第29話 消えた教官
指先から伝わる微かな熱が、僕の鼓動を急に早めた。
ついさっきまで、誰かがこの教官室にいた。それも、あの気味の悪い紋章を残していくような誰かが。
僕は慌てて窓から身を乗り出し、月明かりに白く照らされた訓練場を見下ろした。風が木々の葉をざわめかせる音と、遠くで夜警の騎士が歩く金属の響きだけが聞こえる。怪しい人影は、もうどこにもなかった。
窓枠に置いた手に力を込めると、古い木がぎしりと鳴った。
振り返り、黒い焦げ跡の残る机を見つめ直す。灰色の円環に三本の爪痕。森の主の額にあったものと、寸分違わぬ形をしている。
ピュータン先生は、この紋章のことを調べていた。そして、突然の旅立ち。嫌な予感がして、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
部屋の隅に置かれた大きな振り子時計が、低く重い音を立てて時を刻んでいる。
誰かに知らせるべきだろうか。でも、相手がどんな手を使うのかわからない以上、むやみに騒ぎ立てるのは危険な気がした。かくれんぼでリリさんが仕掛ける罠は、焦って動いた時ほど深くはまるようにできていたからだ。
僕はもう一度、まだかすかに温かい焼印に指先で触れ、その熱をしっかりと確かめてから、静かに教官室を後にした。
翌朝、大食堂はいつも以上にざわついていた。
ピュータン教官が急な長期休暇に入り、しばらく実技の授業は別の教官が代行するという張り紙が出たのだという。
広い食堂の隅で、僕たちは四人だけで長い机を囲んでいた。周りのテーブルには誰も座っていない。貴族の生徒たちが遠巻きにこちらを見ながら、ひそひそと言葉を交わしている。
王城に呼ばれてからというもの、僕はすっかり特別な目で見られるようになってしまった。
少し冷めたスープを飲み込みながら、ダンが渋い顔で腕を組んだ。
「あの教官が、急に休暇なんて取るか?出ていく時はピンピンしてたんだぞ」
「はい。先生が発つ前の日の夕方、僕も直接お話ししました。少し調べたいことがあるって……。お前は首を突っ込むなとも言われました」
向かいの席で、ヴィクトルさんが大げさに深く頷く。
「いかにも!あの歴戦の猛者が、愛する生徒たちに背を向けて優雅に骨休めなどあり得ませんな。これは間違いなく、王国の闇に関わる極秘任務の類!」
「お前は少し黙ってろ」
隣に座るエルナさんが、後ろで結んだ青い髪紐を揺らして、真剣な目で僕を見た。
「ティオくん。その調べたいことって、何か心当たりはあるの?」
僕は少し迷ってから、昨夜、教官室で見たことを三人に話した。先生の机に残されていた、まだ温かい灰の紋章の焼印。
ダンの顔から、さっと血の気が引いた。
「……それ、絶対やばいやつじゃねえか。そいつら、学院の中まで平気で入ってこられるってことだろ?」
「教官は、その危険にいち早く気づき、自ら囮となって我々を……?なんという自己犠牲の精神!」
「だからお前は黙ってろって!」
僕たちは、先生の手がかりを探すことにした。とはいえ、ここは見渡す限り石造りの建物が並ぶ王都だ。村の裏山なら足跡や折れた枝で誰がどこへ行ったかわかるけれど、きれいに掃き清められた石畳の道ではそれもできない。
どうやって探せばいいのか見当もつかない僕たちの前で、動いたのがダンだった。
「王都の噂なら、商人に聞くのが一番早い。俺がちょっと、実家の連中を締め上げてくる」
「ダン、大丈夫ですか?実家のお兄さんたちとは、あまり仲が良くないんじゃ……」
「背に腹は代えられねえよ。それに、今の俺には『ティオの親友』って最強の肩書きがあるからな」
そう言って、ダンは放課後になると一人で街へ飛び出していった。
数時間後。すっかり日が落ち、窓に夜の闇が映る頃、寮の談話室の扉が勢いよく開いた。
戻ってきたダンは少し息を切らしながら、一枚の羊皮紙を談話室の机に広げた。
「はあ、はあ……。コルト商会の情報網を舐めるなよ。最近、王都の外れにある廃教会で、不審な連中が出入りしてるって噂を掴んだ」
羊皮紙には王都の簡易的な地図が描かれており、外れの場所に赤いインクで印がつけられていた。
ダンの鞄からは、中に入っている小瓶が触れ合うかすかな音がしている。ずっと走って帰ってきてくれたのに違いない。
「夜中になると、顔を隠した灰色の外套の連中がこっそり集まってるらしい。……あの紋章の連中の隠れ家かもしれない」
「よく聞き出せましたね。お兄さんたち、怒っていませんでしたか?」
「へへっ、伊達に商会の息子をやってないぜ。兄貴たちに頭を下げるのは屈辱だったが、『深層の主を倒した英雄の機嫌を損ねていいのか』って脅してやった。あいつら、青い顔して帳簿の裏の裏まで見せてくれたよ」
ダンは得意げに鼻を鳴らした。
「すごいですね、ダン。これなら先生を見つけられるかもしれません」
地図を見つめる僕の手は、自然と強くこぶしを作っていた。
もし、あの紋章の連中が先生を捕まえているなら。先生は強い人だけれど、相手が何をしてくるかわからない。早く行かないと、取り返しのつかないことになるかもしれない。
「……僕、行ってきます」
僕は立ち上がり、ゴルドじいちゃんの木剣を腰に差した。手のひらに、使い込まれてすり減った柄の感触が馴染む。
「おいおい、今からかよ!?もう外は真っ暗だぜ」
「はい。先生が心配なので。皆さんはここで待っていてください」
一人で行けば、誰かに怪我をさせる心配もない。そう思って談話室の扉に手をかけた時、背後から袖を強く引かれた。
振り返ると、エルナさんが僕のえんじ色の上着の袖を、きつく握りしめていた。
「……一人で行かせないわ」
その声は少し震えていたけれど、青い瞳は真っ直ぐに僕を射抜いていた。
「相手は、森の主に紋章を焼き付けたような連中よ。いくらティオくんでも、何があるかわからない。……それに、私たちは同じ班でしょう?」
「でも、危ないですから」
「だからよ。ティオくんが危ない目に遭うかもしれないのに、ここで待っていられるわけがないじゃない」
エルナさんの強い言葉に、僕は小さく息を吐いた。村のみんなは、危ない時はいつも僕を家の中に隠した。でも、エルナさんは一緒に立ち向かおうとしてくれる。
「わかりました。……絶対に、僕の後ろから離れないでくださいね」
「ええ。約束するわ」
ヴィクトルさんが、愛用の杖を高く掲げた。先端の赤い石が、部屋の明かりを受けてぎらりと光る。
「このヴィクトルの爆炎も、ティオ殿と共におりますぞ!いかなる悪党も、この炎で灰燼に帰してみせましょう!」
ダンが頭を抱えて、深くため息をついた。
「あーあ、俺の平穏な学院生活が……。わかったよ、俺も行く。回復薬と目眩まし玉はたっぷり持ってきたからな」
王都の夜の街は、中心部こそ華やかな明かりが灯っていたが、外れに近づくにつれて人影はまばらになっていった。
石畳の道は途切れ、足元は土と砂利に変わる。靴の裏から伝わるごつごつとした感触が、王都の賑わいから遠ざかっていることを教えてくれた。月明かりを頼りに進む四人の足音だけが、不気味なほど静かな夜の空気に響いている。
やがて、目的の場所に辿り着いた。
王都の外れにあるその場所は、かつては立派な教会だったのだろう。崩れかけた石壁の周りには背の高い雑草が生い茂り、割れた色硝子の窓が、黒い穴のように口を開けている。
夜の静寂の中で、虫の音すら聞こえない。
冷たい風が吹き抜け、枯れ草がカサカサと乾いた音を立てた。
「嫌な気配がするわね……」
エルナさんが、細身の剣の柄に手を添えて呟いた。
僕はかくれんぼの時と同じように、建物の周りの空気の流れを探った。
「……建物の裏側に、地下へ続く階段があります。見張りが二人」
「任せてください、ティオ殿!我が爆炎で跡形もなく……」
「駄目です。音を立てたら、中にいる先生が危ないかもしれません」
僕はヴィクトルさんの口を手で塞ぎ、音を立てずに裏手へと回り込んだ。
灰色の外套を着た二人の男が、錆びた鉄扉の前に立っている。僕は足音を消して背後に近づき、二人の首筋をそっと指で突いた。それだけで彼らは崩れ落ち、静かに眠りについた。
「……相変わらず、鮮やかすぎるだろ」
ダンの小声のぼやきを背中で聞きながら、僕は地下への重い扉をゆっくりと開いた。
冷たい石の階段を下りていくと、カビと土の匂いに混じって、焦げたような匂いが鼻を突いた。奥の通路には、松明の明かりがぼんやりと揺れている。
その時、暗がりの奥から、野太い声が微かに響いてきた。
「……舐めるな、小童どもが。その程度の炎で、この俺が屈すると思うか……」
かすれているけれど、間違いない。ピュータン先生の声だった。




