第19話 罠だらけの一層
ダンの嫌な予感は、どうやら外れたらしかった。
ダンジョン実習の当日。
王都から学院の馬車で少し移動した先に、小高い丘があった。初夏の日差しを受けた斜面には背の低い草が一面に揺れていて、ところどころに白い小さな花が咲いている。その麓に、僕たちは立っていた。
丘の裾には、ぽっかりと大きな口が開いている。入り口に設けられた頑丈な鉄格子は赤茶色に錆びていて、その隙間から、ひんやりとした風が吹き出していた。土と苔と、ほんの少しだけ古い水の匂いがする。
学院が管理する初心者向けダンジョン『試練の迷宮』だ。
村の裏山の洞窟も、入り口はこんな匂いがした。ただ、あそこの風はもっと冷たくて、奥のほうから何かの鳴き声が聞こえてきたものだ。ここは静かで、風の音しかしない。
「いいかお前ら、絶対に無理はするな!」
ピュータン先生の野太い声が、集まった一年生たちに響き渡る。
「ここは安全な迷宮だが、怪我をすれば痛いし、罠に落ちれば泥だらけになる。地図をよく見て、班の仲間と固まって進め。では、第一班から順に入れ!」
鉄格子をくぐると、外の明るさが嘘のように遠のいた。僕たちは四人で固まり、薄暗い石造りの通路へと足を踏み入れる。
ひんやりとした空気が頬を撫でた。壁は四角く切り出した灰色の石を積み上げたもので、継ぎ目には緑色の苔がうっすらと貼りついている。一定の間隔で埋め込まれた魔石のランプが、淡い橙色の光で足元をぼんやりと照らしていた。
天井のどこかから、ぽたり、ぽたりと水の落ちる音がする。
「地図によれば、この一層はゴブリンとスライムが出るくらいだ。罠には気をつけろよ」
ダンが片手に簡易地図を持ち、慎重に周囲を見回す。背中の鞄は実家の商会から仕入れたという道具でぱんぱんに膨らんでいて、歩くたびに中で小瓶の触れ合う音がした。
「ええ。ティオくん、前衛は私たちよ。行きましょう」
エルナさんが細身の剣を抜き、僕と並んで歩き出す。今日はいつもの制服ではなく、早朝の稽古の時と同じ白い修練着だ。ランプの光を受けて、後ろでまとめた金髪の先がときどき淡く光った。
最後尾では、剣の代わりに杖を新調したヴィクトルさんが、「ティオ殿の背中は私にお任せを!」と構えていた。杖の先にはめ込まれた赤い石が、薄暗い通路の中でやけに目立っている。
しばらく進むと、前方を歩いていた別の班の悲鳴が聞こえてきた。
「うわああっ、落とし穴だ!」
「こっちは壁から矢が飛んできたぞ!聞いてたより罠が多いじゃないか!」
「きゃあっ、スライムの粘液が!」
見れば、泥まみれになったり、服を少し破いたり、頭からベトベトの緑色の液体を被ったりした生徒たちが、半泣きで教官の待つ入り口へ引き返していくところだった。すれ違いざまに、甘いような生臭いような匂いが、むっと鼻をついた。
「なんだか大変そうですね」
僕が首を傾げると、ダンが顔を引きつらせる。
「おいおい、本当に初心者向けなのかよ。ちょっと慎重に行くぞ」
「大丈夫です。罠の場所は、全部わかりますから」
僕は立ち止まり、目を閉じた。
ランプの火がじじっと小さく鳴る音。遠くで誰かが走る足音。天井から落ちる水滴の音。そして、通路を流れていく空気の、ほんのわずかな揺らぎ。
目を閉じているほうが、かえって通路の形がよくわかる。
村でリリさんとかくれんぼをした時のことを思い出す。リリさんは幻影の底なし沼や、見えない糸で作った大岩の罠をあちこちに仕掛けていた。偽物の宝箱から煙が出たり、天井から突然古い鍋が落ちてきたりすることもある。
それに比べれば、この迷宮の罠はとても単純だ。
「ダン、そこから三歩先の床は踏まないでください。少し浮いていて、踏むと落とし穴が開きます」
「えっ?うわっ、本当だ。よく見ると石の継ぎ目がおかしい……」
ダンがしゃがみ込んで、床の石を指でつつく。周りの継ぎ目には苔が詰まっているのに、その一枚の周りだけ、苔がきれいに途切れていた。
「エルナさんは、右側の壁から離れてください。小さな穴があって、風を切る音がします。たぶん、毒のない矢が飛び出してきます」
「わかった。こうかしら」
エルナさんが素直に左側へ寄る。
「はい。ヴィクトルさんも、天井の色の違う石の下は通らないでください。たぶん、上から何か降ってきます」
「おおっ!なんと恐ろしい!ティオ殿の眼力がなければ、このヴィクトル、あわや不覚を取るところでした!」
ヴィクトルさんが大げさに両手を広げて称賛する。その大きな声が、石の通路の奥で何度も跳ね返った。
「眼力じゃなくて、空気のわずかな流れとか、足音の反響を聞いているだけです。村の裏山に比べたら、仕掛けがすごく素直でわかりやすいですから」
「いや、お前の村の裏山が異常なだけだからな」
ダンが呆れたようにツッコミを入れた。
僕たちの班だけは、まるで王都の公園を散歩するように、罠だらけの通路を安全に進んでいく。通路は何度も折れ曲がり、ときどき小部屋のような広い場所に出た。床には、先に入った班が引っかかったらしい落とし穴が、黒い口を開けたまま残っている。
途中で、通路の奥から数匹のゴブリンが棍棒を持って現れた。緑がかった肌に、ぎょろりとした黄色い目。ランプの光を受けて、棍棒の先がてらてらと濡れたように光っている。
「敵ですな!ここは私の出番でしょう!」
ヴィクトルさんが杖を構え、高らかに詠唱する。
「燃え盛れ、爆炎!」
真っ赤な炎が通路を走り、ゴブリンたちを一瞬で黒焦げにしてしまった。遅れて熱い風が僕たちの頬を撫で、焦げた匂いが石の通路にこもる。
さらに、頭上から落ちてきたスライムの群れには、エルナさんが対応する。
「紫電よ、貫け!」
青白い雷光が空気を震わせ、スライムたちは弾け飛んで消えた。ぱちぱちと小さな火花が床に散って、すぐに暗がりへ溶けていく。
「すごいです、お二人とも。僕、出る幕がありませんね」
僕は木剣を構えたまま、すっかり感心してしまった。
「ティオ殿は我々の中心で、どっしりと構えていてくださればよいのです!」
「ええ。ティオくんの負担を減らすのも、私たちの役目よ」
なんだか僕だけ何もしていなくて、少し申し訳ない気持ちになる。
それでも、罠を見つけるのは僕の役目だ。
「あ、ちょっと待ってください」
僕は通路の行き止まりで、石積みの壁に手を当てた。ほかの壁と同じ、冷たくて少し湿った石だ。けれど、指の間を、かすかな風がすうっと抜けていく。
「ティオくん、どうかしたの?」
「ここ、壁の奥に風が抜けています。たぶん、動きますよ」
僕は壁の少し出っ張った石を、指でぐっと押し込んだ。
ゴゴゴゴ、と重たい音がして、行き止まりの壁が横へ滑るように開いた。
積もっていた埃がふわりと舞い上がり、ランプの光の中で細かくきらめく。
奥は、物置ほどの小さな部屋だった。長いあいだ誰も入っていなかったのか、こもった空気からは乾いた土の匂いがする。その真ん中に、埃を被った小さな宝箱が一つ置かれていた。
「おい、嘘だろ!地図にない隠し部屋だぞ!」
ダンが目を丸くして宝箱に駆け寄る。
「あ、ダン、待ってください。箱の蓋に小さな針が仕掛けられています」
「えっ!?」
ダンが慌てて手を引っ込めた。
僕は箱の隙間に指を差し込み、カチッと小さな音をさせて留め金を外す。
「これで大丈夫です。村の木箱にも、よくこういういたずらがしてありましたから」
中には、実習用に学院が用意したと思われる、上級の回復薬が数本入っていた。赤い液体の入った小瓶が、ランプの光を受けて宝石のように光っている。
「ティオ殿の探知能力は、熟練の盗賊すら凌駕する!これぞまさに神の御業!」
ヴィクトルさんが興奮して声を上げる。
「村では、かくれんぼの時にリリさんがこういう隠し通路によく潜んでいたんです。だから、探すのは慣れているんですよ」
僕が正直に言うと、エルナさんが細く息を吐き出した。
「……ティオくんのかくれんぼは、騎士団の索敵訓練よりも過酷みたいね」
隠し部屋の宝箱も見つけ、僕たちの実習はとても順調だった。
楽しい実習になって本当によかったと、僕はほっと胸を撫で下ろす。
隠し部屋を出て、さらに奥の通路へ進もうとした時のことだ。
僕はふと、足元の床から微かな振動が伝わってくるのを感じた。
(なんだろう、これ)
僕は立ち止まり、冷たい石の床にしゃがみ込んで、そっと手のひらを当ててみる。石は、さっきまでよりもずっと冷たく感じた。目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。
かすかな空気の揺れ。
そして、ずっと深い場所から伝わってくる、重く淀んだ気配。
手のひらの下で、石の奥が、ごく小さく脈を打っている。まるで地面の下で、何か大きなものが寝息を立てているみたいだった。
それは、この一層にいるゴブリンやスライムのものとは、明らかに違っていた。
「ティオ、どうした?急にしゃがみ込んで」
ダンが不思議そうに振り返る。エルナさんとヴィクトルさんも、足を止めて僕を見下ろしていた。
「あの……下のほうに、何か大きいのがいる気がします」
僕が真剣に言うと、ダンはきょとんとした顔をした。
「下って、下の階層のことか?そりゃ迷宮なんだから、何かいるだろ」
「いえ、そういう普通の魔物じゃなくて。なんだか、すごく空気が重くて、嫌な感じのする……」
僕が言い淀むと、ヴィクトルさんが大声で笑った。
「はっはっは!ティオ殿も冗談がお上手だ!ここは学院が管理する安全な初心者向けダンジョンですぞ!」
「そうね。致命的な魔物は教官たちが事前に排除しているはずだわ」
エルナさんも微笑んで、僕の肩を軽く叩いた。
「きっと、下の階層の魔物の気配を拾ってしまったのよ。ティオくんは感覚が鋭すぎるから」
「そう……でしょうか」
僕は立ち上がり、手のひらについた埃を払った。
三人が笑って言うのだから、きっと僕の勘違いなのだろう。外の迷宮にいる魔物は、村の裏山の生き物よりもずっと小さくて脆いはずだ。
僕が気にしすぎるのはよくない。
「さあ、行きましょうか。実習の時間は限られているわ」
エルナさんの声に促され、僕は頷いて歩き出した。ランプの橙色の光が、四人の影を通路の壁に長く伸ばしている。
床の下から響く微かな低い唸りは、僕たちの足音にかき消されていった。




