第30話 灰の司祭
僕は迷わず、ゴルドじいちゃんの木剣を抜いた。
重い木の扉を蹴り開けると、むっとした熱気が顔を叩く。
そこは、細長い石造りの地下室だった。奥には、崩れかけた古い祭壇がある。壁の等間隔に掛けられた松明の赤い火が、薄暗い空間を不気味に照らし出している。カビの匂いに混じって、何かが焦げたような匂いが鼻を突いた。
祭壇の脇には、錆びた鉄の杭が床に打ち込まれている。
その杭に、ピュータン先生が太い鉄の鎖で縛り付けられていた。革鎧は剥ぎ取られ、腕や肩にはいくつもの火傷の痕がある。あの屈強な先生が、荒い息を吐いてぐったりと首を垂れていた。鎖が擦れる冷たい音が、地下室に響く。
その目の前に、灰色の外套を深く被った男が立っている。
男の右手には、先端が真っ赤に焼け焦げた鉄の棒が握られていた。形は、あの灰の紋章と同じだ。男がそれを、先生の胸元へゆっくりと近づけていく。じり、と空気が焦げる音がした。
「やめてください!」
僕は叫ぶと同時に、石の床を蹴っていた。かくれんぼでリリさんから逃げる時と同じ要領だ。足音を消し、一瞬で距離を詰める。男が驚いて振り返るより早く、下から木剣を振り上げて男の腕を弾き飛ばした。
乾いた木の音とともに、真っ赤な焼印が男の手からすっぽ抜けた。火の粉を散らして、部屋の隅へと転がっていく。
「何者だ!」
男が外套を翻し、忌々しそうに僕を睨みつけた。深く被った布の奥で、底知れぬ暗い瞳が光っている。手には、円環と三本の爪痕をあしらった禍々しい杖が握られていた。
背後から、荒い息をつきながらエルナさんたちが駆け込んでくる足音が聞こえた。
「ダン、先生をお願いします!エルナさんとヴィクトルさんは、周りの人を!」
「任せろ!王女殿下、ヴィクトル、周りは頼んだ!」
ダンの声に応えるように、部屋の隅の暗がりに控えていた数人の信徒たちが一斉に短剣を抜いて襲いかかってきた。
ダンの投げた目眩まし玉が破裂し、強烈な閃光と白煙が地下室に広がった。
「紫電よ、貫け!」
エルナさんの凛とした声が響くと同時に、短剣を振り上げた信徒の足元に雷が落ちた。彼らが痺れて動きを止めた隙を突き、エルナさんは流れるような身のこなしで、剣の柄で次々と打ち倒していく。
「我が炎の前にひれ伏すがいい!」
ヴィクトルさんが杖を振り下ろすと、炎の壁が立ち上がり、残りの信徒たちを部屋の隅へと追い詰めた。二人の連携は、ダンジョン実習の時よりもずっと息が合っている。
その白煙にまぎれて、ダンは先生のもとへ駆け寄った。鞄から細い金具を取り出し、鎖の錠前をがちゃがちゃといじり始める。商人の家の子は、錠前の扱いにも慣れているらしい。
背後の音を聞きながら、僕は灰色の外套の男と真っ直ぐに向き合った。
「愚かな小童が。我らが神の儀式を邪魔するか」
男が低く濁った声で呟くと、杖の先端からどす黒い炎が噴き出した。
普通の火じゃない。肌を刺すような冷たい殺気と、息ができなくなるほどの熱風が一緒に押し寄せてくる。深層で戦った魔物の群れの親玉と、同じくらいの威圧感だった。
「灰の司祭ザルクが、貴様らを灰に還してやろう!」
ザルクと名乗った男が杖を振り下ろすと、黒い炎が巨大な大蛇のようなうねりとなって僕たちに襲いかかった。床の石畳が熱でひび割れ、空気が陽炎のように揺らぐ。
僕はブロムおじさんの教えを思い出し、両手を前に突き出して「力仕事」の姿勢をとる。足の裏でしっかりと石の床を踏み締め、迫り来る炎の衝撃を地面へと逃がす。
半透明の光の壁が展開し、黒い炎と正面から激突した。
ごうっ、という凄まじい轟音が地下室に響き渡る。壁の向こう側で炎が渦を巻き、周囲の空気が一気に熱を帯びた。
「すごい熱だ……」
前髪をあおる熱風に、僕は思わず目を細めた。額から、つうっと一筋の汗が流れ落ちて、あごの先から床に落ちる。
王都に来てから、ここまで強い相手と戦うのは初めてだった。百分の一の力で押しとどめている結界が、ほんの少しだけ軋むような感覚がある。村で、少し大きめの鉄の塊を運ぶ時くらいの力が要った。
でも、負けるわけにはいかない。
僕の後ろには、怪我をした先生と、大切な友達がいるのだから。
「なんだ、その力は……!ただの平民の小童が、私の業火をなぜ防げる!」
ザルクの声に、明らかな動揺が混じった。炎の勢いが、ほんの一瞬だけ弱まる。
僕はその隙を見逃さなかった。
結界を維持したまま、右手でゴルドじいちゃんの木剣を握り直す。使い込まれた柄の感触が、汗ばんだ手のひらにしっくりと馴染んだ。僕は一歩だけ前に出た。靴の裏で、熱せられた石が砕ける音がする。
大きく息を吸い込み、薪割りの要領で木剣を真っ直ぐに振り下ろす。
「そこをどいてください!」
木剣の先端が空気を裂き、目に見えない斬撃が結界をすり抜けてザルクへと迫る。
黒い炎が、まるで薄い布を切り裂くように真っ二つに分かたれた。
斬撃はそのままザルクの杖をへし折り、その体を後方の石壁まで吹き飛ばした。
どすん、という鈍い音がして、ザルクが崩れ落ちる。分厚い石壁には、放射状のひびが深く刻まれていた。地下室を渦巻いていた熱気が、嘘のように霧散していく。
「……とんでもねえな」
背後で、鎖を解かれたピュータン先生が呆然と呟いた。
部屋を見回すと、信徒たちはすでにエルナさんとヴィクトルさんによって倒されていた。床には黒こげの布切れが散らばり、雷の残した火花が、石の継ぎ目でまだぱちぱちと小さく弾けている。
僕は急いで先生のそばに駆け寄り、ダンから上級の回復薬の小瓶を受け取った。
「先生、動かないでください」
「おい坊主、俺のことはいい。あいつはSランクに匹敵する化け物だぞ……って、嘘だろ」
赤い液体を火傷の痕に振りかけると、じゅうと音を立てて傷が塞がっていく。手当ての力も少しだけ混ぜて、深い傷を元の形に戻していく。
先生は大きな手で顔を覆い、深くため息をついた。それから、僕の頭に手を置き、乱暴にがしがしと撫で回す。
「無茶しやがって……。ティオ」
その声は少しかすれていて、でも、どこかほっとしたような響きがあった。
先生が僕の名前を呼んでくれたのは、これが初めてだった。
言いつけを破って首を突っ込んだから、怒られると思っていたのに。先生の手は、村の父さんの手みたいに大きくて、少し震えていた。
ヴィクトルさんは何も言わずに、焦げたマントの裾をちぎって、先生の手首に残った鎖の痕へ巻きつけている。いつもの大きな声は、一度も聞こえなかった。
ダンは空になった小瓶を鞄にしまいながら、こわばった指を、こっそり握ったり開いたりしている。
エルナさんは細身の剣を鞘に収めると、僕の顔をじっと見つめた。
「ティオくん、額に汗をかいているわ。……ティオくんでも、汗をかくことがあるのね」
後ろで結んだ青い髪紐が、かすかに揺れた。
エルナさんの言葉に、僕は少し恥ずかしくなって袖で顔を拭った。
「はい。相手の人、すごく強かったので。ほんの少しだけ、苦戦してしまいました」
僕の言葉に、ダンの顔が引きつった。
「どこが苦戦だよ!一歩も動かずに業火を防いで、木剣の一振りで吹き飛ばしたじゃねえか!」
「いや、でも、すごく熱かったし、汗もかいたので……」
ダンが天を仰ごうとした、その時だった。
ずり、ずり。
部屋の隅から、服の擦れるような嫌な音が聞こえた。
倒れていたザルクが、壁に手をついて、必死に上半身を起こそうとしている。
僕ははっとして木剣を構え直した。
「まだ動けるのか……!」
ピュータン先生が低く唸る。折れた杖の欠片が、ザルクの手からこぼれ落ちた。それでも、布の奥の瞳には狂気のような光が宿っている。
「……終焉竜は、目覚める」
かすれた、呪いのような声が地下室に響いた。
「我らが神の目覚めを、止めることはできぬ……。鍵はもう、王都にある……」
ザルクはそれだけを言い残すと、糸の切れた操り人形のように床へ倒れ伏した。その体が、足元からさらさらと灰になって崩れていく。
僕が駆け寄った時には、灰色の外套だけが、床の上に抜け殻のように残っていた。
静まり返った地下室に、松明の火がはぜる音だけがパチリと鳴った。
終焉竜。そして、王都にあるという鍵。意味のわからない言葉のはずなのに、なぜか背筋が凍るような冷たさを感じて、僕は木剣の柄を強く握りしめた。




