第24話 教官会議
エルナさんの指先は、かすかに震えていた。
「エルナさん、どうしましたか?やっぱりどこか、痛むところでも」
僕が心配して顔を覗き込むと、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、どこも痛くないわ。ただ……本当に、生きて帰ってこられたんだなって」
あんなに暗くて深いところへ、いきなり落ちたのだ。怖かったに決まっている。
「はい。みんなで一緒に帰ってこられて、本当によかったです」
僕が微笑むと、エルナさんは少しだけ頬を染めて、袖を握る手にきゅっと力を込めた。
「ええ。ティオくんがいてくれて、本当によかった」
その頃、教官たちは僕が置いた魔物の首を囲んで、顔を突き合わせて大騒ぎになっていた。勝手にこんな大きなものを持ち帰ってしまって、やっぱり迷惑だったのかもしれない。
怒られる覚悟で、ダンやヴィクトルさんと並んで待つ。けれど教官たちは僕たちを責めるどころか、怪我がないかを何度も確かめて、すぐに学院へ帰してくれた。
◇◇◇
――ピュータン
教官たちが会議室に集められたのは、日がすっかり落ちてからだった。
長机の真ん中には、深層から運び出された黒い甲殻のかけらが一枚、布の上に置かれている。大人の胴ほどもある、分厚い破片だ。誰かが淹れた茶はとうに冷めきっていたが、口をつけた者は一人もいない。
『試練の迷宮』の地下に、学院すら把握していなかった深層があったこと。そこに巣食っていた魔物の群れと、その親玉が討伐されたこと。夕方に潜った調べの班が戻ってきてから、会議室のざわめきは一度もやんでいなかった。
「信じられん……あんな化け物が万が一、地上に這い出してきていたら、王都は火の海になっていたかもしれんぞ」
「だからこそ、冷静になるべきでしょう」
細い眼鏡をかけた魔法学の教官が、指先で机を叩いた。貴族の家の出で、平民の生徒にはいつも点が辛い男だ。
「たった四人の、それも一年生だけで討伐した?あり得ません。親玉はもともと弱っていた。あるいは、第二王女殿下や侯爵家のご子息が、家から持たされた強力な魔道具を使った。そう考えるほうが、よほど筋が通る」
何人かの教官が、ほっとしたようにうなずいた。わからないものを、わかる形に押し込めたいのだろう。気持ちはわかる。俺も、あの入学試験の日まではそっち側だった。
「弱っていた、か」
口を開いたのは、剣術担当の年配の教官だった。彼は黙って腰の剣を抜き、甲殻のかけらの横に置く。
刃の真ん中が、小さく欠けていた。
「入り口であの首を調べた時、試しに一太刀入れてみた。名工に打たせた鋼の剣だ。……甲殻には、傷ひとつつかなかったよ」
会議室が、しんと静まった。
「あの首の切断面を見たか。この甲殻ごと、一太刀で断ち切られている。切り口は、磨いた石みたいに平らだった。弱っていようがいまいが、関係ない」
眼鏡の教官は何か言い返そうとして口を開き、そのまま閉じた。
「深層を見てきた者の話も、聞いておいたほうがいい」
促されて、調べの班にいた若い教官が立ち上がった。手元の紙をめくる指が、わずかに震えている。
「親玉が倒れていた場所の手前で、岩壁が両側とも、ガラスのように溶けていました。とてつもない熱が通ったのだと思います。ですが、その真ん中だけ……四人分の足跡が残る場所だけが、扇の形に、まったく焼けていなかったんです」
「まるで、そこにだけ見えない壁が立っていたみたいに、か」
「はい。詠唱の跡も、魔法陣の焼け跡も、何もありませんでした」
若い教官は、紙をもう一枚めくった。
「それから、群れの魔物の死骸が……数えたら、四十三ありました。ほとんどが一撃です。斬られたものと、眉間を、その……石で打ち抜かれたものと」
「石?」
「はい。河原に転がっているような、ただの石です」
誰かが、乾いた笑い声をもらした。笑うしかなかったのだろう。
「最後に、天井です。あれだけの戦いがあったのに、天井には細いひびが一本あるだけでした。……まるで、天井を崩さないように、気を遣って戦ったみたいに」
眼鏡の教官の顔から、すっと色が引いていく。
「気を遣って……?あれだけの数を相手に、手加減していたとでも言うのですか」
答える者はいなかった。
俺は腕を組んだまま、深く息を吐き出した。
二十年前、俺はSランクの魔獣と一度だけやり合ったことがある。仲間六人がかりで、追い払うのがやっとだった。その代わりに、この左膝を持っていかれた。
「あり得るとかあり得ないとかの話じゃねえ。あの坊主……シルト村のティオは本物だ」
全員の目が、俺に集まる。
「あの首の切り口……俺は前にも見たことがある。入学試験で、あいつが試験用のゴーレムを真っ二つにした時の太刀筋と同じだ」
「その生徒が、一人で討伐したと?剣で?」
「ああ。それも――」
俺は少しだけ間を置いた。口にしたら、もう誰も元の物差しには戻れない気がした。
「あいつの得物は、木剣だ」
今度こそ、会議室から音が消えた。
眼鏡の教官は、ずれた眼鏡を直すのも忘れて、甲殻のかけらを見つめている。剣術担当の教官は、欠けた自分の剣に目を落としたまま動かなかった。
ついでに言えば、二十年治らなかった俺の膝を、あの坊主は「手当て」の一言で治しちまった。それは、この場で言うつもりはない。
「実に、素晴らしい生徒ですね」
不意に、穏やかな声が沈黙を破った。
上座の近くに座る副学院長、マルヴィスだ。目尻に優しい皺を刻んだ温厚な笑みのまま、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。この部屋で、こいつだけが少しも驚いていなかった。
「学院にとって、これほど頼もしい才能は他にありません。しかし、不思議ですね。その見えない壁のほうは、どうやったのでしょう。魔法でしょうか、それとも別の何かで?」
「……俺は直接見ていねえ。だが、坊主の仲間の話じゃ、本人は『ただの力仕事です』と言ったそうだ」
「力仕事、ですか。実に興味深い」
マルヴィスは、丁寧な口調を少しも崩さない。まるで、純粋な好奇心から尋ねているような顔だ。
「……シルト村、でしたね。あれほどの剣を、いったいどなたに習ったのでしょう」
「村のじいさんに、薪割りを習ったと言っていた。本人は、それだけだと思ってる」
「薪割り、ですか」
マルヴィスは楽しそうに小さく笑った。それから顎に手を当てて、何かを考えるように目を細める。
その底の知れない静かな瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何かを測るような冷たい光がよぎった気がした。
◇◇◇
ダンジョン実習から数日後。
僕たち四人の班は、冒険者ギルド王都本部に呼び出されていた。応接用の別室に通されると、ギルド長のドノバンさんと受付のマイラさんが、真剣な顔で待っていた。
「よく来てくれた。まずは、無事の帰還を心から喜ばせてもらうよ」
立派な髭を蓄えたドノバンさんが、僕たちに深く頭を下げた。
「学院から報告は受けている。君たちが持ち帰ったあの魔物の首は、ギルドの専門家でもすぐには全容が掴めないほどの、未知のSランク魔獣だった」
「Sランク、ですか」
僕が首を傾げると、マイラさんが身を乗り出してくる。
「ええ!東の森の主に続いて、まさか深層の主まで討伐してしまうなんて……ティオ様は本当に規格外の冒険者です!」
「いえ、僕は村ではいちばん弱いですから、規格外なんてことは……」
「これ以上ないほどの規格外だろ!」
隣に座っていたダンが、勢いよくツッコミを入れた。
ドノバンさんは豪快に笑い、一枚の真新しいカードを机の上に置く。
「君たちの働きは、王都を未曾有の危機から救ったと言っても過言ではない。よって、ティオのギルドランクを特例としてさらに昇格させる」
手渡されたカードには、新しいランクが刻まれていた。
【ギルドカード】
名前:ティオ
所属:王立リーフェン学院
ランク:A
「Aランクって、一番上のほうじゃないですか?僕なんかが、こんなすごいものをもらっていいんでしょうか」
「君の功績と実力からすれば、当然の評価だ」
ドノバンさんが力強く頷く。
「でも、僕一人じゃ絶対に無理でした」
僕はカードを握りしめ、ダンとエルナさん、ヴィクトルさんを見渡した。
「ヴィクトルさんの炎で周りが見えるようになりましたし、エルナさんの雷にも助けられました。ダンが回復薬を用意してくれていたから、安心して戦えたんです。だから、これは全員で頑張った結果です」
僕が本気でそう言うと、別室の空気が一瞬だけ固まった。
「……お前、本気で言ってんのか」
ダンが、呆れたようにため息をつく。
「我々の力など、ティオ殿の足元にも及びませんが……その慈悲深さに感服いたしますぞ!」
ヴィクトルさんが大げさに感動して、マントを翻した。
エルナさんは呆れ半分といった様子で、くすっと小さく笑う。
「ティオくんがそう言うなら、そういうことにしておくわ」
「はっはっは!強大な力に溺れず、仲間を思いやるその謙虚さ。実に見事な若者だ!」
ドノバンさんが、感心したように何度も頷いている。
どうやら、また何か大げさに勘違いされてしまったらしい。でも、みんなが無事で、ギルドの人たちも喜んでくれている。きっと、これでよかったと思う。
ギルドから学院に戻ったその日の夕方、僕たちはセオドール学院長に呼び出された。
最上階にある学院長室の、獅子と剣の王国の紋章が彫られた両開きの扉をくぐる。壁一面の本棚に囲まれた部屋は静かで、隅の大きな柱時計が、こち、こち、と時を刻む音だけが聞こえていた。その真ん中で、白く長い髭を蓄えた学院長が、一枚の封筒を手に立っている。
「やあ、よく来てくれた。ティオ、ダン、ヴィクトル。それに、エルナ殿下も」
学院長は、穏やかな声で僕たちを迎えた。
「君たちのダンジョンでの活躍は、すでに王宮にも届いているようだ」
「お、王宮って……国王陛下のいらっしゃる、あの王城ですか!?」
ダンが目を白黒させる。
「おお!ついに国王陛下までもがティオ殿の偉大さに気づかれたのですね!」
ヴィクトルさんが一人で勝手に興奮し、エルナさんは「……お父様が、私たちを?」と少し不思議そうに呟いた。
「うむ。先ほど、城の使いから直々にこれを預かってね」
学院長が差し出した封筒には、真っ赤な封蝋が押されていた。
「王城から、君たち四人への招待状だよ」




