第2話 街道の「害獣」
「ワイバーンだ!逃げろ!」
乗合馬車の御者が悲鳴を上げ、手綱を乱暴に振った。馬がいななき、僕を残したまま馬車が全速力で走り去っていく。
「あっ、ちょっと待って!」
声を上げたが、馬車はあっという間に土煙の向こうへ消えてしまった。
同乗していた行商人のおじさんとおばさんも、顔面を蒼白にして街道の脇の茂みに逃げ込み、ガタガタと震えている。
ワイバーン?聞いたことのない名前だ。でも、あの影の形はよく知っている。裏山の畑によく飛んできて、育てた大根や麦を荒らす、大きな鳥にそっくりだ。
商隊の馬車のそばでは、豪華な服を着た太った初老の商人が、頭を抱えて震えている。その前に立ち塞がっているのは、革鎧を着て剣と盾を構えた若い冒険者の男だった。
「ひぃぃっ!リック!なんとかしろ!」
「無理ですよベネットさん!相手はBランクだぞ、俺みたいなDランクじゃ足止めにもならない!」
空の鳥が急降下してくる。
その風圧だけで、冒険者のリックさんは吹き飛ばされ、地面を転がった。構えていた盾は、鳥の鋭い爪にかすっただけで紙細工のようにくの字にひしゃげている。
「ギャアアアッ!」
鳥が再び上空へ舞い上がり、大きく口を開けた。その口の奥で、赤い炎が渦を巻いているのが見えた。
あ、あれは危ない。
僕は手に持っていたブロムおじさんの重い鞄を地面に置き、走り出した。
「おい坊ちゃん!行く気か、死ぬぞ!」
茂みの中から行商人のおじさんが叫ぶが、放ってはおけない。走りながら、僕は街道の端に転がっていた手頃な石を拾い上げた。
思い出すのは、猟師のシェラ姉の言葉だ。
『……気配には、敏感に』
狩りの基本。風を読み、相手の呼吸を読み、一番隙のある瞬間を狙う。
ただ、母さんとの約束もある。
『外の人はもっと弱いの。だから約束。外では、力は百分の一で』
だから、本気で投げてはいけない。手首を返すだけで、ふわりと投げるんだ。
僕は鳥の動きに集中した。
炎を吐き出そうと、鳥がわずかに動きを止めた瞬間。
今だ。
僕は拾った石を、百分の一の力で軽く空に向かって投げた。
ヒュンッ、と空気を切り裂く音。
石は一直線に空へ飛び、鳥の右翼の関節を正確に撃ち抜いた。
「ギャアアアッ!?」
鳥は炎を吐くこともできず、悲鳴を上げてバランスを崩した。
そのまま錐揉み状態になって、街道のど真ん中に墜落してくる。
ズドーン!という凄まじい地響きが起きて、辺り一面に砂埃が舞い上がった。
僕は砂埃の中へ駆け込んだ。墜落した鳥はまだ生きていて、口から炎を漏らしながら立ち上がろうとしていた。鋭い牙が並んだ顎が、近づいてきた僕を丸呑みにしようと迫ってくる。
僕はそれをひらりと躱し、鳥の横に回り込んだ。
暴れる太い首を、両手でガシッと押さえ込む。
「おとなしくして」
そのまま、力を百分の一に抑えながら、地面に何度か打ち付ける。
ドスッ、ドスッ、ドスッ。
三回ほど打ち付けると、鳥は白目を剥いてぐったりとして動かなくなった。
うん、狩りの成功だ。
砂埃が晴れていく。街道は水を打ったように静まり返っていた。
倒れた鳥の首から手を離し、僕は立ち上がった。
冒険者のリックさんと、商人のベネットさんが、地面に腰を抜かしたまま、口をパクパクさせて僕を見ている。
しまった。
もしかして、他人の獲物を横取りしてしまっただろうか。村では、誰かが狙っている獲物に横から手を出すのはやってはいけないことだ。
僕は慌てて二人に頭を下げた。
「すみません、勝手に獲物を取ってしまって。でも、危なそうだったので」
「……は?」
リックさんが、絞り出すような声を出した。
「あ、あの、この鳥、要りますか?ちょっと大きすぎますけど、お返しします」
「と、鳥……?」
リックさんは震える指で、足元の巨大な魔物を指さした。
「こ、これ、ワイバーンだぞ!?Bランクの魔物だぞ!?」
「ワイバーン、という名前なんですね。僕の村では、畑を荒らすので『害獣』と呼んでました」
「害獣……」
リックさんは白目を剥いて、そのまま後ろに倒れて気絶してしまった。
「リックさん!?」
気絶したリックさんの代わりに、商人のベネットさんが這うようにして近づいてきた。
「き、君は……命の恩人だ。私と、私の商会を救ってくれた」
ベネットさんは王都で大きな商会を営んでいるらしい。別の街での仕入れの帰りに、運悪くワイバーンに遭遇してしまったのだという。
「君の乗合馬車は、逃げてしまったようだね。よかったら、私の馬車に乗っていってくれないか。王都まで送るし、お礼もさせてもらうよ」
振り返ると、乗合馬車ははるか遠くへ走り去ってしまっていた。茂みから出てきた行商人のおじさんとおばさんも、ベネットさんの商隊の荷馬車に乗せてもらえることになった。
「ありがとうございます。助かります」
僕は道に置きっぱなしだったブロムおじさんの鞄を取りに戻った。持ち上げると、やっぱりしっくりと手に馴染む。
僕たちは協力して横転した馬車を起こした。御者のおじさんが「せーの」と声をかけた瞬間に、僕が片手で少し力を入れたら軽々と持ち上がってしまって、ベネットさんがまた目玉が飛び出るほど驚いていた。
気絶したリックさんを荷台に寝かせ、巨大なワイバーンの死体も、ベネットさんの指示で解体せずに丸ごと荷台へ。
僕とベネットさんは、馬車の中へ乗り込んだ。
馬車が王都に向けて走り出す。
ベネットさんはまだ興奮冷めやらぬ様子で、窓からワイバーンの死体を見ている。
「それにしても、信じられない。Bランクのワイバーンを、石ころ一つと素手で倒すなんて。熟練の冒険者パーティーでも、一苦労する相手だというのに」
「そうなんですか?村ではよく出るので、いつもこうやって追い払ってました」
「よく出る……どんな魔境だ、君の村は」
ベネットさんは絹のハンカチで額の汗を拭い、深くため息をついた。
「しかし、これほどの完全な状態のワイバーンの素材は珍しい。翼に小さな穴が空いているだけで、鱗も牙も無傷だ。王都のギルドで売れば、金貨五十枚にはなるぞ」
「金貨五十枚!?」
僕は思わず大声を出してしまった。
村では、お金を使う機会があまりないけれど、それでも金貨一枚がどれほどの価値かはオズ先生から教わっている。五十枚なんて、想像もつかない大金だ。
「そんなに高いんですか!?あれ、肉は硬くて筋ばかりで、煮込んでも全然おいしくないのに!」
「に、肉?ワイバーンを食うのか!?」
「はい。あまりおいしくないので、村では犬の餌にしてました」
ベネットさんの動きがピタリと止まった。目を限界まで見開き、僕の顔をまじまじと見つめる。
「き、君……本当に何者なんだ?」
「え?ですから、シルト村のティオですけど」
僕は、出発の時に母さんと交わした約束を思い出しながら答えた。
「僕は村でいちばん弱かったので。王都では、百分の一の力で普通に暮らします」
僕が正直に言うと、馬車の中の空気が、スッと凍りついた。
ベネットさんはそれ以上何も言わず、ただ遠い目をして窓の外を見つめていた。




