第20話 剣聖流
それからしばらく、僕たちは罠を避けて慎重に通路を進んだ。迷宮の一層には、ゴブリンやスライムの他にも、隠された落とし穴や、踏むと毒矢が飛んでくる仕掛けがいくつもあった。
でも、村の裏山に比べれば、どれも素直でわかりやすい。
「あ、ダン。その敷石は踏まないでください。壁から槍が飛び出します」
「うおっ、本当だ。あっぶねえ!」
「ヴィクトルさんは、少し頭を下げてください。天井から見えない糸が垂れています」
「おお!ティオ殿の神眼にかかれば、古代の罠など赤子も同然!」
ヴィクトルさんが大げさに両手を広げて称賛し、ダンが「古代じゃなくてただの初心者向けだろ」と呆れたようにツッコむ。
「ティオくん、右からゴブリンが三匹よ!」
「はい、任せてください」
僕は木剣を抜き、先頭のゴブリンが振り下ろした棍棒を軽く受け流した。棍棒は乾いた枯れ枝みたいに軽くて、木剣の腹で触れただけで、ゴブリンのほうがよろけてしまう。怪我をさせないように、うんと手加減して体勢を崩すだけにとどめる。
ヴィクトルさんがすかさずそこへ炎を放ち、エルナさんが雷で追撃した。
僕たちの班は、息の合った連携で魔物を退け、誰一人かすり傷すら負うことなく迷宮の奥へと足を進めていた。
「よし、この先の広間は魔物が出ない安全地帯だ。少し小休止にしようぜ」
ダンの提案で、僕たちは少し開けた石造りの部屋で足を止めた。
そこは丸い形をした広間だった。天井はさっきまでの通路よりずっと高くて、ランプの光が届かない上のほうは、夜空みたいに暗く沈んでいる。真ん中には、崩れかけた古い石の柱が一本だけ、ぽつんと立っていた。
壁際に腰を下ろして、持参した水筒の水を飲む。
順調な実習だ。このまま誰も怪我をせずに終われそうで、本当に良かった。
ダンは膝の上に地図を広げ、炭の欠片で歩いてきた道に印をつけている。その隣では、ヴィクトルさんが布で杖を磨きながら、さっきの炎の出来ばえを小声で自分で褒めていた。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れたところでエルナさんがじっと僕を見ていた。
「エルナさん。僕の顔に、何か埃でもついていますか?」
僕が首を傾げると、彼女は少しだけハッとして、それから小さく首を振った。
「ううん、なんでもないわ。ちょっと考え事をしていただけよ」
◇◇◇
――エルナ
ダンが配ってくれた携帯食料の干し肉をかじりながら、私はティオくんの横顔をじっと見つめていた。
固くて、少ししょっぱい。王城の食卓には決して並ばない味だ。けれど、石の床に座って仲間と分け合うそれは、不思議と嫌いではなかった。
「ヴィクトルさんの炎、本当にすごかったです。暗いところだと、周りまで明るくなるので助かります」
ティオくんが、杖を磨いているヴィクトルに向かって、真面目な顔でそう言った。
「そ、そうでしょうとも!ティオ殿にそう言っていただけるなら、この杖も本望ですぞ!」
ヴィクトルは胸を張ったけれど、耳の先がほんのり赤い。
あの決闘の日、ヴィクトルは呪具まで持ち出して、彼を闘技場で這いつくばらせようとした。それなのに、ティオくんはあのことを一度も口にしない。忘れたふりをしているのではなく、本当に気にしていない。勝ったあとで、座り込んだヴィクトルに手を差し出し、壊した剣の弁償の話をしていた姿を、私は客席から見ていた。
(彼はいったい、何者なのだろう)
彼は口癖のように、「村ではいちばん弱かった」と言う。
最初に聞いた時、私はからかわれたのだと思った。首席の私を前にして、わざと謙遜してみせる嫌味な平民だと。けれど一緒に過ごすうちに、わかってきた。彼は嘘をつかない。
本当に、心の底から、自分を弱いと思っている。
決闘の前の日、私が彼の身を案じて忠告した時も、彼が心配していたのは、自分ではなく相手の怪我のほうだった。
東の森で魔獣を倒した時も、ギルドで特例の昇格を言い渡された時も同じだ。誇るより先に、彼は「お怪我はありませんか」と私たちに尋ね、森の木を割ってしまったことを怒られないかと縮こまっていた。
王女だと名乗った時でさえ、彼は少し驚いて頭を下げただけだった。それからずっと、彼は私にも、ダンにも、ヴィクトルにも、まったく同じように丁寧に話す。
身分で態度を変えない人間を、私は王城で一人も見たことがなかった。
ただの村人。本人はそう言うし、本気でそう信じている。けれど、罠の気配を完璧に読み取る異常な感覚も、Aランク魔獣を声だけで怯えさせる気迫も、ただの村人の枠には絶対に収まらない。
何よりも、彼の立ち姿だ。
今も彼は、壁にもたれて水筒の水を飲んでいるだけだ。それなのに、どの方向から斬りかかっても、届く前にかわされる気がする。力が抜けているように見えて、一切の無駄も隙もない、完璧な自然体。
早朝の訓練場で、彼と剣を合わせた時のことを思い出す。
『大地に根を張り、腹の底に力を込めないと、真の斬撃は生まれないって』
村の老人に薪割りとして教わったという、その教え。言われた通りに少し腰を落としただけで、私の剣は嘘のように重く、鋭くなった。
あの圧倒的な重心の安定感と、全身の力を一点に乗せる太刀筋。
ふと、王城の奥深くにある、立ち入りが厳しく制限された書庫の記憶が脳裏をよぎった。
幼い頃、父である国王の目を盗んで入り込んだ、あの部屋。重い扉の向こうは昼でも薄暗くて、古い紙とインクの匂いがした。燭台の小さな灯りだけを頼りに、私は背丈ほどもある棚から、夢中で古い文献を引き出したのだ。
十五年前、忽然と姿を消したという、歴代最強の剣士――剣聖。
その剣聖が創り上げ、本人とともに失われたとされる一撃必殺の絶技。
流派の名は、『剣聖流』。
『大地に根を張り、全身を鋼と化して放たれる一撃。それはあらゆる魔を断ち切り、万物を両断する極致に至る』
文献に描かれていた基本の型と、ティオくんが私に教えてくれた「薪割り」の姿勢が、恐ろしいほどに重なっている。ゴーレムを真っ二つにし、Aランク魔獣をたった一振りで沈めて、背後の森まで割ったあの剣技は、まさに伝説の流派そのものではないのか。
(まさか)
私は心の中で、自分の荒唐無稽な推論を打ち消した。
辺境の村の一老人が、伝説の剣聖であるわけがない。十五年前に失われたはずの絶技が、こんなところで薪割りの要領として受け継がれているなど、あり得るはずがないのだ。
きっと、彼を教えた老人が、長い年月をかけて偶然似たような体の使い方に行き着いたのだろう。
そう結論づけても、私の胸のざわつきは収まらなかった。
彼の剣のことだけではない。あれほどの力を持ちながら、なぜ彼はこんなにも優しいままでいられるのだろう。力のある者ほど、それを誇り、人を見下すものだ。私はそういう大人たちを、王城で嫌というほど見てきた。
彼から目が離せない。
初めて会った時は、首席の私と比べられることすらなかった、得体の知れない平民だと思っていた。対抗心を燃やし、彼の化けの皮を剥がしてやろうとすら考えていた。
でも、今は違う。
彼と一緒にいると、王女としての重圧も、完璧でなければならないという窮屈さも、すべてがどうでもよくなる。いつの間にか彼を目で追ってしまい、彼に声をかけられるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
早朝の訓練場で彼が私に『きれいでした』と言ってくれた時の、あの顔が熱くなるような感覚。
この気持ちが何なのか、私にはまだわからない。
彼が誰であっても構わない。ただ、もう少しだけ、彼の剣がどこから来たのかを知りたい。
私は残りの干し肉を飲み込み、小さく深呼吸をして、立ち上がった。
◇◇◇
「そろそろ出発するぞ」
ダンが地図を丸めて鞄に押し込み、ヴィクトルさんが勢いよく立ち上がる。
僕も腰の千年樹の木剣を確かめて、歩き出そうとした。
そこへ、エルナさんがまっすぐに僕のほうへ近づいてきた。そのサファイアのような青い瞳は、何かを決意したように真剣な光を帯びている。
「ねえ、ティオくん。少し聞いていいかしら」
「はい。何でしょう、エルナさん」
「ティオくんの、その剣のことなんだけど――」
エルナさんが言いかけた、その瞬間だった。
足の裏が、ぞわりとした。
さっき通路の床に手を当てた時に感じた、あの寝息みたいな脈。それが、ふっと止まった気がした。
ドゴゴゴゴォッ!
迷宮全体が、下から突き上げられるように激しく揺れた。
「な、なんだ!?」
ダンの悲鳴が響く。
ヴィクトルさんは杖にしがみつき、エルナさんがとっさに剣の柄へ手をかけた。壁の魔石ランプが一斉に明滅し、天井の暗がりから、パラパラと土砂が降ってくる。広間の真ん中の古い柱が、ぎしりと嫌な音を立てて傾いた。
地震だろうか。
いや、違う。この感覚には覚えがある。先ほど僕が感じた、ずっと深い場所からの重く淀んだ気配。それが目を覚まして急激に膨れ上がり、下から突き上げてきている。
「危ない!」
足元の石の床に、巨大な亀裂が走る。ピキピキと嫌な音を立てて、僕たちが立っている広間の床が、すり鉢状に一気に崩落を始めた。
割れ目の下には、何も見えなかった。ランプの光をそのまま吸い込んでしまうような、底のない暗闇だけが口を開けている。
「うわああっ!」
「ひいっ!?」
ダンとヴィクトルさんが、崩れゆく瓦礫とともに暗闇へと飲み込まれていった。
エルナさんの足元の床も、無情に崩れ落ちた。白い修練着の袖が、僕のほうへ伸ばされたまま、闇の中へ沈んでいく。
「きゃあっ!」
「エルナさん!」
僕は迷わず、崩落する床の穴へと飛び込んだ。




