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第28話 副学院長の個人指導

 国王陛下との謁見を終え、僕たちは学院の日常に戻ってきた。


 陛下からのささやかな褒美は、後日学院に届けられるという。僕としては、迷宮の床を壊したことを怒られずに済んだだけで十分だったのだけれど、事態は思わぬ方向へ転がり始めていた。


 王城に招かれたという話は、あっという間に学院中に知れ渡ったらしい。


 朝、寮を出て廊下を歩けば、見知らぬ生徒たちが遠巻きにこちらを指差して、ひそひそと囁き合う。


 部屋の扉を開ければ、隙間に差し込まれていた手紙が、雪崩のように足元へこぼれ落ちてきた。赤、緑、紫。封蝋の色も家紋もばらばらで、どれも見たことのないものばかりだ。授業中も、背中にたくさんの視線が突き刺さって落ち着かない。


 一番困ったのは、大食堂での昼食だった。


 僕とダンが席につくと、周りのテーブルからさっと人が消えてしまう。まるで、近づいてはいけない魔物のように扱われている気がした。広い長机に、僕たちのお皿だけがぽつんと並んでいる。


「どうしてこんなことに……」


 少し冷めたシチューをすくいながら、僕は思わずため息をついた。


「俺たちの班が未知のSランク魔物を討伐したって噂が、完全に定着しちまったからな」


 向かいの席で、ダンが呆れたように肩をすくめる。


「俺なんて、コルト商会の兄貴たちから『お前はコルト家の希望だ』って、急に手のひらを返したような手紙が来たぜ。あの長男が俺を褒めるなんて、明日には世界が滅ぶかもしれない」


 冗談めかして笑うダンだけれど、その顔は少しだけ引きつっていた。


 隣に座るエルナさんが、紅茶のカップを静かに受け皿へ戻す。


「王城から正式に招待されたのだもの。注目を集めるのは、無理もないことよ」


「でも、僕はただ、普通の学院生でいたいだけなのに」


 ぽつりとこぼした僕の言葉に、二人は顔を見合わせた。


 本当に、それだけだった。普通の友達と、普通に授業を受けて、普通に笑い合って卒業したい。村を出る時、母さんに「友達を作ってきなさい」と言われた。その友達と、こうして同じ机でご飯を食べられれば、それで十分なのだ。


 ダンは頭をぽりぽりと掻き、エルナさんはどこか困ったように微笑んだ。


「ティオくんの普通は、少しだけ他の人と違うから」


 その横で、ヴィクトルさんだけが一人、腕を組んで力強く頷いている。


「皆の者、ティオ殿の偉大さにようやく気づいたようですな!いっそ、学院の正門前にティオ殿の彫像を建てるよう、この私が学院長に進言いたしましょうか!」


「やめてください、ヴィクトルさん。これ以上目立ったら、食堂で座る席がなくなってしまいます」


 僕は慌てて首を横に振った。


 その日の放課後。図書室へ向かう廊下を一人で歩いていると、穏やかな声に呼び止められた。


「ティオさん。少しよろしいですか」


 振り返ると、銀色の髪を後ろで綺麗にまとめたマルヴィス副学院長先生が立っていた。仕立てのいいローブの胸元で、学院の要職を示す紋章が光っている。先生はいつものように、目尻に優しい皺を寄せて微笑んでいた。


「マルヴィス先生。はい、何かご用でしょうか」


「ティオさんの素晴らしい才能について、少しお話をと思いましてね」


 先生は周りをちらりと見てから、声を潜めた。


「今のティオさんは、いささか目立ちすぎている。周りの目も、気になっているのではありませんか?」


「はい……。正直、すごく困っています」


「でしょうね。そこで、私から一つ提案があります。放課後の時間を使って、私がティオさんに個人指導を行いましょう」


 個人指導。その響きに、僕は思わず顔を上げた。


「私の部屋であれば、人の多い訓練場を避けることができます。周りの騒ぎがおさまるまで、静かに学ぶことができるはずですよ」


 その言葉は、僕にとってとても魅力的だった。


 普通の学院生として静かに過ごすためには、目立たない場所が必要だ。才能を伸ばすというより、隠れ家が欲しかった僕は、その申し出に飛びついてしまった。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 副学院長室は、学院長室の一つ下の階にあった。


 窓からは訓練場が見下ろせるのに、厚いカーテンが半分引かれていて、部屋の中は昼でも薄暗い。重厚な執務机の上には、ペン一本、紙一枚に至るまで、物差しで測ったようにきちんと並べられていた。本棚の背表紙も、高さも色もぴたりと揃っている。


 窓辺に、小さな真鍮の香炉が置かれていた。火は入っていない。それなのに、部屋の空気には、甘ったるい香りがかすかに残っていた。


 講義は、魔法の基礎理論と、魔力の制御について。


 先生の説明はとてもわかりやすくて、村でオズ先生に教わった読み書き計算の授業を思い出すほどだった。


 けれど、指導を受けている間じゅう、僕は妙な感覚にまとわりつかれていた。


 うなじの産毛が、ちりちりと立っている。リリさんが罠を仕掛けた部屋に、知らずに足を踏み入れた時と同じ感じだ。


 部屋には、先生と僕しかいない。それなのに、カーテンの陰のあたりに、もう一人分の息づかいがあるような気がした。目をやっても、厚い布が静かに垂れているだけだ。


 先生は親切で、言葉遣いも丁寧だ。


 悪い人には、とても見えない。


「どうしました、ティオさん?顔色が優れませんね」


「いえ……なんでもありません」


 きっと、慣れない部屋で緊張しているだけだ。僕は自分にそう言い聞かせて、教科書に目を戻した。


 翌日の夕方には、今度はピュータン先生から呼び出しがかかる。


 教官たちの控室を訪ねると、先生は大きな革袋に荷物を詰めているところだった。傷だらけの革鎧を着込み、腰には使い込んだ剣を差している。いつでも戦えるような身支度だ。


「先生、どこかへ行かれるんですか?」


「ああ。少し調べたいことがあってな。しばらく学院を空ける」


 先生は僕を見て、鋭い眼光を少しだけ和らげた。


「例の紋章の件ですか?」


 小声で尋ねると、先生は答えずに、荷物の紐をきつく縛った。


「坊主。お前は首を突っ込むなと言ったはずだ。ただの野暮用だよ。俺がいない間、無茶はするなよ」


 先生は大きな手で、僕の頭をがしがしと乱暴に撫でた。


 それから革袋を肩に担いで、部屋を出ていく。


 左膝をかばう歩き方は、もうどこにもなかった。まっすぐな大きな背中が廊下の角を曲がって、見えなくなる。


 ◇◇◇


 ――ザルク


 王都の外れ。打ち捨てられた廃教会の地下に広がる暗がりの中で、私は灰色の外套を深く被り直した。


 燭台の小さな炎が一つだけ、湿った石壁を照らしている。カビと土の匂いに混じって、甘ったるい香が漂っていた。足元には、灰色の円環に爪痕をあしらった印を持つ信徒たちが、音もなく平伏している。


「深層での実験は、あの少年に潰された」


 私の言葉に、信徒たちの肩がわずかに震えた。


 我らが神の目覚めのために用意した、極上の魔物の群れ。それが、どこの馬の骨とも知れぬ一年生によって、塵に帰したのだ。


「だが、計画に狂いはない。目覚めの日は近い」


 私は、信徒の一人に視線を向けた。


「学院を嗅ぎ回っている教官がいる。あのお方からの、直々のご命令だ。あれを、速やかに灰に還せ」


 信徒が、深く首を垂れる。


 燭台の炎が、ふっと揺れた。神の息吹が、この王都を焼き尽くす日は遠くない。


 ◇◇◇


 ピュータン先生が学院を発ってから、数日が過ぎた夜。


 先生に出しそびれていた課題の羊皮紙を、机に置いておこうと思った。誰もいない教官室の扉を、そっと押し開ける。


 部屋の中は暗く、窓から差し込む月明かりだけが、床に白い四角を落としていた。昼間はあんなに騒がしい部屋なのに、今は自分の足音しか聞こえない。


 先生の机は、きれいに片付けられていた。


 椅子もきちんと机の下に押し込まれている。出発の前に、先生が自分で片付けていったのだろう。


 ただ一つ、違和感があった。


 書類の置かれていない広い机の真ん中に、ぽつんと黒い焦げ跡が残されている。近づいて、指先でそっと触れてみた。


 まだ、かすかに温かい。


 背中に、冷たいものが走った。月明かりの中で、焦げ跡の形がはっきりと浮かび上がる。


 灰色の円環に、三本の爪痕。


 あの森の主の額に焼き付けられていたのと同じ、灰の紋章の焼印だった。

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