第36話 僕たちの戦い
大図書館の裏から現れたのは、四足歩行の巨大な魔物だった。
ずんぐりとした胴体には岩のような甲殻がびっしりと覆い、頭部にはねじれた太い角が生えている。一歩踏み出すたびに地響きが起こり、どんよりとした鉛色の空の下で、倒れた天幕がひしゃげていく。
その背後からは、小型の異形の獣たちが次々と這い出してきていた。
逃げ惑う客たちの悲鳴が、あちこちから上がっている。中庭は、足の踏み場もないほどの混乱に陥っていた。
「ティオくん、いくわよ!」
エルナさんが細身の剣を構え、軽やかに地を蹴った。秋の風に、青い髪紐が揺れる。
「雷帝の槍よ、穿て!」
ダンジョン実習の時のような、一拍の溜めはなかった。剣を振り下ろす動きと詠唱が完全に一つになっていて、紫色の雷が空から正確に落ちてくる。
激しい音が中庭を薙ぎ払った。
巨大な魔物の足元に群がっていた小型の獣たちが、一瞬にして黒焦げになって吹き飛ぶ。逃げ遅れていた商人たちのすぐそばに雷が落ちたはずなのに、火の粉ひとつ、石の欠片ひとつ飛んでいなかった。
エルナさんは、雷の落ちる場所を完璧に制御して、人々の足元を避けている。
「すごいです、エルナさん!」
僕が素直に驚いて声を上げると、エルナさんは一瞬だけこちらを振り向いて、少しだけ誇らしげに微笑んだ。
僕も負けてはいられない。
僕は木剣を左手に持ち替え、がら空きになった右手を前に突き出した。大地にしっかりと足を踏み張り、腹の底にぐっと力を込める。ブロムおじさんが、重い鉄の塊を運ぶ時にいつもやっていた『力仕事』の構えだ。
僕の手のひらから、半透明の光の壁が中庭いっぱいに薄く広がっていく。
魔物たちの鋭い爪や、跳ね飛ばされた瓦礫が結界にぶつかり、乾いた音を立てて弾かれた。
僕のすぐ後ろには、逃げ遅れてうずくまる親子や、腰を抜かした屋台の店主がいる。彼らを守るために広く結界を張っているあいだは、僕自身がここから大きく動くことはできない。
魔物の突進が結界に当たるたび、腕の芯にずしりとした重さが響いてくる。
「皆さんは、今のうちに僕の壁の内側へ!」
僕が声を張り上げると、うずくまっていた母親が子どもを抱きかかえ、這うようにして壁の内側へ転がり込んできた。腰を抜かした屋台の店主の襟首を、ピュータン先生が片手でつかんで放り込む。
「ティオ、右は俺が受け持つ!お前はその壁を絶対に崩すな!」
先生は振り向きもせずに叫び、剣についた黒い体液を払って、結界の外の魔物の群れへ踏み込んでいった。
結界の表面に、獣たちの爪が何度も叩きつけられる。そのたびに、手のひらから肘へ、びりびりとしびれが駆け上がった。壁の一か所に、細いひびのような光の筋が走る。ちょうど、さっきの親子がうずくまっているあたりだ。
僕は息を吸い、ひびの入った場所に、腹の底から力を流し込んだ。光の筋が、すうっと消える。
その時、苛立った巨大な魔物が、太い角を振りかざして、まっすぐこちらへ突進してきた。
地面を削るような足音が迫る。
僕は結界をスライムの膜のように少しだけ柔らかく保ち、真正面から魔物の突進を受け止めた。凄まじい衝撃が腕を伝うが、その力を足の裏から石畳の隙間へと逃がしていく。
魔物が体勢を崩し、動きがほんの一瞬だけ止まった。
僕は結界を一部だけ解き、右手で木剣のすり減った柄を握り直す。
空には何もない。天井を割る心配はないから、遠慮はいらない。
僕は百分の一の力のまま、岩のような甲殻の隙間に向けて、薪割りの要領で真っ直ぐに剣を振り下ろした。
硬い甲殻が真っ二つに割れる。
巨大な魔物は白目を剥き、崩れ落ちるように地面に倒れ伏した。
◇◇◇
――ヴィクトル
正門へと続く避難路は、恐怖に駆られた群衆によって埋め尽くされていた。
誰もが我先にと出口へ殺到し、押し合いへし合いの惨状を呈している。先頭で転んだ者が踏みつけられそうになり、女子供の悲鳴が絶え間なく響いていた。
「押すな!前が詰まったら全員遅くなる!荷物は置いていけ、命の値段のほうが高え!」
ダンの怒号が、騒騒しい人の波を切り裂いた。
彼は倒れた屋台の分厚い板と、どこかの商会の荷車を引きずり寄せ、人の流れを無理やり二つに分ける誘導路を作り上げている。その的確な指示と迷いのない動きに、浮き足立っていた商人たちが次々と我に返り、列を整え始めた。
あの平民め。商人としての悪知恵だけは回るらしい。
だが、安堵する暇はなかった。避難路の脇の植え込みから、紫色の涎を垂らした異形の獣たちが、三匹、四匹と回り込んできたのだ。
「燃え盛れ、爆炎!」
私は杖を高く掲げ、赤い石から灼熱の炎を放った。
炎の壁が道幅いっぱいに広がり、魔物たちの行く手を阻む。熱気に怯んだ獣たちが後ずさり、群衆から安堵のどよめきが漏れた。
しかし、炎を保ち続けることは、私の魔力を削り取ることを意味する。
こめかみが激しく脈打ち、冷や汗が背中を伝う。膝がひどく震え、今にも崩れ落ちそうになるのを、私は必死に堪えていた。
侯爵家の跡取りとしての重圧。そして、第三訓練場でティオ殿の木剣に、我が誇りである炎の剣をあっけなく砕かれた日の屈辱と、底知れぬ圧倒的な力。
あの御方の背中を追うと決めた。この程度の試練で倒れるわけにはいかない。
魔物の一匹が炎の薄い箇所を見つけ、跳躍してこようとした。
その瞬間、横から小さな袋が飛んできて、魔物の顔のすぐ前で破裂した。強烈な閃光と白煙が上がり、魔物が目を潰されて悲鳴を上げる。
「おい貴族のお坊ちゃん、へばってんじゃねえぞ!」
ダンの放った目眩まし玉だった。彼は煙の向こうから、口の端を曲げて笑いかけてくる。
「黙れ平民。この程度の炎、息を吐くより容易い」
私は強がりを口にしながら、杖に込める魔力をさらに強めた。炎が再び高く燃え上がり、魔物たちを完全に足止めする。
「……ふん。口だけは一人前だな。だが、助かったぜ」
「当然だ。このヴィクトルの炎がある限り、一人たりとも通しはしない」
平民の分際で生意気な男だ。だが、不思議と悪い気はしない。
その時だった。
大図書館のほうから吹き荒れた強い突風が、瘴気を含んで炎の壁を一瞬だけ掻き消した。
一匹の魔物がその隙を見逃さず、炎を突き破って突進してくる。その先には、転んで逃げ遅れた小さな子どもがしゃがみ込んでいた。
体が、勝手に動いていた。
私は子どもの前に立ちはだかり、魔力も底を尽きかけ、震える両手で杖を構える。
「ティオ殿に、恥じぬように!」
絞り出すような叫びと共に、杖の先から放たれた炎が、魔物の頭部を包み込んだ。獣は断末魔を上げて地面に転がり、それきり動かなくなった。
杖を下ろしたとたん、膝から力が抜けた。石畳に崩れ落ちる寸前、横から伸びてきた腕が、私の肩をぐいと支える。
ダンだった。何も言わない。ただ、私が倒れないように、黙って肩を貸している。
「……礼は言わんぞ、平民」
「いらねえよ。その代わり、あと少しだけ立ってろ。お前の炎がないと、列がまた崩れる」
私は杖を握り直し、もう一度、細い炎を灯した。背中の子どもが、私の上着の裾をぎゅっとつかんでいる。
息を乱しながら顔を上げると、遠く中庭の方角に、薄く光る半透明の壁が見えた。
あの中で、ティオ殿が戦っている。
私のような者の遥か先を行く、あの規格外の少年が。
◇◇◇
巨大な魔物を打ち倒し、土埃が収まろうとしていたその時だった。
足元で、嫌な地響きがする。魔物たちが暴れた衝撃と、地下からあふれ出し続ける瘴気のせいで、中庭に面した古い時計台の基礎が、もろくなっていた。
鈍い音を立てて、石造りの時計台が、避難する客たちの列に向かって崩れ落ちてくる。
悲鳴が上がった。
「危ない!」
僕は両手を高く掲げ、張っていた光の壁を上の方角へと瞬時に展開し直した。
雨のように降り注ぐ瓦礫が、結界に激突する。石の塊がぶつかるたびに、両腕の骨が軋むような重さがのしかかってきた。
今ここで僕が手を離せば、真下にいる何十人もの人たちが瓦礫の下敷きになってしまう。
僕は歯を食いしばり、足の裏から地面へと衝撃を逃がし続ける。
その、ほんの一瞬の隙だった。
エルナさんの背後、倒れた天幕の下から、音もなく灰色の外套を着た男たちが数人這い出してきた。祭りの喧騒と崩落の音に紛れて、気配を完全に殺している。
男の一人が、黒い呪具をエルナさんの足元に投げつける。
「えっ……きゃっ!」
くぐもった爆発音と共に、紫色の雷のような魔法陣が空中に浮かび上がり、エルナさんの体をきつく縛り上げた。
「エルナさん!」
僕は叫んだ。
見えている。でも、両手を離すことはできない。
頭上では、まだ石の塊が結界を叩き続けている。一つ、また一つ。そのたびに、腕の骨がきしむ。
真下では、子どもを抱えた父親が、背中を丸めて震えていた。ここで僕が手を離せば、あの人たちの上に、時計台がそのまま落ちてしまう。
走れば、追いつける。走れば、この人たちが潰れる。
僕は結界を支えたまま、一歩も動けなかった。
男たちが、抵抗できないエルナさんを抱え上げる。大図書館の裏手にある隠し穴へ、まっすぐに向かっていく。
連れ去られる間際、エルナさんが僕のほうを見た。
その瞳に、恐怖の色はない。
エルナさんは、小さく首を横に振った。
離さないで。そう言われた気がした。彼女は縛られた手の指先を器用に動かし、自分の金髪を束ねていた青い絹の髪紐をそっとほどいた。
青い紐が、ひらりと石畳の上に落ちる。
時計台の瓦礫がすべて落ちきり、僕が結界を解いた時には、すでに灰色の外套の男たちの姿はどこにもなかった。
残されたのは、ひどい土埃と、怪我を逃れて安堵する人々の泣き声だけ。
僕は走り出し、隠し穴の入り口の前に立った。
冷たい風が吹き出している真っ暗な穴の前に、一本の青い絹の髪紐が、ぽつんと落ちていた。




