第22話 百分の一だと少し時間がかかります
最初に動いたのは、エルナさんだった。
抜いたままの細身の剣を構え直し、僕をかばうように一歩前へ出る。柄を握る指の関節が、白く浮き出るほど力んでいた。
「ティオくん、下がって!あんな数、まともに相手をしたら……」
「大丈夫です、エルナさん」
僕はエルナさんの肩にそっと手を置き、三人の前に進み出た。
暗闇から、獣たちがゆっくりと姿を現す。筋骨隆々の体を低く伏せた四つん這いで、背中には鋭い棘が並んでいた。半開きの口からは紫色の涎が糸を引いて垂れ、岩の上に落ちるたびに、じゅっと小さく泡立つ。
東の森で出会った、あの巨大な猪の魔獣。目の前の一匹一匹が、あれよりずっと重い気配をまとっている。
(みんなには、かすり傷ひとつ負わせないようにしないと)
僕は腰からゴルドじいちゃんの木剣を抜いた。千年樹の柄は、握り慣れたところだけが少しすり減っていて、手のひらに吸いつくように収まる。村を出てから、この感触だけは何も変わらない。
「皆さんは、僕の後ろにいてください」
言い終わるより早く、先頭の三匹が同時に跳んだ。
鋭い爪が、空気を引き裂いて迫ってくる。
僕は足の力を抜き、手首の動きだけで木剣を横に薙いだ。
「薪割りの要領で、と」
百分の一の力で、すっと空気を切る。
木剣が三匹の胴に触れた瞬間、ズンッと重たい音がした。三匹はまとめて横へ吹き飛び、岩壁に叩きつけられて、それきり動かなくなる。
岩壁には、大人がひとりすっぽり収まりそうなくぼみができていた。
「えっ……」
ダンの間の抜けた声が、すぐ後ろで聞こえた。
ぱらぱらと、頭の上から小石が降ってくる。見上げると、天井の暗がりに細いひびが一本、さっきまでなかった場所に走っていた。
ここで薪割りをちゃんとやったら、天井ごと割れてしまう。
村の裏山の洞窟でも、奥で大きな音を立てるたびに母さんに叱られた。強く振りすぎれば、崩れた岩が三人の上に落ちてくるかもしれない。
「すみません。百分の一だと、少し時間がかかります。もう少しだけ、僕の後ろにいてください」
僕の言葉が終わらないうちに、群れが一斉に唸り声を上げた。
仲間をやられて怒ったのか、今度は十匹ほどがいっぺんに襲いかかってくる。
前からも、横からも、頭上の岩棚からも。
(薪割りだけだと、間に合わないな)
僕は木剣を右手に持ち替え、空いた左手で足元の石をいくつか拾った。握りこぶしに収まるくらいの、ちょうどいい重さの石だ。
村でシェラ姉と狩りをした時のことを思い出す。
『……気配には、敏感に』
目を細め、飛びかかってくる魔物たちの気配と、その動きの先を読む。
シュッ!
手加減した百分の一の投擲。それでも石礫は見えないほどの速さで飛び、頭上の一匹の眉間を正確に打ち抜いた。
「ギャンッ!」
落ちてくる魔物を半歩でかわし、死角から迫る二匹の足を、右手の木剣で軽く払う。転がったところを、そっと打って仕留めた。
「嘘だろ……あんな化け物の群れを、ひとりで……」
ダンが呆然と呟いた。
「す、すごいですぞ、ティオ殿!このヴィクトルも、黙って見ているわけにはいきません!」
ヴィクトルさんが杖を高く掲げる。先端の赤い石に、ぽうっと火の色が宿った。
「燃え盛れ、爆炎!」
放たれた巨大な火球が、群れの後方に落ちて弾けた。轟音とともに炎が噴き上がり、数匹の魔物が悲鳴を上げて後ずさる。
その明かりで、地下空洞の姿が初めて見えた。
天井は、思っていたよりずっと高い。そこから、つららのような岩がいくつも垂れ下がっている。炎の照り返しを受けて、魔物たちの影が岩壁いっぱいに大きく伸び、揺れていた。暗闇に隠れていた魔物の動きも、これならはっきりわかる。
「ヴィクトルさん、ありがとうございます!すごく助かります!」
「はっはっは!この程度の援護、造作もありません!」
ヴィクトルさんは、杖を構えたまま誇らしげに胸を張った。
「私もいくわ!紫電よ、貫け!」
エルナさんの剣先から、青白い雷光がほとばしる。雷は群れの中を枝分かれしながら走り抜け、数匹の魔物の足をその場に縫いとめた。痺れた獣たちが、ひくひくと四肢を震わせている。
「ダン、大丈夫ですか?」
「お、おう!俺は平気だ!いつでも回復薬を出せるようにしとくからな!」
ダンは鞄から赤い小瓶を何本か抜き出し、指の間に挟んで構えた。剣より、そっちのほうがずっと手慣れて見える。
その時、群れの一匹が岩壁を伝って大きく回り込み、背後からダンとエルナさんに飛びかかった。
「きゃあっ!」
エルナさんがとっさに剣で爪を受け止める。
けれど重たい一撃に押し込まれて、片膝が地面についた。
僕は前の群れから目を離さないまま、左手の石を後ろへ軽く投げた。
振り向かなくても、気配でわかる。シェラ姉に教わった狩りの要領だ。
ヒュッ、と飛んだ石は、回り込んだ魔物の眉間に吸い込まれるように当たった。魔物はエルナさんの目の前で、どさりと崩れ落ちる。
「……今、後ろも見ずに……」
エルナさんが、剣を握ったまま目を見開いた。
「お前、背中にも目がついてんのかよ!」
ダンが、悲鳴のような声を上げる。
「シェラ姉は、目をつぶっていても鳥を落としましたから」
背中は、みんなが守ってくれている。だから僕は、前だけを見ていればいい。
深く息を吸い込んで、もう一度足の力を抜いた。
(天井を割らないように、そっと。一体ずつ)
そこからは、ほとんど作業だった。
左手の石で遠くの魔物の足を止め、近づいてきたものを右手の木剣で払う。薪割りと狩りを組み合わせただけの、単純な動きの繰り返しだ。春先、畑を荒らしに来た猪の群れを裏山へ追い返した時と、何も変わらない。
ヴィクトルさんの炎が少しずつ小さくなっていく。壁に映る影の数も、一つ、また一つと減っていった。
「はっ……はっ……」
自分の息が、耳の奥で大きく聞こえる。
最後の一匹が地面に崩れると、僕は木剣を下ろした。左手に残っていた石が、指の間から滑り落ちる。石はころころと岩の上を転がって、倒れた魔物の爪にこつんと当たって止まった。
辺りには、数十匹の魔物が折り重なって、もう動かない。
「ふう……少し時間がかかってしまいました。皆さん、お怪我はありませんか?」
振り返って尋ねると、三人は幽霊でも見たような顔で固まっていた。
「……時間がかかったって、お前。たった五分だぞ」
ダンが、震える声で言った。
指の間の小瓶は、一本も減っていない。
「あの群れを、たった五分で……。少し息が上がっただけ、なんて……」
エルナさんが、ゆっくりと首を横に振る。
「やっぱり、ティオくんは規格外だわ」
「さすがはティオ殿!我々が手出しをする隙すら与えぬ、完璧な蹂躙劇!このヴィクトル、感服いたしました!」
ヴィクトルさんが、ぱんぱんと両手を叩いた。その拍子に、自分のマントの裾がまだ少しくすぶっているのに気づいたらしく、慌てて靴で踏み消している。
僕としては、天井に気を遣って、ずいぶん手間取ってしまったつもりなのだけれど。
みんなに怪我がなくて、本当によかった。
「とりあえず、ここにいるのは危ねえ。教官たちが助けに来るまで、どこか安全な場所を探さないと」
ダンが辺りを見回しながら言った。
「そうね。光を落として、壁伝いに進みましょう」
エルナさんの言葉にうなずいて、僕たちは歩き出した。右手で触れている岩壁は、ところどころ鋭く尖っていて、指先に引っかかる。足元では、燃え残った火が小さく赤く揺れていた。
けれど、ほっとしていられたのは、ほんの少しの間だけだった。
ズシン。
ズシン。
地下空洞の奥で、地面がまた重たく揺れた。さっきの群れとは比べ物にならないほど、重いものが歩く音だ。
燃え残りの火が、地響きのたびに、びくりと跳ねるように揺れた。
光の届かない闇の、高いところに、赤い光がいくつも灯る。さっきの目よりも、ずっと上だ。見上げなければならないほどの高さで、それはゆっくりとこちらへ近づいてきた。
魔道具の光の輪に、ぬっと巨大な影が踏み込んでくる。
黒い甲殻に覆われた、四足の魔物だった。高いところで光っていたのは目ではなく、その背中に無数に生え揃った、赤い水晶のようなものだ。水晶の一つ一つが、呼吸に合わせるように明るくなっては、また暗く沈んでいく。
「……あれが、この群れの親玉か……」
ダンが、かすれた声でつぶやいた。




