第17話 灰の紋章
「ヴィクトル。お前には関係ない話だ。帰れ」
ピュータン先生が低い声で言うと、ヴィクトルさんは少しだけ不満そうに肩をすくめた。
「ですが、私はティオ殿の右腕たる者。主の危機とあらば……」
「いいから帰れ。これは学院からの極秘事項だ」
凄みを利かせた教官の言葉に、ヴィクトルさんもさすがに引き下がる。
「……承知いたしました。ティオ殿、何かあればこのヴィクトルをお呼びください!」
うやうやしく一礼して、ヴィクトルさんは廊下の奥へと去っていった。
「ついてこい」
僕たちはピュータン先生に連れられ、教官たちの控室のさらに奥にある、小さな面談室へ通される。部屋には窓がなく、魔石のランプが薄暗い光を放っていた。
「座れ」
先生に促され、僕とダン、エルナさんは長机の前に並んで座った。ピュータン先生は机の反対側に腰を下ろすと、引き出しから一枚の羊皮紙を取り出し、乱暴に広げる。
「お前らがギルドに持ち帰った、あの魔獣の皮の写しだ」
羊皮紙には、あの不気味な紋章が克明に描かれていた。灰色の円環の中に、爪で引っかいたような三本の線。
それを見た瞬間、僕の胸の奥が、ざわざわと波立つ。
(なんだろう、この感じ)
どうしてかはわからない。ただ、見ていると落ち着かない。
「先生、これは何かの呪いですか?」
僕が尋ねると、ピュータン先生は腕を組み、深く息を吐き出した。
「お前らは、『灰の聖印』という名前を聞いたことがあるか」
僕とダンが顔を見合わせて首を振る中、エルナさんが小さく息を呑む。
「……王家の書庫で、一度だけ目にしたことがあります。世界を灰から再生させる神を崇めるとかいう、狂信的な教団の……」
「その通りだ」
ピュータン先生が重々しく頷く。
「俺がまだ冒険者をやっていた頃、各地のギルドでまことしやかに囁かれていた噂だ。狂った連中が、魔物を操るための呪具や焼き印を使って、何かよからぬことを企んでいるとな」
先生は羊皮紙の紋章を、太い指でトントンと叩いた。
「この三本の線は、ただの引っかき傷じゃない。『竜の爪痕』を模しているんだ。連中の言う『神』ってのは、竜のことだって噂だ」
「竜の、爪痕」
僕が呟くと、胸のざわつきが、少しだけ強くなった。
「最近になって、各地で討伐された強力な魔獣の体に、これと同じ焼き印が見つかっている。王都の近郊で発見されたのは、今回が初めてだ」
ピュータン先生は、眉間に深い皺を刻んだまま、低い声で言葉を続ける。
「ギルドが、お前らの倒したあの森の主の亡骸を、専門家を呼んで詳しく調べたそうだ。あの赤茶色の剛毛を持つ巨大な猪型の魔獣は、本来なら東の森のずっと奥深く、自分の縄張りから決して出てこない、おとなしい部類の生き物らしい」
「おとなしいって……あんな巨体で、木をなぎ倒して突進してきたんだぞ」
ダンが信じられないという顔をして、大げさに身震いをした。
「ああ。だが、この紋章を焼き付けられた魔獣は、ひどく気が立って、縄張りを離れて無差別に暴れ回るらしい。森の動物が消えていたのも、あのブラックウルフの群れが怯えて逃げてきたのも、すべてはそのせいだろう」
ダンの顔色が、さっと青ざめる。
「じゃあ、誰かがわざと魔獣を暴れさせてるってことかよ……。迷惑な話だな」
「村の牛も、虻に刺されると暴れるんです。あの紋章、虻みたいなものなんでしょうか」
僕が首を傾げて感想を言うと、ピュータン先生は少しだけ呆れたように目を丸くする。
「……まあ、遠くはねえな。無理やり魔力を注ぎ込んで、痛めつけて発狂させているようなもんだ」
「つまり、その『灰の聖印』とやらが、王都のすぐ近くまで入り込んでいるということですか」
エルナさんが真剣な顔で問う。
「可能性は高い。ギルドも騎士団も、水面下で調査に乗り出している。お前らは下手に首を突っ込むな。この話は他言無用だぞ」
「はい、わかりました。怖い人たちには近づかないようにします」
僕が素直に頷くと、ピュータン先生は少しだけ表情を和らげた。
「まあ、Aランクの魔獣を一撃で屠るお前に近づく馬鹿は、そうそういないだろうがな」
先生はそこで言葉を切り、探るような目で僕を見た。
「坊主。報告書には、魔獣を声で止めたとあったが……本当か」
「はい。父さんに教わった牛追いです。暴れた牛を落ち着かせる時の」
「……」
先生は沈黙し、僕の顔をじっと見つめる。その眼光は、以前、訓練場で僕の木剣の太刀筋を見た時と同じ、相手の力を測るような鋭い視線だった。
数秒の静寂の後、先生はゆっくりと息を吐き出す。
「声だけで、Aランクの突進を止める……そんな芸当、長いこと冒険者をやってきたが、聞いたこともねえ」
ピュータン先生が、信じられないものを見るように低くつぶやいた。
「村では、父さんのほうがずっと上手でしたけど」
僕が本気でそう答えると、隣でダンが両手で頭を抱え込む。
「もうやめてくれ、俺の常識が持たねえ。頼むからこれ以上、変なものを出さないでくれよ」
「お前は少し黙ってろ」
先生は短くため息をつき、それから真剣な顔つきに戻る。
「坊主。もう一つだけ聞く。あの紋章に、触ったか」
「はい。少しだけ。……焦げた匂いがした気がしました」
僕が正直に答えると、ピュータン先生は眉間に皺を寄せて深く黙り込んだ。腕を組み、難しい顔をして考え込んでいる。
「……そうか。気のせいならいいがな」
先生はそれだけ言うと、机の上の羊皮紙を無造作に丸めた。
「話はそれだけだ。解散。……ああ、そうだ」
立ち上がろうとした僕たちを、ピュータン先生が呼び止める。
「夏休みの前に、一年生は『ダンジョン実習』がある。四人一組の班を作るから、誰と組むか決めておけ」
「ダンジョン実習、ですか」
「学院が管理している、初心者向けの安全な迷宮だ。魔物との実践経験を積むためのものだが……まあ、お前らにとっては遊びみたいなもんだろうな」
「遊びだなんて。僕なんて、村の裏山くらいしか探検したことがありませんから」
「……その裏山より、よっぽど安全だよ」
先生が呆れたように額を押さえた。
初心者向けのダンジョン。
どんなところだろう。村の洞窟みたいに、蝙蝠がいっぱいいるのだろうか。きっと、王都の迷宮だからもっと綺麗に整備されているに違いない。
そんなことを考えながら、僕たちは面談室の重い木の扉を開けた。
「ティオくん」
部屋を出たところで、エルナさんが僕の袖を軽く引いた。
「はい、エルナさん」
「ダンジョン実習の班、私と組みましょう」




