第35話 封印が解ける
錆びついた蝶番が、耳をつんざくような金属の悲鳴を上げて内側へ折れた。
分厚い鉄の扉の隙間から、どす黒い瘴気が勢いよく噴き出してくる。それは底なし沼の泥のように重く冷たくて、腐った土と古い血が混ざったような酷い匂いがした。足元の石畳が、かすかな震えを帯びる。
「ああ……。この日を、どれほど待ちわびたことか」
マルヴィス先生が、両手を広げて恍惚とした声を上げた。
開け放たれた扉の奥は、光を吸い込むような完全な闇だった。だが、その闇の底から、聞いたこともない獣の咆哮が幾重にも重なって響いてくる。
瘴気の奥で、何十もの赤い光が、一斉にこちらを向いて揃った。
「さあ、すべてを灰に還し、世界に再生をもたらすのです。我らが神……終焉竜ゼルグラードよ!」
「……ゼルグラード」
エルナさんが、かすれた声でその名を繰り返した。
「王家の書庫で、一度だけ見たことがある。十五年前の『大いなる災厄』……公式の記録では、名前さえ伏せられていた竜よ」
僕は、その名前を知らない。村のゴルドじいちゃんのおとぎ話にも、オズ先生の難しい歴史の授業にも、そんな竜の名前は一度も出てこなかった。でも、あの夏の手紙の追伸を思い出していた。
『王都の地下には気をつけなさい。あそこは昔から湿っぽいからね』
あの時は、ただの湿気の話だと思っていた。でも、今、この扉の前で思い出すのは、どうしてだろう。母さんは、どうしてわざわざ、あんな一文を書き足したんだろう。
僕が胸の奥で引っかかっている間にも、空気の重さはじわりと増していく。
足の裏に、覚えのある感触が伝わってきた。試練の迷宮の床で、そして昨夜この扉に手を当てた時に感じた、あの寝息のような脈。
それが今は、寝息ではなかった。どくん、と打つたびに、石の階段そのものが震える。目を覚ました、大きな獣の鼓動だった。
マルヴィス先生はゆっくりと僕たちを振り返り、いつもと変わらない穏やかな微笑みを向けた。
「では、私は奥の祭壇へ向かいます。目覚めの儀式には、まだ少しばかり手間がかかりますので。……あとは任せましたよ、我らが神の眷属たち」
先生が優雅に一礼して闇の奥へ歩み去ると同時に、扉から黒い魔物の群れがなだれ込んできた。
試練の迷宮の深層で見た異形の獣と似ている。だが、あの時よりもずっと数が多く、全身に纏っている瘴気も黒く濃い。紫色の涎を垂らし、鋭い爪で石畳を削りながら、僕たちを見上げて牙を剥いた。
「ティオ殿!」
ヴィクトルさんが杖を構え、赤い石に火の粉が舞った。エルナさんが細身の剣を抜き放ち、ダンが鞄の留め金に手をかける。
僕は足を踏み出し、木剣を構えようとして、そして止めた。頭のすぐ上で、悲鳴のような声と、大勢の人が慌てて走り回る重い振動が響いている。
今日は学院祭だ。中庭には、王都じゅうから集まったお客さんたちがひしめき合っている。
ここで百分の一の薪割りを振れば、目の前の魔物を倒すことはできる。でも、天井を支えているこの古い石の階段ごと崩れ落ちてしまう。ダンジョン実習の時は、真上に誰もいなかったから天井にひびを入れるだけで済んだけれど、今は違う。
大勢の人を、瓦礫の下敷きにしてしまうかもしれない。
僕は木剣をだらりと下げたまま、三人を振り返って叫んだ。
「ここでは戦えません!」
「なんだって!?」
「天井が崩れます。上のお客さんたちを巻き込んでしまう。……上へ走りましょう!」
僕が言うと、エルナさんは迷わずにうなずき、剣を引いた。ダンとヴィクトルさんも弾かれたように背を向ける。僕たちは魔物を引きつけるようにして、背の高い草が生い茂る階段を一気に駆け上がった。
背後からは、岩を砕くような魔物たちの足音がひたひたと追ってくる。
地上に出ると、さっきまで秋の明るい日差しに満ちていた中庭は、一変していた。
空はどんよりとした鉛色に曇り、色とりどりの天幕のあちこちから黒い瘴気が立ち上っている。大図書館の裏手だけでなく、旧校舎の基礎や、ひび割れた石畳の隙間からも、次々と異形の魔物たちが這い出してきていた。
中庭は、阿鼻叫喚の様相だった。
僕たちの店である『村の台所』の木組みの屋台はなぎ倒され、大鍋がひっくり返ってスープが地面にぶちまけられている。客引きの元気な声は悲鳴に変わり、逃げ惑う人々の波が、正門に向かってどっと押し寄せていた。転んだ子どもを、見知らぬ商人が引きずり起こして走っていくのが見える。
こぼれたスープから立ちのぼる香草の匂いが、瘴気の腐った匂いに、みるみるかき消されていく。
ほんの少し前まで、僕はここで鍋をかき混ぜていた。ダンが帳簿を振り回し、ヴィクトルさんがすり足で器を運び、エルナさんが隣で野菜を刻んでいた。普通の学院生が、普通にお祭りをしていた場所だ。
「生徒と客を優先して逃がせ!正門までの通路を確保しろ!」
崩れた屋台の残骸の上で、ピュータン先生が声を張り上げていた。
いつもの傷だらけの革鎧姿で、右手には使い込まれた分厚い剣を握っている。額には青筋が浮かび、手当てで治した左膝は少しも曲がらずにしっかりと大地を踏みしめていた。
「騎士団が到着するまで、あと半刻はかかる!ここは俺たち教官で死守する。お前らは避難誘導に回れ!」
若い教官たちが、顔を青ざめさせながらも生徒や客の列を誘導している。眼鏡をかけた魔法学の教官が、震える手で杖を構え、迫り来る魔物に氷の矢を放った。
だが、矢は魔物の硬い甲殻に弾かれ、乾いた音を立てて砕け散る。
「くそっ、なんて硬さだ……!」
「お前は氷で足を止めろ。甲殻は俺が割る」
ピュータン先生が前に出ながら短く指示を飛ばすと、眼鏡の教官が杖を握り直した。
「……ふん。言われずとも」
氷の魔法で動きの鈍った魔物を、ピュータン先生が剣で一刀のもとに叩き切る。遅れて黒い体液が飛び散り、土埃が舞った。だが、一匹倒す間に、地面の穴から新たな三匹が這い出してくる。教官たちの数では、とても防ぎきれる量ではなかった。
「ダン、ヴィクトルさん、エルナさん」
僕は木剣のすり減った柄を強く握り直した。
地下なら、天井が崩れる心配があった。でも、ここは外だ。空には何もないし、周りの人たちを巻き込まないように気をつければ、いくらでも力を流すことができる。
「お客さんたちの避難をお願いします。僕は、残ります」
「お前一人でどうにかできる数じゃねえぞ!」
ダンが叫んだ。ヴィクトルさんも顔を強張らせ、焦げた匂いのする中庭を見渡している。
「平気です。ここで食い止めないと、みんなが外へ逃げられませんから」
みんなが笑っていた場所を、これ以上壊させたくない。口には出さなかったけれど、たぶん、それがいちばんの理由だった。
ダンは何か言い返そうとして、唇を噛んだ。正門のほうへ押し寄せる人の波を、商人の目でじっと見る。それから、隣のヴィクトルさんの襟首を、ぐいとつかんだ。
「……わかったよ。行くぞ、ヴィクトル。正門までの道は、俺たちで開ける」
「ティオ殿。避難路は、このヴィクトルが守り抜きます」
いつもの大げさな身ぶりは、どこにもなかった。ヴィクトルさんは杖の赤い石に火を灯し、ダンと並んで人の波のほうへ駆けていく。
僕が答えると、エルナさんが僕の隣に並び立った。青い髪紐が、秋の風に揺れている。
「私も残るわ」
「エルナさん……」
「首席が逃げ出してどうするの。それに、ティオくんに背中を預けられるのは、私たちだけでしょう?」
地響きが大きくなった。
大図書館の裏から現れた巨大な影が一歩踏み出すたびに、倒れた天幕が押しつぶされ、中庭の石畳が波打つ。




