の前へゆっくりと戻っていく。
「ここは古い地下です。ティオさんが本気で剣を振れば、天井は落ちるでしょう。そうなれば殿下も、私も、ティオさんも、等しく瓦礫の下です」
先生は祭壇の縁に立ち、縛られたエルナさんを背にした。僕が斬りかかれば、その太刀筋の先には、エルナさんがいる。
「それに、ずっと不思議に思っていたのですよ」
先生が首を傾げた。角の生えた頭で、授業の時と同じ仕草をされると、胸のどこかがざらつく。
「副学院長室で、魔力の流し方をお教えした時のことです。ティオさんの魔力は、まるで蛇口をほとんど閉めた水桶のようでした。あれほどの量を抱えていながら、ほんの一筋しか流していない。……あれは、わざとですね?」
答える必要はなかった。
「やはり。ですが、閉めた蛇口のままでは間に合いませんよ」
先生は鱗に覆われた指を、祭壇の溝にそっと差し入れた。
爪の先が石を削る。蜘蛛の巣のような溝が、一段深くなった。
エルナさんの手首から落ちていた血が、一滴ずつではなくなる。細い糸のようにつながって、溝を流れ始めた。
足の下の鼓動が跳ね上がる。
エルナさんの肩がびくりと震えた。口を覆われたまま、目だけがこちらを向いている。さっきまで先生を強くにらんでいたその目が、少しずつ、焦点を失っていく。
「急ぎませんと、殿下のほうが先に尽きてしまいますよ」
先生の声は本当に親切だった。
僕は息を吸った。
百分の一の薪割りでは、あの爪を押し返せない。百分の一のまま回り込めば、その間にエルナさんの血が尽きる。かといって力任せに振れば、天井が落ちる。
残っている答えは一つだけだ。
「……百分の一じゃ、間に合わない」
口に出してみると思ったよりずっと静かな声だった。
村を出る前の晩、母さんは言った。外では力は百分の一で。それから半年、僕は一日も欠かさず、その約束を守ってきた。
ごめん、母さん。少しだけ開けるよ。
胸の奥で、ずっと閉めっぱなしにしてきた何かを、ほんの少しだけゆるめた。
十分の一。
最初に変わったのは音だった。
空洞を満たしていた鼓動が、急に間延びして聞こえる。どくん、と鳴ってから次のどくんまでが、やけに長い。天井のひびからこぼれた砂粒が、一粒ずつ、空中に浮かんで見えた。
止まっているんじゃない。僕のほうが速くなっている。
足の裏で、石の床が僕の重さを支えきれずに、細かく鳴いた。手の中で木剣の柄がきしむ。村を出る日にゴルドじいちゃんから渡されて、半年、毎朝握ってきた柄だ。それが今、初めて、こんなに強く握られることに驚いているみたいだった。
先生の目がわずかに見開かれる。
「……ほう」
耳の奥でゴルドじいちゃんの声が一度だけ鳴った。
『大きく振るのは誰にでもできる。小さく振って、同じ重さを乗せてみい』
僕は床を蹴らなかった。
蹴れば床が割れる。だからリリさんに教わったかくれんぼの足運びで、つま先を石にそっと置き、置いたところから次へ移る。
先生の血の色の目は、僕のいた場所を見たまま動かない。
祭壇の上、エルナさんの隣で、僕は木剣を指一本ぶんだけ振った。
紫色の光の鎖が六本まとめて、糸がほどけるように切れる。
崩れ落ちるエルナさんの体を、左腕で受け止めた。軽い。思っていたよりずっと軽くて、冷たい。口を覆っていた光の帯が、ちぎれて霧になった。
「ティオ、くん」
「しゃべらないで」
僕は右手の親指をエルナさんの左手首の傷に当てた。
手当て。母さんの台所で、包丁で指を切るたびに教わったやり方だ。十分の一の力で流すと、親指の下で、傷の縁がぴたりと吸いつくように閉じていく。
血が止まった。
祭壇の溝を流れていた赤い糸が、途中でぷつりと途切れる。
「……鍵を」
背後で先生の声が低く割れた。
振り返るより先に空気が裂ける。爪だ。今度は横からエルナさんごと僕を薙ぎ払う軌道。
僕はエルナさんを抱えたまま、祭壇の縁から後ろへ跳んだ。爪の先が上着の裾をかすめる。えんじ色の布の切れ端が、目の前をひらりと舞った。
着地と同時にエルナさんを祭壇の陰の床に下ろす。
ブロムおじさんの力仕事で、エルナさんの周りに、薄くて硬い殻を張った。
「ここにいてください」
エルナさんが何か言いかけて、僕の上着の裾をつかんだ。それから指を一本ずつ離していく。
「……行って」
僕は祭壇の陰から出た。
先生はもう笑っていなかった。
「その血が、どれほど貴いものかわかっているのですか」
膨れ上がった背中から黒い瘴気が翼の形に噴き出す。広げた翼の先が空洞の両側の壁をがりがりと削った。
「私は何年も、あの扉のすぐそばにいながら、触れることさえできなかった。それを、山奥の村の子どもごときが」
先生が大きく口を開ける。
喉の奥に紫と黒の光が渦を巻いて集まっていく。竜の息吹の真似事だ。
その射線の先には僕がいる。僕の後ろには殻の中のエルナさんがいる。
避ければ光は殻ごとエルナさんを呑む。正面から受けて弾けば、弾かれた光が壁と天井を砕く。
だから受けて、逃がさない。
光が放たれた。
僕は木剣を前ではなく斜め下に向けた。迫ってくる光の奔流の、いちばん先端に、刃の腹をそっと当てる。
ずん、と腕が沈む。焼けた鉄の塊を抱えたような熱が、柄から手のひらへ這い上がってきた。
それでも押し返さない。
父さんに教わった牛追いと同じだ。暴れる牛の鼻先を、棒で横から押して、行き先だけを変えてやる。
光の奔流が木剣の腹を滑って、足元へと向きを変えた。
床が溶ける。
僕の足元に、井戸のように深くまっすぐな穴が穿たれていく。壁にも天井にも光は一筋も届かない。熱い風だけが僕の前髪を後ろへなびかせた。
息吹が途切れる。
先生の喉から、ひゅう、と空気の漏れるような音がした。
その一瞬で十分だった。
今度は床を蹴る。割れない程度に。でも十分の一の脚で。
先生の懐に入ると、黒い鱗の胸の真ん中に、握りこぶしほどの黒い石が埋まっているのが見えた。どくん、どくん、と空洞の鼓動と同じ間で光っている。
先生に力を流し込んでいる、竜の欠片だ。
僕は木剣を小さく振り下ろした。
肩から肘まで指三本ぶんの距離。ゴルドじいちゃんに何千回も直された、薪割りのいちばん短い形。
かつん、と乾いた音がした。
薪がきれいに割れる時の音だった。
黒い石にまっすぐな線が一本入る。その線から紫色の光が噴き出した。先生の全身を覆っていた鱗が、胸から外へさざ波のように剝がれ落ちていく。
先生の巨体が膝から崩れる。
空洞が静まり返った。
天井のひびから小石が一つだけ落ちてきて、からんと床で跳ねる。
それきり何も落ちてこなかった。
先生は仰向けに倒れていた。
鱗の剝がれた胸の下から、元の人の肌がのぞいている。角も半分欠けていた。それでも血の色の目だけは、まだ縦に裂けたままだ。
「……なるほど」
先生は天井を見上げたまま、喉の奥で笑った。獣の唸りがまだかすかに混じっている。
「十分の一、ですか。それで、これですか」
僕は木剣を下ろした。
「先生。その石、取り出せませんか。今ならまだ」
「ふふ。お優しい」
先生の視線がゆっくりと僕に移った。
「ではお礼に一つ、教えて差し上げましょう。授業の続きです」
胸の黒い石の割れ目から、紫の光が、細く細く漏れ続けている。
「竜の力をこの身に入れた時、竜の記憶が、少しだけ流れ込んできたのです。十五年前、竜が焼いた村の一つ。エルデという名の、山あいの小さな村でした」
エルデ。聞いたことのない名前だ。なのに胸の奥がざわりと波立つ。
「家も畑も人も、すべて焼けました。竜というのは、自分が焼いたものを覚えているのですよ。……ただ一つだけ、焼け残ったものがありました。炎の中で泣き止まない、赤子です」
赤い炎が視界を埋め尽くす。夜空を覆う黒い影。
いつか寮のベッドで見て、すぐに忘れてしまった夢が、先生の声に重なってよみがえってきた。
「その赤子を、炎の向こうで、女が呼んでいました。何度も、何度も。……ティオ、と」
『ティオ』
夢の中で僕を呼んだ声だ。
足元の床がすっと遠くなった気がした。
「同じ匂いがするのですよ、ティオさん。学院で初めてお会いした時から、ずっと気になっていた。竜の記憶の中の赤子と、ティオさんの魔力は、まったく同じ匂いがする」
先生はとても楽しそうだった。
「ティオさんは、我らが神の食べ残しなのです」
祭壇の陰でエルナさんが息を呑む気配がした。
僕は何も言えなかった。炎の中の赤ん坊。僕の名前を呼んだ、知らない女の人の声。あれが本当にあったことなら、僕は、どこで生まれたんだろう。
上着の内側で何かが胸に触れた。
薄い絹のかすかな重さ。
それから、もっと奥のほうに、別のものがあった。毎朝の薪の匂い。夕方の牛小屋の干し草のぬくもり。台所の火の前で鍋をかき混ぜている母さんの背中。オズ先生に習った字で、初めて書いた村のみんなの名前。
僕は息を吐いた。
「……僕の村は、シルト村です」
先生の目がわずかに動いた。
「母さんも父さんも、そこにいます。じいちゃんも、姉さんたちも、おじさんたちも。僕はそこで育ちました」
それ以外のことは今はわからない。でも、それだけは、どれだけ炎の夢を見ても変わらない。
先生はしばらく黙って僕を見ていた。それからひどく小さな声で笑う。
「……つまらない答えですね」
その時、先生の胸の割れた石が、大きく脈打った。
「っ……!」
剝がれかけていた鱗が、逆向きに動き出す。外へではなく、内へ。黒い鱗が先生の肌に食い込むように沈んでいく。
「待て……違う、私は、司教として……許しを……」
先生の声から丁寧さが剝がれ落ちた。
鱗が沈んだところから肌が灰色に変わっていく。指先がさらさらと崩れ始めた。灰色の外套の男たちと同じだった。
「役目を、終えた、など……私は、まだ……!」
僕は駆け寄った。
手当てを。十分の一で流せばまだ間に合うかもしれない。
先生の手首をつかむ。
つかんだと思った指の間から、乾いた灰がこぼれ落ちた。
手を開くとそこにはもう何もない。上質だったローブの切れ端と、ひとつかみの灰が、石の床に残っているだけだった。
役目を終えた者は灰に還る。先生が自分の口で教えていた言葉だ。
僕はしばらくその灰を見ていた。
あの人の授業は本当にわかりやすかった。それも嘘ではなかったと思う。
「ティオくん」
振り返ると、エルナさんが殻の内側で、壁に手をついて立ち上がろうとしていた。顔はまだ白いけれど、目には光が戻っている。
僕は殻を解いて、エルナさんのそばに膝をついた。
「大丈夫ですか」
「平気。……ティオくんこそ」
エルナさんの視線が僕の手に落ちる。指の間にまだ灰が少しだけ残っていた。
僕はそれを上着でぬぐってから、上着の内側に手を入れた。青い絹の髪紐を取り出して、エルナさんの前に差し出す。
「これ。落とし物です」
エルナさんはしばらく髪紐を見つめていた。
それから両手でそっと受け取る。手首に薄い傷あとの残る左手ごと、胸の前でぎゅっと握りしめた。
「……落としたんじゃないわ」
小さな声だった。
「わかってます。だからすぐに来られました」
エルナさんは何か言おうとして、唇を結んだ。うつむいた肩が一度だけ小さく揺れる。
髪紐を握ったままの手が、僕の袖に伸びかけた。
その時だった。
どくん。
足の下から、これまでとは比べものにならない鼓動が突き上げてきた。
床に残っていた先生の灰が、いっせいに舞い上がる。風に吹かれたのではない。何かに吸い寄せられるように、灰は祭壇の奥の暗い淵へと流れ込んでいった。
先生が抱えていた竜の力が、元の場所へ還っていく。
淵の底で何かが目を開けた気がした。
どくん、どくん、どくん。
鼓動の間がどんどん短くなる。壁に埋まった赤黒い石が、一つずつ、内側から弾けた。天井のひびが四方へ枝を伸ばしていく。
今度は僕のせいじゃない。この空洞そのものが壊れようとしている。
「エルナさん、つかまって!」
返事を待たずにエルナさんを抱え上げた。
螺旋の階段を駆け上がる。十分の一の脚で、五段も十段もまとめて。背後で天井が落ちる音、地下牢の鉄格子がひしゃげる音。石段が下から順に崩れて、その音が、僕の踵を追いかけてくる。
腕の中で、エルナさんが僕の上着の胸元を、髪紐ごと握りしめていた。
最後の段を蹴って、隠し穴の外へ飛び出す。
鉛色の空。冷たい風。大図書館の裏手の石畳。
その石畳が足の下で波のようにうねった。
「ティオ!」
崩れた時計台のほうから、ピュータン先生の声がした。
答える間もなく、地面が裂ける。
大図書館が内側から持ち上がった。旧王城の時代から立ち続けてきた古い屋根が、紙細工のように二つに割れて、左右へ崩れ落ちていく。
その割れ目から黒いものがせり上がってきた。
最初は壁だと思った。それが鱗の一枚一枚だとわかったのは、その壁が、ゆっくりと身じろぎしたからだ。
首が伸びる。
学院のどの塔よりも高く、鉛色の雲に届くほど高く。その先にある頭がこちらを見下ろした。
あの夢の中で夜空を覆っていた影と、同じ形をしていた。
翼が開く。
広がった翼が学院の空を覆い、中庭も正門も、その向こうに連なる王都の屋根も、一瞬で夜のように暗くなった。
終焉竜ゼルグラードが、十五年ぶりに、王都の空へ昇っていく。




