第34話 副学院長の正体
中庭は、朝から人の波で溢れかえっている。あちこちから客引きの大きな声が響き、色とりどりの天幕が初秋の風にはためいていた。すれ違う人々の服の擦れる音と、どこかの屋台で肉の焼ける匂いが、祭りの熱気を作っている。
木組みの屋台に『村の台所』の看板を下げた僕たちの店も、開店と同時に長い行列ができた。
僕はかまどの前に立ち、鍋の底をゆっくりとかき混ぜる。立ち上る湯気は香草の香りをたっぷりと含んでいて、火の熱が顔をじりじりと焼く。
「三番の卓、スープが二つだ!急げ!」
帳簿を片手にダンが声を張り上げると、客席のほうから派手な金属音が響いた。
「このヴィクトルの華麗なる舞を……ああっ!」
金の刺繍が入った前掛け姿のヴィクトルさんが、銀の丸い盆の上で木の杯を盛大にひっくり返している。幸い中身は空だったけれど、床に転がった杯を拾い上げる手つきはひどくぎこちない。
「だからお前は給仕に向いてねえって言っただろ!そこに突っ立ってると邪魔だ!」
「なんだと!侯爵家たるもの、庶民の祭典においても完璧なもてなしを」
二人の言い合いを背中で聞きながら、僕は次の器にスープをよそう。
ヴィクトルさんは口答えしながらも、こぼれた水を布巾で必死に拭き取っている。ダンも文句を言いながら、決してヴィクトルさんから盆を取り上げようとはしない。
「はい、お待たせしました」
僕が新しい器を差し出すと、ヴィクトルさんはそれを受け取り、今度はすり足で慎重に歩き出した。
器の中のスープは少し揺れるだけで、一滴もこぼれない。客のテーブルに器を置き、ヴィクトルさんが深く一礼して戻ってくると、ダンは何も言わずにすぐ次の皿をその盆の上に載せた。
僕はかまどの火加減を見ながら、少しだけ嬉しくなる。村の祭りでも、ブロムおじさんと父さんがよくこんなふうに無言で酒樽を運んでいたのを思い出す。
「お前ら、商売繁盛してるじゃねえか」
屋台の裏手から、聞き慣れた野太い声がした。
革鎧ではなく、少しだけ糊のきいた平服を着たピュータン先生が立っている。約束通り、昼飯を食べに来てくれたらしい。
「あ、先生。いらっしゃいませ」
「特等席を用意してあるぜ!」
ダンが手早く裏手の樽の上の荷物をどかし、椅子を引く。僕がすぐにスープと香草焼きの鶏肉を出すと、先生は大きな手で木の匙を握り、豪快に口に運んだ。
「……うまいな。祭りの飯は、こうでなくちゃな」
あっという間に器を空にして、先生は満足そうに息を吐く。
「先生、昨日の報告のことなんですけど」
ダンが周りを気にしながら小声で切り出すと、先生は手で制した。
「今は祭りの時間だ。俺はもう学院長と副学院長には伝えた。地下のことは、祭りが終わってから騎士団と調べる手はずになってる。お前らは今日はいらん心配をせずに、店に専念しろ」
そう言って、先生は代金の銀貨を樽の上に置き、人混みの中へと消えていった。
先生の広い背中を見送ったあと、ずっと僕の隣で野菜を刻んでいたエルナさんが、ぽつりとこぼす。
「……おかしいと思わない?」
振り返ると、エルナさんは包丁を持つ手を止めている。いつもは綺麗に結んである青い髪紐が、今日は少しだけ緩んでいるように見えた。
「昨日の朝、教官室へ向かう途中で、私、廊下の窓の外を見ていたでしょう?」
エルナさんはうつむいたまま、言葉を探すように少し間を置く。
「その時、見えたのよ。大図書館の裏手へ向かって、マルヴィス先生が一人で歩いていくのが」
ダンが帳簿から顔を上げ、ヴィクトルさんも盆を下ろした。
「報告を受けたあとだったなら、確かめに行ったのかもしれない。でも、私がマルヴィス先生を見たのは、私たちが報告する前なの。それに、一人だけであんな場所へ向かうなんて」
エルナさんの声は、少しだけ震えている。
僕は鍋の火を落とし、かまどの前から一歩引く。大図書館の裏の地下には、あの脈打つ鉄の扉がある。先生たちが調べるのは祭りが終わってからのはずだ。
「……昨日、エルナさんが浮かない顔をしていたのは、そのせいだったんですね」
エルナさんは静かにうなずいた。
その時、客席の向こうの木陰を、上質な仕立てのローブが横切るのが見えた。
銀色の髪をきちんとまとめ、周りのにぎわいなど目に入らないような足取りで、マルヴィス先生が裏庭のほうへ歩いていく。その方向にあるのは、大図書館だけだった。
「行きましょう。確かめないと」
エルナさんが前掛けを外し、真っ直ぐに歩き出す。迷いのないその背中を追って、僕たちも屋台を飛び出した。
祭りの喧騒から離れるにつれて、周囲の音が急に遠ざかっていく。
大図書館の裏手は、背の高い草に覆われていて、昼間でも薄暗かった。そこだけ季節が違うように、足元の土が冷たく湿っている。
地下へと続く古い石の階段の入り口に、マルヴィス先生が立っていた。
「マルヴィス先生」
エルナさんが、王女としての冷たく通る声で呼ぶ。
先生はゆっくりと振り返る。目尻の優しい皺も、穏やかな微笑みもいつも通りなのに、その姿はどこか別の生き物のように見えた。
「これは、エルナ殿下。それにティオさんたちも。祭りの最中だというのに、こんな場所でどうされたのですか」
「それはこちらの台詞です」
エルナさんは一歩前に出た。僕はそのすぐ隣に立ち、マルヴィス先生をじっと見つめる。かくれんぼで息を潜めている時のような、冷たい空気が肌を刺した。
「ここは立ち入りが禁じられているはず。副学院長とはいえ、一人で来るような場所ではありません」
「ええ、その通りです。ですが、少しばかり急ぎの用ができまして」
マルヴィス先生は、少しも悪びれる様子なく静かに答える。
「ピュータン教官が、余計な報告を上げてくれましたからね。騎士団に嗅ぎ回られては、せっかくの準備が台無しになってしまう」
その言葉の意味がわからず、僕は目を瞬いた。
「どういう意味ですか?先生は、あの扉の向こうに何があるか知っているんですか」
僕が尋ねると、マルヴィス先生は楽しそうに目を細める。
「ええ、もちろん。我らが神の、目覚めの時が近いのですから」
ダンが息を呑み、ヴィクトルさんが杖を構える音がした。
我らが神。その言葉を、僕は知っている。廃教会の地下で、灰の司祭が同じことを言っていたからだ。
「まさか、先生が」
エルナさんの声が硬くなった。
「ご想像の通りです。私は『灰の聖印』の司教として、この学院に潜り込みました。すべては、この地下に眠る偉大なる力を解放するために」
マルヴィス先生は、最後まで丁寧な口調を崩さない。まるで授業で魔法の基礎を教えている時と同じように、静かに、淡々と語る。
「ティオさん。ティオさんのことは、少し調べさせてもらいましたよ」
真っ直ぐにこちらに向けられた視線に、僕は足の裏が冷たくなるのを感じる。
「シルト村などという村は、どの地図にも載っていませんでした」
先生の言葉が、湿った空気の中に重く沈んだ。
村が地図にない。それがどういう意味を持つのか、僕にはわからない。村のみんなは、ずっと昔からあそこで静かに暮らしている。
「それがどうしたって言うんですか。僕の村が地図にないことと、先生がここにいることに、何の関係があるんですか」
「深い関係があるのですよ。ティオさんがどこから来て、何を為す者なのか。……ですが、それを語り合う時間は、もうないようです」
僕が一歩踏み出そうとすると、マルヴィス先生が穏やかに声をかけた。
「おや、止めますか、ティオさん。ここは古い地下です。ティオさんが力を振るえば、この階段ごと崩れるでしょう。……真上は、祭りの中庭ですよ」
僕は足を止めた。頭の上で、中庭のにぎわいがかすかに響いている。
ダンジョンで天井を割らないように戦った時と同じだ。でも今度は、上にいるのは三人ではなく、何百人ものお客さんだった。
マルヴィス先生が、ローブの袖から手を出す。
その手のひらには、くすんだ灰色の魔力が渦巻いている。先生がゆっくりと背後の階段を下り始めると、空気がじわりと重さを増した。
僕たちは警戒しながら、一定の距離を保って階段を下りる。
底には、赤茶色に錆びた分厚い鉄の扉。獅子と剣の紋章の周りにびっしりと刻まれた呪符が、ゆっくりと脈を打つように明滅している。
マルヴィス先生は、その扉の前に立ち止まった。
「さあ、偉大なる神よ。長きにわたる眠りから、今こそ目覚めるのです」
先生の手が、呪符の刻まれた扉の中心に触れた。
脈打っていた呪符の光が、すうっと消える。
次の瞬間、錆びついた蝶番が悲鳴のような音を上げた。長いあいだ閉ざされていた鉄の扉が、ゆっくりと、内側へ開き始める。




