第37話 鍵は王家の血
隠し穴の奥から、冷たい風が吹き上げてくる。
瘴気に混じって、カビと古い血の匂いがした。その入り口の石畳の上で、青い絹の髪紐が、風にあおられて小さく震えている。
僕は膝をついて、それを拾い上げた。
指先に、滑らかな絹の手ざわりが残る。ついさっきまでエルナさんの髪を結んでいた紐だ。連れ去られる間際に、縛られた手で、自分でほどいて落としていった。
「エルナさんが、ここだって教えてくれた」
髪紐を、えんじ色の上着の内側にそっとしまう。胸の上に、薄い絹の重さがかすかに乗った。
「ティオ!」
背中から、ピュータン先生の声が飛んできた。振り返ると、先生は崩れた時計台の瓦礫の上で、避難の列を背にして剣を構えている。僕の手の中の髪紐を見て、何が起きたのか、先生にはそれだけでわかったらしかった。
「行け!こっちは俺たちが持たせる!」
迷う理由は、もう何もない。僕は木剣のすり減った柄を握り直し、真っ暗な穴の中へ飛び込んだ。
隠し階段は、螺旋を描いて地の底へ続いていた。
かくれんぼの要領で空気の流れを探りながら、足音を消して駆け下りる。石の壁はじっとりと濡れていて、下へ行くほど空気が冷たく、重くなっていく。足の裏に伝わる鼓動も、一段ごとに大きくなった。どくん、と鳴るたびに、壁の水滴がいっせいに震える。
途中で、階段の脇に古い鉄格子の並ぶ通路が見えた。赤錆に覆われた格子の向こうは、どれも空っぽの小部屋だ。ダンが見つけた資料にあった、旧王城の地下牢だろう。格子の一本に、獅子と剣の紋章が、半分削れて残っていた。
ここは、もう学院の地下だ。この真上のどこかで、ピュータン先生たちが、今も戦っている。
やがて、開けた場所に出た。
王城の謁見の間がすっぽり収まりそうなほど、広い地下の空洞だった。壁には松明の代わりに、赤黒く光る石がいくつも埋め込まれている。その光が床に落とす影は、どれも少しずつ揺れていた。まるで、空洞全体が息をしているみたいに。
いちばん奥に、古い石の祭壇がある。
「エルナさん!」
祭壇の上の石の柱に、エルナさんが縛りつけられていた。紫色の光の鎖が、細い体を何重にも締め上げている。
エルナさんが顔を上げた。僕を見て、目を大きく見開く。
その左の手首に、細い傷がついていた。そこから流れた血が、一滴ずつ祭壇の石に落ちている。石の表面には、細い溝が蜘蛛の巣のように刻まれていて、血はその溝を伝って、祭壇の奥の暗い淵へと吸い込まれていく。
血が一滴落ちるたびに、足の下の鼓動が、少しだけ速くなった。
「ティオくん……どうして」
「助けに来ました。すぐに、外へ」
僕が踏み出そうとした時、祭壇の陰から、ゆっくりと人影が歩み出てきた。
「驚きました。これほど早く追いついてこられるとは」
上質なローブに、銀色の髪をきちんとまとめた男。マルヴィス先生だった。後ろでは、灰色の外套を着た男たちが数人、床に黒い液で模様を描き続けている。
「マルヴィス先生。エルナさんを返してください」
「それはできません、ティオさん」
先生は、いつもと同じ穏やかな微笑みで、首を横に振った。
「エルナ殿下は、我らが神を目覚めさせるための、何より大切な『鍵』なのですから」
鍵。廃教会の地下で、ザルクという人が最後に言い残した言葉だ。
「鍵って、何のことですか」
「封印を解くための、二つの条件ですよ」
先生は、副学院長室で魔力の制御を教えてくれた時と、まったく同じ口調で話し始めた。わかりやすくて、丁寧で、少しも声を荒らげない。あの時は、オズ先生の授業みたいだと思った。
「一つは、十五年前に封印を結んだ時と同じ、王家の血。もう一つは、長い年月で固まった封印を内側から食い破るための、膨大な魔力です」
先生が、縛られたエルナさんのほうを振り返る。
「国王の直系でありながら、学院の首席となるほどの魔力の持ち主。これほど極上の鍵は、ほかにありません。殿下の血がすべてこの祭壇に流れ落ちた時、偉大なる神は、完全な姿で王都の空へ昇るでしょう」
すべて。血が、すべて。
祭壇の溝を伝う赤い筋を、僕はもう一度見た。
「……ふざけないで」
エルナさんが、光の鎖の中で顔を上げた。唇は白いのに、声はまっすぐだった。
「私の血は、一滴だって、そんな神にはあげない」
「おや。それは困りますね」
先生が軽く指を鳴らすと、紫色の光の帯がエルナさんの口元を覆う。エルナさんは苦しげに眉を寄せて、それでも先生をにらむのをやめない。
「どうして、こんなことをするんですか」
自分の声が、思ったより低く出た。
「先生の授業は、わかりやすかったです。魔力の流し方も、僕、ちゃんと覚えています。あんなふうに教えられる人が、どうして」
「ええ。教えるのは、嫌いではありませんでしたよ」
先生は、本当に少しだけ、懐かしそうに目を細めた。
「ですが、それは手段にすぎません。竜を従える者が、この大陸を従える。十五年前、愚かな英雄たちが封じてしまった力を、今度は私が手にする。理由など、それで十分でしょう」
胸の奥で、何かが冷たく弾けた。
僕は床を蹴った。
祭壇の前に、灰色の外套の男たちが立ちはだかる。黒い刃の短剣が、四本。左右から同時に。
木剣を水平に振る。百分の一の、薪割りの横薙ぎ。
刃と刃が触れる前に、風圧が男たちをまとめてさらった。四人の体が宙に浮き、石の壁に叩きつけられて、それきり動かなくなる。気を失っただけだ。手加減はした。
それなのに、倒れた男たちの体が、足元から、さらさらと灰になって崩れ始めた。
「え……」
廃教会で、ザルクが崩れていった時と同じだった。あっという間に、灰色の外套だけが、抜け殻のように床に残る。
「僕は、気を失わせただけなのに」
「ええ、存じていますよ」
先生は、崩れていく部下たちに、目もくれなかった。
「役目を終えた者は、灰に還る。それが我らの教えです。……ティオさん。やはり、ここで生かしておくには、あまりに危険な方ですね」
先生が両手を、ゆっくりと高く掲げた。
祭壇の奥の淵から、どす黒い瘴気が、竜巻のように噴き上がる。空洞の空気が、ぎしりと嫌な音を立てて軋んだ。
「私は司教として、我らが神の力の一部を、この身に賜る許しを得ています」
渦を巻く瘴気が、先生の体に吸い込まれていく。
上質なローブが、内側から裂けた。肩が、腕が、ありえない形に膨れ上がる。皮膚を突き破って、黒く硬い鱗が、さざ波のように全身を覆っていく。
きちんとまとめられていた銀色の髪が、はらはらと抜け落ちた。額を割って、ねじれた角が二本、突き出してくる。
最後に、目が変わった。
授業中、僕のノートを覗き込んで「よくできていますね」と目を細めた、あの穏やかな目。それが、濁った血の色に染まって、縦に細く裂けた。
「ああ……なんという力だ。これこそが、神の息吹!」
声は、まだ先生の声だった。でも、その下に、何匹もの獣の唸り声が重なっている。
空洞全体が、びりびりと震えた。深層で戦った、あの親玉よりも、ずっと重い。ずっと冷たい。
祭壇の上で、エルナさんの手首から、また一滴、血が落ちた。
時間がない。
それに、ここも学院の真下だ。力任せに振れば、この空洞ごと崩れて、祭壇の上のエルナさんまで押しつぶしてしまう。
胸の上で、しまっておいた髪紐が、かすかに動いた気がした。
僕は木剣を両手で握り、腰を深く落とした。大地に根を張るように。ゴルドじいちゃんに、何千回も直された構えだ。
「さあ、ティオさん。灰に還りなさい」
丁寧な言葉づかいのまま、竜の力をまとった先生が、石の床を砕いて、一直線に僕へ襲いかかってきた。




