第31話 学院祭準備
ザルクが灰になって崩れた残骸を見下ろしながら、僕は背筋の寒さを振り払うように小さく息を吐いた。
冷たい石の地下室は、松明がはぜる音だけが響いている。あの禍々しい威圧感は嘘のように消え去り、ただの古い空間に戻っていた。
僕たちは疲れ切ったピュータン先生を支え、夜の王都を学院へと急いだ。
翌日から、騎士団と学院の大人たちが廃教会の地下を徹底的に調べたそうだ。厳重な封鎖が敷かれ、僕たち生徒は近づくことすら禁じられている。
けれど、ザルクが言い残した「終焉竜」と「鍵」という言葉の意味は、誰にもわからないまま。
数日後、僕たち四人は教官室に呼ばれ、先生の大きな手で「よくやった。だが二度と無茶はするな」と頭を小突かれただけで済まされた。先生が無事だったことのほうが嬉しくて、僕たちは顔を見合わせて笑い合う。
それからしばらくすると、学院にはまたいつもの日常が戻ってきた。やがて夏が来て、長い休みは寮での課題と、ダンの商会の手伝いであっという間に過ぎていく。
休みが明けると、朝夕の風が少しずつ涼しさを増していた。王都の空が高く澄み渡る秋だ。訓練場を囲む木々も、うっすらと赤や黄色に色づき始めている。
学院全体が、年に一度の大きな行事である「学院祭」の準備で浮き足立っている。
僕のクラスは、中庭に木組みの屋台と天幕を張って、簡単な食事を出す模擬店をやることになった。
中庭では、ほかのクラスも屋台の骨組みを立て始めていた。金槌のとんとんという音が、校舎の壁に跳ね返ってくる。普段は貴族も平民も別々に過ごすことが多い生徒たちが、この時ばかりは身分を忘れて顔を寄せ合っていた。
放課後の教室は机が端に寄せられ、そこかしこで木材を鋸で切る音や、布を縫い合わせる話し声が響いている。埃っぽくて、どこか甘い糊の匂いがした。
みんなで一緒にひとつのものを作る。それは、僕がずっと憧れていた「普通の学院生」そのものだった。
「仕入れ値をもう少し抑えないと、儲けが出ねえぞ!」
ダンが額に汗を浮かべながら、羊皮紙の帳簿とにらめっこしている。商会の三男坊として、買い出しや予算の計算を一人で引き受けてくれていた。
頼もしい横顔だ。
その横で、ヴィクトルさんが無駄に金の刺繍が入った豪華な前掛けを身につけ、銀色の丸い盆を指先でくるくると回している。
「案ずるな!このヴィクトルが優雅なる給仕の舞を披露すれば、客は財布の紐を限界まで緩めること間違いなし!」
「お前のその前掛けが一番無駄な経費なんだよ!」
二人のいつものやり取りに、クラスメイトたちもくすくすと笑い声を漏らす。
「では、さっそく練習をお見せしましょう!」
ヴィクトルさんは近くにいたクラスメイトの前でうやうやしく片膝をつき、盆を高々と掲げた。その拍子に、指先で回していた盆がすっぽ抜ける。載っていた木の杯が、くるくると宙を舞った。
僕はかまどの前から一歩だけ動いて、落ちてきた杯を手のひらで受け止めた。中の水は、一滴もこぼれていない。村でシェラ姉と木の実を投げ合って遊んだ時と、同じ要領だ。
ヴィクトルさんは空になった盆を掲げたまま、何事もなかったように、クラスメイトへ優雅に一礼している。
ダンが帳簿から顔も上げずに、「杯の弁償代が浮いたな」とつぶやいた。
僕は教室の隅に置かれた簡易かまどの前で、試作の料理に取りかかっていた。
出す料理は、香草で焼いた鶏肉と、野菜をくたくたに煮込んだスープだ。
村では硬い鳥の肉や猪を使っていたけれど、王都の市場で買った肉は驚くほど柔らかい。オズ先生の薬草学の本で読んだ知識を思い出しながら、肉の臭みを消す葉っぱを刻んで鍋に放り込む。
村の薪割りの要領で、硬い根菜も透けるほど薄く等間隔に切り揃えていく。
小気味よい包丁の音が教室に響き、やがて黄金色に澄んだスープから香ばしい匂いが漂い始めた。
作業をしていたクラスメイトたちが、次々と顔を上げてかまどの周りに集まってくる。みんなの鼻が、鍋のほうへ向いていた。
村では、みんなで一つの鍋を囲むのが当たり前だった。王都に来てから、こんなふうに大勢で同じ鍋をのぞき込むのは初めてだ。
「できました。味見、お願いします」
木のお皿に取り分けて差し出すと、ダンがいち早く肉を口に運んだ。その瞬間、ダンの動きがぴたりと止まった。
「……おい」
「すみません、やっぱり香草の量が多すぎましたか?」
僕が慌てて謝ろうとすると、ダンは両手で顔を覆った。
「お前、どこの王宮料理人だよ!肉はとろけるし、スープは信じられないくらい深い味がするじゃねえか!」
「村では普通の家庭料理でしたけど。母さんの味付けには、これっぽっちも敵いません」
クラスメイトたちも次々とスープをすすり、目を丸くして無言で頷いている。中には感動しておかわりを求める人までいた。
そこへ、真っ白な前掛け姿のエルナさんが教室に入ってきた。後ろで結んだ金髪に、青い髪紐が揺れている。
エルナさんは少し冷めたスープを一口飲むと、小さく息を吐いてから僕を見た。
「……これを模擬店で出すの?他のクラスが、気の毒になってきたわ」
「エルナさん、美味しいですか?」
「悔しいけれど、王城の晩餐会で出てきてもおかしくないくらいよ」
エルナさんがくすっと笑い、クラス中がどっと沸いた。僕はほっとして、鍋の火を落とした。
放課後の遅い時間。
ほとんどの生徒が帰り、静かになった中庭で、僕とエルナさんは屋台の看板に色を塗っていた。刷毛で木の板をなぞるたび、塗料の独特な匂いが鼻をくすぐる。茜色に染まった空から、夕暮れの鐘の音が遠く響いてきた。
「手伝ってくれて、ありがとうございます」
「いいのよ。私も、こういう作業をしてみたかったから」
エルナさんは袖をまくり、真剣な横顔で文字の縁取りをしている。
王女という身分を忘れたように、筆を動かすその指先には赤い塗料が少しだけ跳ねていた。
看板には、大きく『村の台所』と書かれている。店の名前は、ダンが三日三晩悩んで決めたらしい。
ふと、エルナさんが顔を上げて僕を見た。
「ティオくん、すごく楽しそうね」
「わかりますか?」
「ええ。最近で一番、いい顔をしているわ」
僕は手元の刷毛を置いて、色づき始めた木々の葉を見上げた。
「ずっと、こういうことをしてみたかったんです。普通の友達と、普通に笑い合って、ひとつのことをする。……僕の願いが、少しだけ叶った気がして」
エルナさんは青い瞳をわずかに細め、優しい声で言った。
「そうね。来年も、再来年も、こうやってみんなで笑い合えるわよ」
その言葉がじんわりと胸の奥に染み込んでいく。来年も、再来年も。母さんに言われて村を出てきて、本当によかったと思えた。
「あ、ティオくん。頬に塗料が」
エルナさんが苦笑いして、自分の前掛けの端で僕の頬をそっと拭ってくれた。柔らかな布の感触と、かすかに花のようないい香りがして、僕はなんだか落ち着かなくなって、思わず顔を逸らす。
その時だった。
中庭の入り口から、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「ティオ!王女殿下!ちょっと来てくれ!」
振り返ると、ダンが息を切らして駆け寄ってくるところだった。その手には、古びて分厚い革表紙の本が抱えられている。
「どうしたんですか、ダン。そんなに慌てて」
ダンは肩で息をしながら、僕たちと、その手元の古い本を交互に見た。
「図書館の奥で、学院が創立された頃の古い資料を見つけたんだ。……とんでもないことが書いてある」
ダンの顔は、いつになく青ざめていた。




