第27話 王と暁の旅団
エルナさんの言葉を合図に、僕たちは王城の正門をくぐった。
中に入ったとたん、外の物音がすっと遠くなった。足元には、どこまでも続く赤い絨毯が敷かれている。踏むと靴が少し沈んで、足音がまるで聞こえない。村の家なら、夜中にこっそり水を飲みに起きても、床板の軋みで母さんにすぐばれるのに。
天井は、村の家を三つ重ねても届かないくらい高かった。大理石の柱が両側に並び、窓から差し込む初夏の日差しを受けて、表面がしっとりと光っている。
「姫様!お帰りなさいませ」
廊下の角から、年配の侍女さんが小走りでやってきた。目尻にたくさんの皺を寄せて、エルナさんの手を両手で包み込む。
「ただいま。……もう、そんなに走らないで。腰を痛めるわよ」
「まあ、学院へ行かれてから、すっかりお口が達者になって」
侍女さんは目を潤ませて笑い、それから僕たちに深々と頭を下げて下がっていった。エルナさんは少しだけ照れくさそうに、前髪を指で直している。
ここは、エルナさんの家なのだ。
廊下の窓から、ひときわ高い塔が見えた。
あの塔のいちばん上の窓から、小さい頃のエルナさんは、街の丘を眺めていたのだろう。そう思うと、ただの石の塔が、少しだけ違うものに見えた。
「落ち着け俺。相手は国王陛下だぞ。一言でも言い間違えたら、兄貴たちに一生笑いものにされる……」
隣のダンは、ひたすら深呼吸を繰り返している。手と足が一緒に前に出ていて、歩き方がすっかりぎこちない。
「大丈夫ですよ、ダン。ただのご挨拶だって、エルナさんも言っていましたし」
「お前はなんでそんなに普通なんだよ……!」
ダンが、恨めしそうに僕を睨んだ。
僕だって、平気なわけではない。ダンジョンで迷子になったうえに、大きな魔物の首まで担いで帰ってきてしまった。怒られるかもしれないと、ずっと心配していた。
弁償しろと言われても、迷宮の床を直すお金なんて持っていない。母さんが送ってくれた干し肉を売るわけにもいかない。
「堂々としていればいいのですぞ!我らは誇り高き凱旋を果たしたのですからな!」
ヴィクトルさんは金の刺繍だらけの礼服を翻し、胸を張って歩いている。すれ違う近衛兵たちに優雅に手を挙げているけれど、兵士たちは困惑した顔で会釈を返していた。
やがて案内されたのは、謁見の間。
両開きの大きな扉が開くと、細長い広間がまっすぐ奥へ延びていた。床は鏡のように磨かれた白い石で、僕たちの姿が逆さまに映っている。左右の高い窓には色硝子がはめ込まれ、床の上に赤や青の光の模様を落としていた。
ヴィクトルさんの靴が、きゅっと鳴った。その小さな音が、広間の奥まで響いていく。
いちばん奥の、一段高くなった玉座に、初老の男の人が座っていた。
国王レオポルト三世。エルナさんのお父さんで、この国でいちばん偉い人だ。白いものの混じった髭をたくわえ、背筋をまっすぐに伸ばしている。威厳のある佇まいなのに、その目にはどこか温かい光があった。
僕たちが玉座の前に並んで深く頭を下げると、国王陛下はゆっくりと頷いた。
「面を上げよ。よく来てくれたな、若き俊英たちよ」
深く、よく響く声だった。
「試練の迷宮における深層の異常。そして、未知の魔物の討伐。教官たちから詳細な報告は受けている。一年生でありながら、見事な働きであった。余から直接、礼を言わせてもらう」
「もったいないお言葉にございます!」
ヴィクトルさんが、大げさにひざまずいて叫んだ。ダンは横で直立不動のまま、借り物の少し袖の長い礼服の中で、石像のように固まっている。
国王陛下の目が、エルナさんの上で止まった。
ほんの一瞬、玉座の肘掛けを握る指に、ぎゅっと力がこもったのが見えた。
「エルナ。……お前も、無事でよかった」
さっきまでとは少しだけ違う、低くて柔らかい声だった。
「首席としての務め、立派に果たしたな」
「はい、お父様。ですが、私一人の力ではありません。班の皆がいたからこそ、生きて帰ることができました」
エルナさんが、白い制服姿で美しく礼をする。
顔を上げた時、その目が少しだけ潤んでいるように見えたけれど、すぐにいつもの凛とした表情に戻った。
国王陛下の視線が、ゆっくりと僕に向いた。
「シルト村のティオ、と言ったな」
「はい。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「報告書を読んで、余は己の目を疑った。未知の魔物……Sランクを優に超える巨大な獣の首を、たった一人で地上へ担ぎ上げたと。重傷を負う者すら出さずにだ」
「あ、はい。証拠がないと、迷子になった言い訳だと思われるかと思いまして」
やっぱり、怒られるのだろうか。
身構えていると、国王陛下は目を丸くして、それからふっと口元をほころばせた。
「言い訳、か。なるほど、君にとってはあの働きも、その程度の認識なのだな」
「村ではもっと重い鉄の塊を運んでいましたから、あれくらいなら、ただの力仕事です。それより、床や壁を壊さないように気をつけるほうが大変でした」
「……力仕事」
国王陛下は、その言葉をゆっくりと繰り返した。まるで、聞いたことのない外国の言葉でも口にするみたいに。
隣でダンが「……陛下の前でも、それ言うのかよ」と、蚊の鳴くような声でぼやいている。
「木剣の一振りで、あの硬い甲殻ごと首を断ち切ったというのも本当か?」
「はい。天井を割らないように、百分の一くらいに力を抜いて、薪割りの要領で振りました。驚かせてしまってすみません」
「ひゃくぶんの……いや、薪割りだと?木剣でか?」
国王陛下が、玉座から身を乗り出した。
僕は何か、おかしなことを言っただろうか。薪割りは、村では子どもの仕事なのだけれど。
「さすがはティオ殿!神の如き一撃、このヴィクトルも深く感銘を受けましたぞ!」
「ヴィクトルさん、大げさですよ」
僕が慌てて否定すると、エルナさんが小さく息を吐いた。
「お父様。ティオくんはいつもこうなのです。彼にとっては、それが本当に『普通』の基準のようで。……私はもう、いちいち目を丸くするのはやめました」
あきれたように笑うエルナさんを見て、国王陛下は少しだけ目を細めた。
「そうか。エルナ、お前は学院で良い友を得たようだな。あんなに楽しそうな顔をするお前を見るのは、久しぶりだ」
「お父様ったら……!」
エルナさんが、耳を赤くしてうつむいた。
国王陛下の口元が、ほんの少しだけ緩む。玉座の上の王様ではなく、娘をからかうお父さんの顔だった。
国王陛下は再び僕に向き直り、今度は少しだけ真剣な、懐かしむような色を瞳に浮かべた。
「ティオよ。君の恐ろしく純粋な一撃の話を聞いて、余はある者たちのことを思い出したのだ」
「ある者たち、ですか?」
「十五年前のことだ。この大陸を脅かした、大いなる災厄があった。それに立ち向かい、命と引き換えに脅威を封じ込めた七人の英雄たちがいたのだ」
広間の空気が、少しだけ引き締まった。
色硝子の光の模様が、いつの間にか床の上で少し位置を変えている。
十五年前。僕がちょうど生まれた頃の話だ。
「彼らは『暁の旅団』と呼ばれていた。剣聖、大賢者、大聖女……それぞれが極致に至った者たちの集まりだった。公式の記録では、彼らはその戦いで全員が戦死したことになっている」
「そんなすごい人たちがいたんですね」
命をかけて、誰かを守る。
母さんが言っていた「本当に守りたいものができた時」というのは、そういう覚悟のことなのだろうか。それはとても立派で、同時に、少しだけ悲しいことだと思った。
「君の構え、そして大地に根を張るような力の使い方。それは、暁の旅団の一人であった『剣聖』を彷彿とさせるものだと、ピュータン教官が言っていた」
「僕なんかが、そんな英雄の方と比べられるなんて光栄です。でも、僕の剣は村のおじいちゃんに習った、ただの薪割りですから」
「村の、おじいちゃん……」
国王陛下が、呆然とつぶやく。
隣でダンが「お前のじいちゃんが一番おかしいんだよ……」とさらに小さな声でぼやき、ヴィクトルさんは「隠れ里の達人!やはりティオ殿は選ばれし者!」と一人で頷いている。
「……そうか。ただの、薪割りか」
国王陛下は何かを飲み込むように息を吐き、静かに微笑んだ。
「よかろう。これからもその力で、良き学友たちと切磋琢磨してほしい。余からのささやかな褒美は、後日学院に届けさせよう」
「ありがとうございます!」
怒られずに済んだうえに、褒美までもらえるらしい。僕は心からほっとして、深く頭を下げた。
退出しようと扉へ向かいかけた時、背中に声がかかった。
「エルナ」
エルナさんが、足を止めて振り返る。
国王陛下は玉座に座ったまま、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「……たまには、顔を見せに帰ってきなさい」
「……はい、お父様」
エルナさんは短く答えて、もう一度だけ深く礼をした。扉を出たあと、彼女はしばらく何も言わずに歩いていた。その横顔が、なんだか少し嬉しそうに見える。
◇◇◇
――国王レオポルト三世
若者たちが退出した謁見の間に、静けさが降りた。
私は誰もいなくなった扉を見つめたまま、玉座の背もたれに深く体を預ける。
エルナの髪に、見慣れない青い紐が結ばれていた。城にいた頃のあの子は、侍女が選んだ髪飾りしかつけようとしなかったものだ。あれを誰が選んだのかは、聞かずとも察しがつく。父親というものは、こういう時にどんな顔をすればいいのだろうか。
シルト村のティオ。
あの少年は、自分の異常さにまったく気づいていなかった。その無自覚な強さと、少しずれた素直さには、覚えがある。
十五年前。まだ王太子だった私は、出陣を明日に控えた夜、城の裏庭で薪を割る男を見た。灰色の髪の剣士。厨房に頼まれたのだと言って、斧をひょいと振り下ろした。
薪は、下の台座の石ごと真っ二つ。
料理長に叱られて、その男は頭を掻きながら、本気で申し訳なさそうに謝っていた。この国でいちばん強いはずの男が、だ。
木剣でSランクの魔獣の首を断つ、薪割り。
村の、おじいちゃん。
「……彼らは、本当に死んだのだろうか」
誰に宛てるでもないつぶやきは、色硝子の光の中に溶けて、静かに消えた。




