第32話 旧王城跡
ダンの声の響きに、ただ事ではない気配が混じっていた。
中庭には、まだ看板塗りの塗料の匂いが漂っている。茜色の空はすっかり暮れなずみ、遠くの街並みにぽつぽつと明かりが灯り始めていた。吹き抜ける風が、色づいた木々の葉をかさかさと鳴らす。
「ここで立ち話をするような内容じゃない。どこか、人のいないところへ行こう」
ダンが油紙で包むように革表紙の本を抱え込み、辺りを鋭く見回す。図書館の司書に見つからないように、こっそり持ち出してきたのだという。僕たちは急いで塗料と刷毛を片付け、人気のない旧校舎の空き教室へと向かった。
旧校舎の廊下は埃っぽく、歩くたびに床板がかすかに軋む。一番奥の教室の扉に手をかけた時、背後から派手な足音が近づいてきた。
「おお、ティオ殿!このような薄暗い場所で逢引きとは……むむ、ダンに王女殿下もご一緒とは!」
ヴィクトルさんが、金の刺繍が入った前掛けを外すのも忘れて立っていた。手にはまだ、給仕の練習で使っていた銀色の丸い盆まで持っている。
「お前、その格好で校舎をうろついてたのかよ!」
ダンが慌ててヴィクトルさんの口を塞ぎ、無理やり教室の中に引きずり込む。軋む木の扉をしっかりと閉めると、部屋の中は急にしんと静まり返った。
ダンが鞄から短い蝋燭を取り出して火を灯し、教室の真ん中にある古びた机に本を広げた。
分厚い羊皮紙のページをめくるたび、カビと古い紙の匂いが鼻をくすぐる。長い間、誰の目にも触れずに眠っていたものの匂いだ。
「模擬店の予算でも足りなくなったのか?」
ヴィクトルさんが首を傾げると、ダンは小さくかぶりを振った。
「いや、買い出しの相場を調べるために図書館の古い記録を漁ってたら、偶然見つけたんだ。学院が建てられた時の、寄付金と建設費の記録だよ」
ダンは帳簿を睨みつけるような商人の目つきで、かすれた文字を指でなぞった。
「数字は合ってる。おかしいのは年代だ」
ダンは指先を止め、ふうっと息を吐いた。
「この学院が建てられたのは十二年前ってことになってる。だが、ここにあった旧王城が崩れたのは、十五年前の『大いなる災厄』の時だ。学院が建つまでに、三年の空白がある。その間の予算の流れが、まるまる消えているんだ」
エルナさんが身を乗り出し、蝋燭の明かりの中でページを覗き込んだ。後ろで結んだ青い髪紐が、かすかに揺れる。
「ええ。王家の書庫の記録にも、そう残っているわ。十五年前の災厄で王城が甚大な被害を受け、今の場所へ城を移したと……。当時の状況はひどく混乱していて、詳しい資料は多く残っていないと聞いたけれど」
「だからこそ、この資金の動きが不自然なんだ。国からの復興予算のほかに、出所のわからない莫大な寄付金が流れ込んでいる。しかも途中で名目がすり替わってるんだよ」
ダンが指さした先には、周囲の文字よりも一回り小さく、隠すように書かれた項目が並んでいた。
「……『地下封印区画、補強および隠蔽工事』?」
その言葉をエルナさんが口にした瞬間、教室の空気が少しだけ冷たくなったような気がした。
僕たちは顔を見合わせた。王都の地下、封印、という言葉が、嫌な記憶を呼び覚ます。
「もし、旧王城の地下に何かとんでもないものが封じられていて、それを隠すためにこの学院が建てられたとしたら?」
ダンの低い声に、ヴィクトルさんが大げさに息を呑んだ。
「まさか、灰の司祭が言っていた『鍵』とは……!」
僕の脳裏に、廃教会の地下で崩れ落ちたザルクの最期の言葉が蘇った。
『終焉竜は目覚める。鍵はもう、王都にある……』
あの時感じた、背筋をぞくりと冷たいものが撫でていく感覚が、また戻ってきた。意味はわからないけれど、これ以上近づいてはいけないと本能が警鐘を鳴らしている。
村では、秘密の場所なんてなかった。誰かが隠し事をしても、すぐにお互いにわかってしまうからだ。でも、王都は違う。こんなに大きな建物の中に、十数年も隠し事をしておける場所がある。
エルナさんとダンが、図面のようなページを挟んで言い合いを始めた。僕は少し離れて、黙って二人のやり取りを聞いていた。
「この図面を見る限り、旧王城の地下牢の奥に、まだ手つかずの区画があるみたいね」
エルナさんが、細い指で図面の一部をなぞる。
「ああ。今の学院の図面と照らし合わせると、大図書館の地下あたりだ」
「行ってみましょう。もし本当に封印区画なら、放っておくわけにはいかないわ」
「待てよ」
ダンが、本の上に手のひらをばんと置いた。
「この前、ピュータン先生に『二度と無茶はするな』って頭を小突かれたばっかりだろ。先に先生に知らせるべきだ」
「知らせたら、きっと私たちは近づくことも許されなくなるわ。それに、ここに書いてあることが本当かどうかもわからないのに、先生を振り回せない」
「だけどよ、相手は教団の連中が狙ってる『鍵』かもしれないんだぞ」
「だからこそ、確かめておきたいの」
エルナさんの声が、少しだけ大きくなった。ダンも引かない。王女と商人の三男坊が、古い本を挟んでにらみ合っている。どちらの言うことも、間違っていない気がした。
口を開いたのは、意外にもヴィクトルさんだった。
「では、こういたしましょう」
ヴィクトルさんは盆を机に置き、前掛けの紐をほどきながら言った。
「今夜は扉を見るだけ。開けずに戻り、明日の朝いちばんに先生へご報告する。……我がベルンハイム家の祖父が、よく申しておりました。揉めた時は、両方が少しずつ損をする道を選べ、と」
エルナさんとダンは顔を見合わせ、それから、しぶしぶ頷いた。
ほどいた前掛けの金の刺繍が、蝋燭の明かりにちらりと光る。今のヴィクトルさんは、なんだか少しだけ大人びて見えた。
僕は腰に差したゴルドじいちゃんの木剣の柄に、そっと触れた。使い込まれてすり減った柄の感触が、手のひらにしっくりと馴染む。
もし本当に、学院の地下に危ないものが眠っているなら。学院祭には、王都じゅうから人が集まってくる。誰かが怪我をする前に、確かめておきたい。
「行きましょう。僕も一緒に行きます」
夜の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
石造りの廊下は真っ暗で、僕たちの足音だけがやけに大きく響く。どこかの窓が風でかたかたと鳴るたびに、ダンの肩がびくりと跳ねた。
大図書館は、学院の中でも一番古くからある建物だ。その裏手には、普段は誰も近づかない、草に覆われた古い地下への階段があった。
冷たい空気が肌を刺す。カビの匂いが次第に濃くなり、石の壁からはじっとりと水滴が滲み出していた。
母さんの手紙にあった『王都の地下には気をつけなさい。あそこは昔から湿っぽいからね』という一文が、頭の隅をよぎる。
階段を下りきった先に、分厚い鉄の扉が立ち塞がっていた。
赤茶色に錆びついた表面には、獅子と剣の王国の紋章が薄っすらと残っている。ヴィクトルさんが懐から丸い光の魔道具を取り出して灯すと、扉の周りにびっしりと古代語の呪符が刻まれているのが見えた。
「なんだ、この物々しさは……。ただの立ち入り禁止じゃないぞ」
ダンが息を呑んで、一歩後ずさる。鞄の中で、小瓶が微かに触れ合う音がした。
エルナさんも剣の柄に手をかけ、じっと扉を見つめている。
僕はそっと、鉄の扉に手のひらを当てた。
冷たい金属の感触の奥から、何かが伝わってくる。どくん、どくん。手のひらの下で、扉の向こう側の空気が、ごく小さく脈を打っている。
試練の迷宮の床で感じた、あの寝息のような脈と、どこか似ている気がする。
「……奥に、何かがいます」
その言葉が終わらないうちに、扉に刻まれた呪符の線が、脈に合わせて息をするように光っては、また消えた。




