第33話 揺らぐ封印
翌朝いちばんに、僕たちは四人そろって教官室の扉を叩いた。
窓の外はまだ薄青く、部屋には朝の冷たい空気がこもっている。ピュータン先生は机の向こうで腕を組み、僕たちの話を最後まで黙って聞いていた。古い資料のこと、大図書館の裏の階段のこと、呪符だらけの鉄の扉のこと。
話し終えると、先生はダンが差し出した資料を受け取り、僕たちの顔を一人ずつ順番に見た。それから、短く息を吐く。
「……扉は開けてねえんだな」
「はい。見ただけです」
ヴィクトルさんが胸を張って答えると、先生の眉がほんの少しだけ動いた。
「わかった。学院長と、副学院長にも伝えておく。だが、明日は学院祭だ。地下の調査は、学院祭が終わってから騎士団と行う。……お前らは、絶対にあの扉に近づくなよ。いいな」
「はい、わかりました」
僕がうなずくと、先生は資料を閉じて、少しだけ目元を和らげた。
「よし。じゃあ、明日の学院祭、楽しんでこい。……お前らの店には、俺も昼飯を食いに寄らせてもらう」
教官室を出ると、廊下ではもう、生徒たちが明日の準備のために走り回っていた。窓の外から、中庭で屋台を組み立てる金槌の音が、小気味よく響いてくる。
「騎士団が調べてくれるなら、安心だな」
ダンが、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「いかにも!これで我々は、明日の『村の台所』に全力を注げますな!」
「だから、お前のその前掛けは却下だって言ってるだろ!」
二人の言い合いを背中で聞きながら、僕はふと、隣が静かなことに気づいた。
エルナさんが、廊下の窓から学院の奥のほうを見つめている。大図書館の古い屋根が、朝の光の中に黒く沈んでいた。
「エルナさん、どうしたんですか?」
声をかけると、エルナさんは振り返り、少しだけ無理をしたように微笑んだ。
「いいえ、なんでもないわ。……さあ、私たちも準備の続きをしましょう」
うなずきながらも、僕の手のひらには、昨夜の扉の冷たさがまだ残っている気がした。あの向こうで、ゆっくりと脈打っていたもの。それが、どうしても頭から離れなかった。
◇◇◇
――シルト村
秋の夜の空気は、底冷えがする。
あたしは寝つけずに台所の火を起こし、白湯をすすっていた。ティオが村を出てから、夜中に目が覚める癖がついた。ブロムに言わせれば、年のせいだそうだ。
茶碗を置こうとした時、足元の土が、かすかに震えた気がした。
背後で、音もなく戸が開く。
振り返ると、狩りの装束のままのシェラが立っていた。夜の闇に溶けるような暗い色の服なのに、尖った耳の先と目だけが、窓から差す月の光を受けて白く浮いている。
「……鳥が、一羽もいない」
あたしは窓を開けて、耳を澄ました。この時期なら夜通し鳴いているはずの夜鳥も、草むらの虫も、ぴたりと黙っている。山全体が、息を殺して何かをうかがっているみたいだった。
その静けさを、あたしは知っていた。十五年前、あれが目を覚ましかけた夜も、山はこんなふうに黙り込んだ。
「……マーサ」
シェラが、戸口に立ったまま言った。いつもと同じ平らな声なのに、弓を握る指先が白くなっている。
「あの子、今ごろ、寝てるかな」
「寝てるよ。あの子は、どこでだってよく寝る子だもの」
そう答えたあたしの声のほうが、よっぽど震えていた。
外へ出ると、村の家に、一つ、また一つと明かりが灯っていく。誰も呼んでいないのに、みんな目を覚ましている。小さな村だ。灯りが全部ついても、あの子の部屋の窓だけは暗いままだった。
薪割り台のそばで、ゴルド爺が土を掘り返していた。
毎朝ティオに薪を割らせていた斧は、台の横にきちんと立てかけてある。爺さんはそれには目もくれず、土の中から、油紙に何重にも包まれた細長いものを引き上げた。泥を払う手つきに、村長の好々爺の面影はもうない。
「……錆びとらんといいがのう」
油紙の隙間から、月の光を跳ね返すものがちらりとのぞいた。
あの子が初めて斧を握った日のことを、あたしは覚えている。力いっぱい振り下ろして、薪どころか台座の石まで真っ二つにした。教えた爺さんと二人並んで、あたしにこっぴどく叱られていたっけ。
薬師の家では、オズが薬棚の奥の、鍵のかかった引き出しを開けていた。取り出したのは、節くれだった古い木の杖だ。ティオに読み書きを教えていた時の穏やかな顔のまま、杖の先だけが、青白く光り始める。引き出しの横には、あの子に持たせたガラスの筆記用具の、空っぽの木箱が置きっぱなしになっていた。
「この揺れ方は、封印の第三層が外側から干渉されている証拠だ。術式の継ぎ目から見て、かなり乱暴な手口で、しかもこれは一晩や二晩の仕事ではなく、少なくとも……」
「オズ。長い」
あたしが遮ると、オズは口をつぐみ、困ったように白い髭をなでた。
鍛冶屋の前が、いちばん騒がしかった。
「おい、マーサ!これ、縮んだんじゃねえか!?」
ブロムが、昔の鎧と格闘していた。胸当ては何とか収まったものの、腹回りの留め金が、指三本分どうやっても届かない。ブロムが息を止めて腹をへこませるたびに、顔がみるみる赤くなっていく。
「縮むわけないだろ。あんたが太ったんだよ」
「ねえブロム、いっそ鎧なしで行けば?その腹なら、矢も刺さらないよ」
いつの間にか屋根の上に腰かけていたリリが、足をぶらぶらさせながら言った。
「うるせえ!これは鉄壁の誇りってやつだ!」
あたしはため息をついて歩み寄り、留め金の革紐を一段外側へ付け替えてやった。こういう時のために、十五年前から、鎧の内側には予備の穴をあけてある。……あけておいて、本当によかった。
「がっはっは!鍛冶屋は腹に肉がなきゃ、槌に重さが乗らねえんだよ!」
笑い飛ばすブロムの目は、ちっとも笑っていなかった。
雑貨屋の灯りの下では、リリが棚の裏の隠し戸を開け、細い刃や小瓶や、見たこともない形の仕掛けを、手品みたいな速さで袋へ放り込んでいた。
「かくれんぼの鬼、十五年ぶりだねえ。うち、あの子には一回も見つけてもらえなかったけど」
牛小屋では、ハンスが牛たちの首を、一頭ずつゆっくりと撫でていた。
「……留守を、頼む」
それだけだった。それなのに、あれほど落ち着きのない若い牛まで、静かに頭を下げる。
この人が誰かに何かを頼むのを、あたしはこの十五年で、初めて聞いた。ティオに牛追いを教えた時でさえ、「……腹から声を出せ」と、それだけだった人なのに。
あたしは家に戻り、戸棚のいちばん奥から、たたんだままの白い法衣を取り出した。十五年ぶりに広げた布からは、少しだけ虫よけの草の匂いがする。
袖を通す前に、前掛けのポケットに手を入れた。指先に、かさりと紙が触れる。
夏の初めに届いた、ティオからの手紙。
何度も開いたり閉じたりしたせいで、折り目がすっかり柔らかくなっている。
広場には、もうみんなが集まっていた。
あたしは手紙を広げて、月明かりにかざした。真っ直ぐで几帳面な、あの子の字だ。オズが教えた字だから、村の誰よりもきれいだった。
『ダンという、物知りな友達ができました』
「物知りな友達、か」
オズが、なぜか少しだけ得意そうな顔をした。
『エルナさんという、剣のきれいな人と一緒に稽古をしました』
ゴルド爺が、顎ひげをしごきながら、にやりと笑う。
「剣のきれいな人、とはのう。あの子が人の剣をほめるとは」
『ヴィクトルさんという、とても親切な人がいます』
ここでは、誰も何も言わなかった。どんな子なのか、誰にも見当がつかなかったからだ。
『ダンジョン実習で少し大きめの魔物が出たけれど、みんなで頑張って、怪我なく帰ってこられました』
ブロムが、ぶふっと盛大に吹き出した。
あの子の「少し大きめ」がどのくらいのものか、ここにいる全員に身に覚えがある。
『百分の一の約束は、ちゃんと守っています。村ではいちばん弱かったので、王都でも目立たないように気をつけています』
「それは無理だよねえ」
リリが、腹を抱えて笑った。ブロムもつられて笑い、オズまで口元を押さえている。
『シェラ姉にも、元気だと伝えてください』
最後の一行のところで、シェラがすっと手紙から目をそらした。そのまま、背中の長弓の弦を、意味もなく何度も確かめている。
あたしは、手紙の真ん中あたりの一行を、指でそっとなぞった。
『友達ができました』
あの子を山の外へ出したのは、この一行のためだった。強さなんかどうでもいい。同い年の子と笑って、喧嘩して、同じ鍋をつつく。そういう当たり前のものを、あの子にあげたかった。
その当たり前の足元に、今、あれが手を伸ばそうとしている。
村を出る前の晩、あたしはあの子に二つの約束をさせた。外では、力は百分の一で。それから、本当に守りたいものができた時だけは、全部使っていい。
あの子は、二つ目の約束を覚えているだろうか。覚えていなくてもいい。できれば、思い出さずに済んでほしい。そのために、あたしたちは行く。
「……王都の、地下だね」
あたしが言うと、オズが静かにうなずいた。
「十五年前、私たちが封じたものだ。誰かが、それをこじ開けようとしている」
オズは、杖の先に巻きつけてあった古い布をほどいた。夜風を受けて広がったのは、色あせた一枚の旗だった。地平線から昇る朝日を図案にした紋章。
あたしの法衣の胸にも、同じ紋章が白い糸で縫い取られている。
「暁の旅団、十五年ぶりの揃い踏みじゃな」
ゴルド爺が、油紙を解いた剣の柄に手を置いた。
月の光の下で、刃は一点の曇りもなく光っている。
「ティオの力なら、遅れはとらんじゃろ。じゃが、あの子は周りを守りながら戦うことに慣れとらん。守るものが多いほど、あの子は自分を後回しにする」
誰も、それに言い返さなかった。みんな、あの子がそういう子だと知っている。
「……行く。あの子のために」
シェラが、短く言った。
「で、王都まで何日かかるんだっけ?」
リリが、袋を肩に担ぎ直しながら首を傾げる。オズが、律儀に指を折った。
「普通に歩けば、十日だ」
「普通に歩けば、な」
ブロムが、鎧の腹をばんと叩いてにやりと笑った。
牛小屋のほうから、ハンスが歩いてくる。手には、牛追いの棒ではなく、長いあいだ納屋の奥で布をかぶっていた大剣を提げていた。
ハンスは広場の真ん中で立ち止まり、王都のある方角を見た。それから、あたしたちを振り返る。
「……行くぞ」
それだけで、十分だった。
あたしは法衣の襟を整え、手紙を胸の内側にしまった。
「十五年ぶりに、本気だね」
村の灯りを、一つずつ消していく。最後に、あたしの家の台所の火を消した。暗くなった村を背にして、七つの影が、夜の山道を下りていった。




