第25話 王都の休日
真っ赤な封蝋の封筒を前にして、ダンが頭を抱え込んだ。
「お、王城に行くなんて聞いてねえぞ。俺、そんないい服なんて持ってないし……」
「ならば、我がベルンハイム家のお抱え仕立屋を呼びましょうか!」
ヴィクトルさんが胸を張るけれど、ダンは「侯爵家御用達の服なんて、一生かかっても払いきれねえよ!」と青ざめている。
「ティオくんはどうするの?王城に着ていけるような礼服は持っているかしら」
エルナさんに聞かれ、僕は自分の服を見下ろした。村を出る時に母さんが持たせてくれた、妙に質のいい服が数着あるだけだ。丈夫で動きやすいけれど、国王陛下に会うための服ではないだろう。
「これしかありません。村には服屋さんがなかったので」
僕が正直に答えると、エルナさんは少し考え込んだ。
「なら、明日の休日に、王都の街へ買いに行きましょう。私がティオくんの服を見立ててあげる」
「えっ、エルナさんがですか?」
「ええ。王城でどんな服がふさわしいかは、私が一番よく知っているもの」
エルナさんが微笑むと、ダンとヴィクトルさんが不自然に顔を見合わせた。
「あー、俺は明日は実家の商会で野暮用があるんだった。二人で行ってきてくれ」
ダンが、わざとらしく視線を逸らす。
「こ、この私も、明日は次期当主としての重要な修練が!ティオ殿のお供ができず、痛恨の極み!」
ヴィクトルさんも大げさに敬礼して、そそくさと後ずさっていった。
(二人とも、忙しいんだな)
王城へ行く服を、僕一人で選べるはずもない。
「じゃあ、明日は二人ですね。よろしくお願いします、エルナさん」
僕が頭を下げると、エルナさんは少しだけ頬を赤くして、「ええ、よろしくね」と頷いた。
翌日。
待ち合わせの学院の正門前に、エルナさんが現れた。
いつもの制服でも、訓練場の白い修練着でもない。淡い水色の簡素なドレスに、つばの広い帽子を深く被っている。金髪は後ろでひとつにまとめられていて、どこにでもいる、少し裕福な家の娘さんのように見えた。
「お待たせ、ティオくん。……変じゃないかしら」
エルナさんが、帽子のつばを指でつまんで、少しだけ持ち上げる。影の中から、青い瞳がこちらをうかがっていた。
「すごく似合っています。村の、春の朝の空と同じ色です」
思ったままを言うと、エルナさんは帽子のつばをぐいっと引き下ろした。
顔が、半分くらい隠れてしまう。
「……そういうことを、さらっと言わないで」
「すみません。何か、まずかったですか?」
「まずくないから困るのよ」
よくわからないけれど、怒ってはいないみたいだ。
「王女だと知られたら、ゆっくり買い物なんてできないでしょう?だから今日は、ただの『エルナ』よ」
エルナさんはそう言って、いたずらっぽく笑った。
王都の目抜き通りは、休日を楽しむ人たちでごった返していた。
馬車の車輪が石畳を鳴らし、道の両側では、果物や布や焼き菓子の店が呼び込みの声を張り上げている。村なら一年かけても会わないくらいの数の人が、ほんの少し歩くあいだに、僕の横を通り過ぎていった。
人の流れに押されて、エルナさんとの間に隙間ができる。
と、袖がくいっと引かれた。
振り返ると、エルナさんが僕の袖の端を、指先でつまんでいた。
「……はぐれたら、困るでしょう」
「はい。助かります」
エルナさんは前を向いたまま、袖を離さなかった。
帽子のつばの下で、耳の先だけが赤い。
連れられて入ったのは、通りから一本入った静かな仕立て屋だった。棚には、きちんと畳まれた上着や外套がずらりと並んでいる。
「これなんてどうかしら」
エルナさんが、深い紺色の上着を手に取って、僕の体に当てた。それから少し首を傾げて、隣のえんじ色の上着と見比べる。
「紺は、ちょっと真面目すぎる。……こっち。えんじ色のほうが、ティオくんらしい。あったかい感じがするもの」
言われるままに着替えて袖を通すと、布がするりと腕を滑った。村の服のごわごわした手ざわりとは、まるで違う。肩も袖丈も、測ったようにぴったりだった。
試着室から出ると、エルナさんは目を丸くして、それからふっと柔らかく微笑んだ。
「……ええ、すごくいい。見違えたみたい」
「まあまあ、よくお似合いですこと」
奥から出てきた白髪の店主のおばあさんが、僕とエルナさんを交互に見て、にこにこと目を細めた。
「お嬢さんの見立てでしょう?本当に、お似合いのお二人ですねえ」
エルナさんの肩が、びくりと跳ねた。
「はい。エルナさんが選んでくれたので、僕もよく似合っていると思います」
僕がうなずくと、店主さんは「あらあら」と口元を押さえて笑い、エルナさんは帽子のつばで顔を全部隠してしまった。
代金は、ギルドでもらった報奨金で問題なく払える。
店を出たあと、僕たちは賑やかな大通りへ戻った。屋台で、焼きたての串焼きを二本買う。
「おいしいです。歩きながら食べるのって、なんだか楽しいですね。村では、お行儀が悪いって母さんに叱られるので」
僕がしみじみ言うと、エルナさんは串焼きをかじりながら、くすっと笑った。
「ふふっ、ティオくんは本当に、おいしそうに食べるのね」
通りの端の小さな露店に、細い髪紐がたくさん吊るされていた。風が吹くたびに、色とりどりの紐がさらさらと揺れている。その中の一本に、目が止まった。
深い青色の、絹の髪紐だ。エルナさんの目の色に、よく似ている。
「すみません、これをひとつください」
「ティオくん、それ……」
「今日のお礼です。服を選んでもらったので」
小さな紙の包みを差し出すと、エルナさんはしばらく、それを見つめたまま動かなかった。それから、両手でそっと受け取る。
まるで、壊れやすい卵でも預かるみたいに。
「……ありがとう。大事にするわ」
広場に出ると、人だかりの中で大道芸人が火を吹く芸を披露していた。口から大きな炎が噴き上がるたびに、見物人から拍手と歓声が上がる。
「すごいですね。でも、袖口から火の粉が出る小さな玉を、こっそり投げているみたいです。リリさんのかくれんぼの罠によく似ています。リリさんなら、もっと上手に隠しますけど……」
感心して言いかけたところで、エルナさんが慌てて僕の口を手で塞いだ。
「しっ!駄目よ、そういうのは黙って楽しむものなんだから」
手のひらが、思ったよりずっと柔らかい。少しだけ、胸がどきりとした。
エルナさんはハッとして手を離し、「ご、ごめんなさい」と耳まで真っ赤にして目を逸らした。どうして謝られたのか、僕にはよくわからない。
夕暮れ時。
僕たちは、王都を見下ろす小高い丘の上の公園にいた。木陰の長椅子に並んで座ると、昼間の熱をなくした風が、少し冷たく首筋を抜けていく。眼下の屋根という屋根が、茜色に染まっていた。
遠くで、夕方の鐘が鳴る。
村では、この時間になると山の影が畑まで伸びてきて、母さんが鍋を火にかける音がした。ここでは、街じゅうの煙突から白い煙が上がっている。数えきれないほどの家で、今、夕飯の支度が始まっているのだろう。
「……今日は、とても楽しかった」
エルナさんが、膝の上で紙の包みを握りながら、ぽつりと言った。
「僕も楽しかったです。王都の街をこんなにゆっくり歩いたのは、初めてでしたから」
エルナさんは、遠くを指さした。屋根の海の向こう、夕日を背にして、王城の尖塔がいくつも黒く立っている。
「あそこの、いちばん高い塔の窓からね。小さい頃、この丘をよく見ていたの。休みの日になると、街の子たちが走り回っているのが、小さな点みたいに見えて。いつか、あそこへ行ってみたいって思ってた」
「来られましたね」
「……ええ。やっと」
エルナさんの声には、どこか寂しげな響きが混じっていた。
「王城では、誰もが私を王女としてしか見てくれなかったわ。首席でなければならない。完璧でなければならない。私に近づいてくる人は、みんな、王族の私に何かを期待している人ばかりだった」
彼女はそこで言葉を切り、僕の顔をまっすぐに見つめた。
「でも、ティオくんは違った。最初から私を、ただの同級生みたいに扱ってくれた」
「村には王族の人なんていませんでしたから。僕にとって、エルナさんはエルナさんです」
素直に思ったことを言うと、エルナさんは目を丸くした。それから、困ったように眉を下げて、ふっと優しく微笑む。
「……そういうところよ」
小さな声で呟いて、彼女は手元の包みに目を落とした。指先で紙を開き、青い髪紐を取り出す。そのまま帽子を脱いで膝に置き、後ろでまとめていた髪を、新しい紐で結び直した。
夕日の中で、金色の髪に、ひとすじの青が通る。
「ありがとう、ティオくん。今日、一緒に過ごせて、本当によかった」
「どういたしまして。またいつでも、一緒に街を歩きましょう」
僕が笑うと、エルナさんは深く頷いた。
すっかり暗くなった道を歩いて、僕たちは寮の前まで戻ってきた。
「それじゃあ、また明日ね」
エルナさんが手を振って、女子寮のほうへ歩き出す。その背中がふと立ち止まって、彼女は振り返った。
「あのね、ティオくん」
「はい、何でしょう」
エルナさんは何かを言いかけて、少しだけ口ごもった。街灯の光の下で、青い瞳が揺れている。
「……」
結んだばかりの髪紐に、そっと指で触れる。数秒の沈黙のあと、彼女はふるふると首を横に振った。
「いいえ、なんでもないわ。おやすみなさい」
エルナさんは足早に駆け出し、暗がりの中へ消えていった。
何を言おうとしたのだろう。村のことなら何でもわかるのに、エルナさんのことは、ときどき全然わからない。
首をひねりながら、自分の部屋の扉を開ける。
「おう、おかえり、ティオ」
ベッドに寝転がっていたダンが、勢いよく起き上がった。枕元には、読みかけの本と、食べかけの焼き菓子の袋が散らばっている。
「ただいま、ダン。商会の野暮用は、もう終わったんですか?」
「えっ?あ、ああ。まあな。思ったより早く片づいてな」
ダンの目が、天井のほうへ泳いだ。
「それより、どうだった?……いや、言わなくていい。お前の顔見りゃだいたいわかる。ヴィクトルなんか、昼から三回もこの部屋に様子を聞きに来たんだぞ」
「ヴィクトルさん、修練はよかったんでしょうか」
「知らねえよ」
ダンは笑って、机のほうを顎でしゃくった。
「それより、お前宛てに荷物が届いてたぞ」
机の上には、少し大きめの木箱が置かれていた。宛名には見覚えのある母さんの丸い字が書かれていて、箱の上には封筒が一通、紐で結わえつけてある。
「村からだ。仕送りが届いたみたいです」
僕は嬉しくなって、木箱に駆け寄った。




