第21話 崩落
真っ暗な穴の中を、崩れた石の瓦礫とともに落ちていく。
耳元で、ヒューッと風が鳴っていた。下から吹き上げてくる風は冷たくて、湿った土と古い埃の匂いがする。見上げると、一層の魔石ランプの橙色の光が、みるみるうちに小さな点になって遠ざかっていった。
相当な深さだ。このまま落ちれば、外の人は脆いから、きっと無事では済まない。
(どうやって助けよう)
暗闇に目をこらすと、すぐ下でエルナさんの白い修練着がひるがえっているのが見えた。暗い穴の中で、あの白だけがぼんやりと浮かんでいる。
僕は空中で身をよじり、一緒に落ちていく大きめの瓦礫を足場にして軽く蹴った。ぐんと体が加速して、あっという間にエルナさんに追いつく。伸ばされたままの細い腕を、しっかりと掴んだ。
「ティオくん!?」
「大丈夫です。少し、我慢してくださいね」
エルナさんを胸に抱き寄せて、さらに下を見る。少し離れたところで、ダンとヴィクトルさんが手足をばたばたさせながら落ちていくところだった。
「うわああっ!」
「ひいいいっ!」
二人の悲鳴が、底の見えない穴の壁に何度も跳ね返る。ダンの背中の鞄の中で、小瓶ががちゃがちゃと鳴っていた。
僕はもう一度、近くの岩を蹴って軌道を変えた。エルナさんを右腕に抱えたまま、ダンの首根っこを左手で掴み、ヴィクトルさんのマントの襟元を右手の指先に引っ掛ける。
なんとか、三人とも捕まえられた。
ほっとしたのも束の間、頭上から大きな影が降ってきた。広間の真ん中に立っていた、あの古い石の柱だ。横倒しになったまま、ぐるぐると回りながら僕たちのほうへ迫ってくる。そのまわりを、大小の石の塊がいくつも取り巻いていた。
このままでは、三人に当たってしまう。
僕は三人から手を離さないようにしながら、空いている足で、落ちてくるものを一つずつ蹴った。
パァンッ、と軽い音を立てて、石の塊が粉々に砕け散る。最後に柱の真ん中を蹴ると、古い石はあっけなく二つに割れて、僕たちの両脇を落ちていった。細かくなった砂が、ぱらぱらと頬に当たる。
これで、上からは何も来ない。
あとは、着地の衝撃をどうやって逃がすかだ。
(ブロムおじさんに習った、力仕事の要領で……)
村の鍛冶屋のブロムおじさんは、巨大な鉄の塊や、荷物を山ほど積んだ荷車を、一人でひょいひょいと運んでいた。太い腕で鉄塊を抱えて、鼻歌まじりに坂を下りていく。その足取りは、いつも驚くほど静かだった。
『いいかティオ。重いものを運ぶときは、足腰をバネにするんだ。大地と喧嘩しちゃいけねえ。地面に力を流すように、すっと受け止めるんだぞ』
あの時の教えを思い出しながら、僕は足の力を抜いた。
暗闇の底が、急に迫ってくる。
僕はごつごつした岩が三人に当たらないように抱え込み、そっと地面に足を下ろした。
ズドォォンッ!
着地の瞬間、足元に雷が落ちたような轟音が響いた。僕は足腰を柔らかく曲げて、バネのように衝撃を受け止める。そのまま足の裏から、地面へと力を流していった。
ビリビリと大地が震え、周りにもうもうと土煙が舞い上がる。
足元の岩に、少しだけひびが入ってしまった。それでも、僕たち四人は無事に底へと降り立つことができた。
「けほっ、ごほっ……」
「いってて……あれ、生きてる?手も足もくっついてるぞ」
ダンはむせながら、自分の腕や脚をぺたぺたと触った。それから慌てて背中の鞄を下ろし、中をのぞき込む。小瓶は一本も割れていなかったらしく、長いため息が聞こえた。
僕はエルナさんを、そっと地面に下ろした。
「皆さん、お怪我はありませんか?」
僕が尋ねると、ダンが信じられないものを見るような目で顔を上げた。
「……お前、俺たち三人抱えたまま、この高さから飛び降りて無傷なのかよ」
「はい。ブロムおじさんに教わった力仕事の要領で、地面に力を逃がしましたから」
「力仕事でどうにかなる高さじゃねえだろ!」
ダンのツッコミが、暗い空間に虚しく響いた。
エルナさんは少し顔を青ざめさせながらも、僕の服の袖をぎゅっと握っている。指先が冷たくなっているのが、布越しにも伝わってきた。
「ティオくん……ありがとう。助かったわ」
「いえ、無事で本当によかったです」
僕がほっと息をついていると、ヴィクトルさんが懐から丸い魔道具を取り出した。カチッと音がして、淡い光が周りを照らし出す。
「こ、ここは……いったい、どうなっているのですか」
ヴィクトルさんの声は、かすかに震えていた。
そこは、一層の整然とした石積みの通路とはまるで違う場所だった。むき出しの黒い岩肌が、光の届く限りどこまでも続いている。壁にはランプ一つなく、魔道具の光が届くのはせいぜい十歩先までだ。その向こうは、墨を流したような闇だった。
上を見上げても、僕たちが落ちてきた穴はぽっかりと黒い口を開けているだけで、一層の明かりはもう見えない。
そして何より、空気が違った。
ひんやりと冷たいのに、ねっとりと肌にまとわりつく。湿った岩の匂いに混じって、錆びた鉄のような生臭い匂いが、かすかに鼻の奥に残った。一層ではあれほど聞こえていた水の落ちる音も、ここでは一つもしない。
息をするだけで、胸の奥がざわざわと波立つ。そんな、淀んだ気配が満ちていた。
「空気が、重いわね……」
エルナさんが袖から手を離し、細身の剣を抜いた。白い修練着の肩が、小さく上下している。
「学院の地図には、こんな場所は載っていなかったはずよ」
「ああ。たぶん、学院も把握してない未知の階層……深層ってやつだ」
ダンが額の汗をぬぐいながら、強張った声で言った。
「初心者向けダンジョンの地下に、こんな地獄みたいな場所があるなんて聞いてねえよ。生きて帰れたら、学院からたんまり見舞金をふんだくってやる」
ダンは冗談めかして笑おうとしたけれど、その口の端はひどく引きつっている。
無理もない。こんなに暗くて冷たい場所にいきなり落とされたら、誰だって怖い。
村の裏山の洞窟でも、こんなふうに空気が重くなる奥のほうには、一人で入ってはいけないと母さんにきつく言われていた。大食堂での作戦会議で話した、口から赤い火を吹く大きな蝙蝠の巣があるからだ。あそこも、入り口から少し進むと水の音が消えて、こんな匂いがした。
きっとこの迷宮の奥にも、火を吹くような珍しい生き物が棲んでいるに違いない。
僕は、足の裏に意識を向けた。
一層の床に手を当てた時、石の奥で寝息のように打っていた、あの小さな脈。今、足の裏に伝わってくるのは、もう寝息ではなかった。何かが目を覚まして、ゆっくりと身じろぎしている。そんな重さだ。
「ダン、あまり大きな声を出さないほうがいいかもしれません」
この階層には、ゴブリンやスライムとは格の違う何かがいる。
「ヴィクトルさん。魔道具の光を、もう少しだけ絞れますか」
「えっ?は、はい。ティオ殿がそう仰るなら……」
ヴィクトルさんが手元の魔道具をいじって、光を半分ほどに落とした。光の輪が縮んで、闇がひと息に近づいてくる。いつもは自信満々のヴィクトルさんが、今は杖を握る手を小刻みに震わせていた。杖の先の赤い石が、その震えに合わせて小さく揺れている。
「ヴィクトル、大丈夫?」
エルナさんが声をかけると、ヴィクトルさんはハッとして胸を張った。
「も、もちろんです!いかなる場所であろうと、ティオ殿の右腕たるこの私が……」
言いかけた言葉が、不意に途切れた。
ズン、と。
遠くで、ひどく重たい足音が響いたからだ。
「……今、何か聞こえなかったか?」
ダンが息を呑む。
僕たちは言葉をなくして、真っ暗な空間の奥へ目を向けた。岩肌に囲まれた、広い地下空洞のさらに奥。魔道具の光も届かない闇の中から、かすかな地響きが伝わってくる。
そして。
ぼうっと、暗闇の中に赤い光が灯った。
一つ、二つ。
それは、闇に浮かぶ燃えさしのような、赤い目だった。
瞬く間に、暗闇のあちこちで、三つ、四つ、十、二十と、無数の赤い目が開いていく。グチャリ、と粘り気のある足音がした。低く、腹の底を震わせるような唸り声が、幾重にも重なって迫ってくる。
さっきの生臭い匂いが、急に濃くなった。
「嘘、だろ……」
ダンが後ずさり、震える手で腰の短い剣を引き抜く。
鞄の中で、小瓶がかちりと鳴った。
エルナさんも青ざめた顔で、じりじりと下がる。
「こんなの、あり得ないわ……」
赤い目の一つ一つから、肌を刺すような殺気が押し寄せてくる。
「……おい、ティオ。あいつら、一匹一匹が森の主より上だぞ……」
ダンの声が、かすれて震えていた。
この気配には、覚えがある。村の裏山の洞窟の、母さんに入るなと言われていた、あの奥と同じだ。
外の人はとても脆い。
ここは、みんなには危ない。




