第15話 森の主と牛追い
魔獣は僕たちを威嚇するように、大地を震わせる咆哮を上げた。
ビリビリと鼓膜が揺れ、森の奥の木々がざわめく。
あまりの音圧に、足元の落ち葉が吹き飛んだ。
「下がって、ティオくん!」
エルナさんが僕の前に立ち塞がり、細身の剣を上段に構えた。
「雷帝の槍よ、穿て!」
先ほどの魔法よりもさらに強い、眩い光が迸る。
極太の雷の槍が放たれ、魔獣の分厚い額に直撃した。
激しい閃光と轟音が弾け、周囲に土煙が舞い上がった。
しかし。
煙を突き破り、魔獣が全くの無傷で姿を現した。
「嘘……」
エルナさんが信じられないものを見るように目を丸くした。
直撃したはずの額には、焦げ跡すらついていない。
赤茶色の剛毛が、魔法の威力を完全に弾き返している。
雷に怒り狂ったのか、魔獣が後ろ足で強く地面を蹴った。
ドゴォッ、という地響きとともに、二階建ての家ほどもある巨体が突進してくる。
大地がひび割れ、周囲の木々が次々とへし折られて宙を舞った。
圧倒的な質量と暴力が、僕たち三人に向かって一直線に迫ってきた。
「逃げろ!あんなの、まともに食らったら挽き肉になっちまう!」
ダンが悲鳴を上げ、呆然と立ち尽くすエルナさんの腕を力いっぱい引っ張ろうとする。
でも、この速さでは到底逃げ切れないだろう。
(村の牛が暴れたときと、同じだ)
僕は落ち着いて、二人の前に出た。
「ティオくん!駄目よ、逃げて!」
エルナさんが叫ぶけれど、僕は魔獣から目を逸らさない。
村で父さんの仕事を手伝っていた時のことを思い出す。
父さんは無口で、牛の世話をしている時はほとんど喋らなかった。
でも、春先に気の立った牛が柵を壊して暴れ出した時だけは、低く鋭い声を出した。
その声を聞いただけで、どんなに猛り狂った牛でも、たちまち大人しくなって震え上がったものだ。
『……腹から声を出せ』
父さんに教わった通りにやってみても、僕の牛追いは父さんの足元にも及ばなかった。
それでも、村の牛くらいなら、ちゃんと落ち着いてくれたはずだ。
外の人は脆いから、声を大きくしすぎて鼓膜を破らないように、うんと手加減をして。
僕は腹の底に少しだけ力を込め、迫り来る巨大な牙をまっすぐに睨みつけた。
そして、短く、一喝する。
「落ち着いてください」
それは、ただの丁寧な声だったはずだ。
でも、その瞬間。
ギィィィンッ、と。
空気が軋むような音がして、世界から一切の音が消え失せたような錯覚に陥る。
森の木々を揺らしていた風が不自然に止み、周囲の空間そのものが重く沈み込んだ。
猛烈な勢いで突進してきていた魔獣の巨体が、ピタリと止まる。
四本の太い足が大地に深く食い込み、地面を大きく抉りながら、不自然なほど急激に動きを止めた。
「え……?」
背後でダンが間の抜けた声を漏らした。
魔獣は僕の目の前、あとほんの数歩の距離で立ち止まっていた。
こちらをぎょろりと見下ろしていた、あの赤黒く濁った巨大な眼球は、今やすっかり白目を剥いている。
ブルブルと、家ほどもある巨体が小刻みに震え出した。
まるで、絶対的な死の恐怖に直面したかのように、後ずさりすらできずに硬直している。
牛追いのおかげで、すっかり大人しくなってくれたようだ。
村の牛も、父さんの前ではいつもこんな風に固まっていたっけ。
これなら安全だ。動かないなら、今が好機だろう。
僕は腰からゴルドじいちゃんの千年樹の木剣を抜いた。
「薪割りの要領で、と」
僕は、ゴーレムの時と同じ百分の一の力で、木剣を魔獣の首の付け根にそっと振り下ろす。
すっ、と木剣が空気を切り裂く、微かな音がした。
木剣が触れた瞬間、魔獣の巨体がぐらりと揺れた。
そのまま地響きを立てて横倒しになり、二度と起き上がらない。
ずしんと重たい音が森に響き渡る。
遅れて、魔獣の背後の地面に、一直線の深い裂け目が走った。
ズバァッ、という音と共に、その先にあった大木が三本、縦にきれいに割れて左右に倒れた。
どうやら、薪割りの勢いが余ってしまったらしい。
「あ、木まで割ってしまいました……」
僕は思わず声を上げ、少し慌てた。
魔獣を大人しくさせるつもりだったのに、うっかり周りの木を壊してしまうなんて。
ゴーレムの時は弁償しなくていいと言われたけれど、今回はどうだろう。
ギルドからの依頼で来たのに、森の木を三本も駄目にしてしまった。
村から仕送りが来たら、少しずつでも弁償したほうがいいかもしれない。
静まり返った森の中に、落ち葉が舞い落ちる音だけが響いている。
僕は木剣を腰に収め、二人を振り返った。
「少し暴れん坊でしたけど、村の牛と一緒ですね。お二人とも、お怪我はありませんか?」
僕が尋ねると、ダンとエルナさんは幽霊でも見たかのような顔で固まっていた。
やがて、ダンが頭を抱えてしゃがみ込む。
「牛!?今、お前、牛って言った!?」
「はい。村の牛が暴れた時は、あんなふうに声を出して落ち着かせるんです」
「あんなの、どう見ても牛じゃないだろ!Aランクの魔獣だぞ!それを一喝して動きを止めた挙げ句、木剣の一振りで森ごと割る牛飼いがどこにいるんだよ!」
ダンが森に響き渡るような大声でツッコむ。
「ここにいますけど」
僕が首を傾げると、エルナさんがふらふらとした足取りで歩み寄ってきた。
そして、倒れた魔獣の巨体と僕の顔を交互に見比べる。
「……私の全力の魔法を弾き返した魔獣が、ティオくんの声一つで怯え上がっていた。それに、木剣の一振りで森まで割るなんて。やっぱり、常軌を逸しているわ」
「そんな。ただの牛追いですし、剣も百分の一くらいしか力を入れてませんから」
「……もう、驚くのにも疲れた」
エルナさんが額を押さえて、小さくため息を吐き出した。
「でも、助かったわ。ありがとう、ティオくん。あのままだったら、私たち三人とも、ここで命を落としていたかもしれない」
「いえ、お役に立ててよかったです」
僕たちがほっと一息ついていると、ダンが魔獣の亡骸の前にしゃがみ込んだ。
「おい、ちょっと見ろよ。こいつの額、なんか変だぞ」
ダンの声に呼ばれ、僕とエルナさんもおそるおそる近づいていく。
ダンが額の分厚い剛毛をかき分けると、その下の皮膚に、奇妙なものがはっきりと刻まれていた。
僕の掌よりもずっと大きな、焼き印のようなものだ。
毛皮が不自然に焼け焦げてできたような痕だった。
灰色の円環の中に、鋭い爪で引っかいたような三本の線が深く描かれた、不気味な紋章だ。
「なんだ、これ。生まれつきの模様じゃないよな」
「ええ。誰かが、人工的に焼き付けた痕のように見える。ギルドが言っていた妙な気配の原因は、これかもしれない」
エルナさんが険しい顔で紋章を見つめた。
誰かのいたずらだろうか。それとも、魔物使いのような人がいるのだろうか。
気になって、僕はその灰色の紋章にそっと指先で触れてみた。
その瞬間。
ツン、と鼻先を何かがかすめた。
焦げた木の匂い。熱を帯びた風。
そして、微かな血の匂い。
(……あ)
それは、忘れていたはずの夢の中で嗅いだ、燃え盛る村の匂いだった。




